36.悪夢ー終わりとー

 目を開けると、視界に映るのは見慣れた天井だった。

 頭が酷く重いけれど、それよりも深刻なのは喉の渇き。お腹も空いた。


「クレアさん、体の調子はどうですか?」

「レオナさん……」


 ベッドの横に座っていたレオナさんが声を掛けてくれる。その声は穏やかで優しいものだった。

 わたしは体を起こして、周囲を見回す。うん、借りているわたしの部屋だ。カーテンの開けられた窓から差し込む光は明るい。……明るい? 夕方だった気がするのに。


 水の音が聞こえてレオナさんに目を向けると、彼女はミントを浮かべた水差しから、グラスに水を注いでいるところだった。


「どうぞ」

「ありがとうございます。もう喉が渇いちゃって……」

「丸二日眠っていましたからね、きっとそうだと思いました。食事もいま準備するので、少し待っていてくださいね」

「……二日?」

「二日」


 ちょっと寝すぎじゃないのか、わたし。

 自分に呆れるけれど、受け取ったグラスの水を一気に飲み干した。鼻に抜けるミントの香りに、ぼんやりしていた頭がすっきりしていく。


「アルト様がついていたんですが、魘される様子がないので私と交代しました。アルト様も寝ていませんでしたから、今は休んで頂いています」

「それはまた申し訳ない事を……」

「夢はどうでしたか?」

「見ました、勇者の夢」

「えっ」


 席を立とうとするレオナさんが固まった。わたしと、枕元の魔導具を交互に見ている。ああ、ここに魔導具を置いてくれたのか。

 わたしは魔導具を手にすると、銀で作られた蜘蛛を指でなぞった。ん? 少し大きくなってない? いやいや、まさかね……。


「見たんですけど、この蜘蛛が夢に現れて。この太い脚で、勇者を一刀両断ですよ」

「それは頼もしいですね」


 固まっていたレオナさんが元に戻る。安心したように息をついているので、またわたしは心配をさせてしまったようだ。


「夢の中の勇者って、間違いなく死んでると思うんです」

「私も是非その光景を見たかったです」

「夢の中で死んだら、現実世界でも死んだりしないでしょうか」

「死んでくれたら大団円ですね」

「全くブレないその姿勢が好きですよ」


 相変わらず勇者に対しては辛辣だ。

 でも気持ちもすっかり晴れている。可笑しくて思わず笑いが零れた。


「食事を準備してくるので、待っていてくださいね」


 レオナさんはわたしのグラスをまた水で満たしてから、部屋を後にする。わたしはそれを見送ってからベッドを降りて、大きく伸びをした。凝り固まった体がぼきぼきと鳴る。

 寝すぎたせいか少しだるいけれど、まずは身支度。わたしは洗面台に向かって顔を洗った。

 本当はお風呂に入りに行きたいけれど、レオナさんが食事の準備をしてくれるんだから、それを取ってからの方がいいだろう。今日はもう、長湯をしよう。絶対そうしよう。

 クローゼットから紺色のワンピースを選んで、それを着る。髪はうなじでひとつにまとめ、くるくるとねじり上げてバレッタで留めた。


 窓を開けると冷たい空気が部屋を満たす。すっかりと秋も終わりに向かっている。もうすぐ雪も降るのだろう。

 風に揺れるカーテンが顔にあたる。それを留めてからベッドに向かい、乱れた毛布を整えた。スプレッドを直して、枕も直して……。


 ――コンコンコン


 ノックが響く。レオナさんかな? それにしては早いけれど……。

 不思議に思いながら扉に近付く。開いたその先にはアルトさんがいた。


「アルトさん」

「よく眠れたみたいだな」

「はい、それはもうぐっすりと」


 部屋に招き入れると、すっかり室内が冷え切っている事に気付いた。アルトさんに椅子を勧めてから窓を閉める。


「夢は見たか?」

「はい、勇者の夢を」


 そう言うとアルトさんの動きが固まってしまう。この会話もさっきのレオナさんとかぶるな、なんて思わず笑みが漏れた。アルトさんの肩を押して椅子に座らせると、わたしは整えたばかりのベッドに腰掛けた。


「勇者が出てきて、もう抗えないなって諦めそうになったんですけど、アルトさんが出てきたんです」

「……俺が?」

「そう。アルトさんは大きな蜘蛛に姿を変えて、この脚で勇者を二分割」


 枕元の魔導具をアルトさんに掲げて見せる。蜘蛛が得意げに見えるのはわたしの贔屓目だろうか。


「二分割」

「ええ、それはもう見事なまでの一刀両断でした」

「……くくっ、はははっ!」


 何を想像したのか、アルトさんが声をあげて笑っている。口に拳をあてて可笑しそうに笑うものだから、つられてわたしも笑ってしまった。


「それは俺も見たかったな」

「夢の中の勇者は間違いなく死んでますよ」

「こっちの世界の勇者も死んでくれてたらいいんだけどな」

「アルトさんも大概辛辣ですね」


 アルトさんは立ち上がると魔導具を手に取る。その蜘蛛を指先でなぞると満足そうに口端を上げた。


「よく守ってくれたな」


 それは蜘蛛にかけられた言葉だった。


「蜘蛛が空間を食べてくれて、わたしはあの悪夢から逃げられたんです。蜘蛛の巣まで張ってくれて、もう悪夢がわたしを追いかけてこれないようにしてくれて」

「それは益々良くやってくれたな」

「でも何でアルトさんの姿だったんでしょうねぇ」

「俺も魔力を注いだからかもしれない」


 そうか、魔導具を起動するのに、わたしの魔力だけじゃ足りなかったんだった。アルトさんの魔力が混ざり合った事で、蜘蛛が干渉する時の媒体に彼の姿を選んだのかもしれない。


 わたしが納得していると、ノックの音が響いて、扉からレオナさんが顔を覗かせた。


「アルト様もこちらにいらしたんですね。食事の用意が整いましたよ」

「はい! もうお腹がぺこぺこです!」


 わたしは足取り軽く扉へと向かった。苦笑するアルトさんもそれについてくる。

 皆揃って部屋を出た時に、何だか視線を感じた。


「……え?」


 部屋を覗いても、周りの気配を探っても誰もいない。

 枕元には銀色の蜘蛛が輝くばかり。窓の向こうにも穏やかな空が広がるばかりだ。


「どうした?」

「いえ……なんでもないです」


 気のせいか。

 そんなことよりごはんごはん! 食べなきゃ元気が戻らないからね。

 もう一度振り返るけれど、わたしの影が伸びているだけだった。

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