ヒーローより
突然のメール失礼します。
あなたの行動があまりにも立派で感動してしまい、部外者ながらお礼を申し上げたくご連絡さしあげました。
地域に住む者として、私は先日の豪雨による川の増水にはかなり神経質になっていました。
あの後も度々降る雨で水位は下がらず、私は周りの者に注意を払うように告げていましたが、気象庁が警報が取り下げられた途端に安心してしまうのは人間の性なのでしょう。
元々川魚がたくさん釣れうなぎすらもかかると評判なあの川には、また普段のようにたくさんの人々が訪れ始めました。
それが日常を思わせたのでしょう。正常性バイアスという言葉もあるように「もう大丈夫だ」と住人すら川縁で思い思いに過ごすようになりました。
そんな中、日中に降った雨が止み夕暮れの太陽が眩しかったあの日。一人遊びをしている少女が川へ寄っていくのを見てしまいました。
フナ釣りかザリガニ採りか。どちらにしろ危ない。そう思いながらも躊躇してしまいました。
還暦近い男の私が小学生の女の子に声をかけようものなら警察に通報され事案となり、SNSに晒されて人生が壊されかねません。
既に私は過去に一度似たような目に会い、せっかくの行為も虚しく職も家族も失ってしまったのです。
正直なところ怖さが勝ってしまいました。
しかし私の予想通り、少女は川に落ちてしまいます。助けようにも嫌な思いが過って体が動きません。
人助けをしたはずが疑われて懲役刑を受けた、あの忌まわしい記憶が蘇って指一本曲げられませんでした。
そんな時、あなたは果敢にも溺れた少女の元へ駆け寄り、川岸から垂れているしだれ柳の枝に捕まるよう声をかけ、それができないと知るや浮かんでいた流木に乗るよう声を張り、できたのを見たあなたは川へ飛び込んで泳いでいきました。
私は息を飲みながら行方を見守ることしかできません。
流されていく少女。泣き叫んでいます。あなたも速い流れに逆らいながら泳いでいたので苦しそうでした。
いつの間にか周りに集まっていた野次馬たちが口々に頑張れと叫んでいます。
数分のことだったと思いますが、ただ見ている私は何十分にも感じました。
ましてや人を、子供を助けようとしたあなたはかなりの長い時間に思えたことでしょう。
そうしてあなたの手が少女の服を掴んだ時、歓声が沸き上がりました。
誰かが通報していた救急車とレスキューが案内をして二人が救出された時にはテレビも来ていて、拍手を受けたあなたは照れくさそうにしていましたね。
しかも私を感動させたのは、名前も名乗らずその場を後にしたことです。
ずぶ濡れなのにニコニコ笑顔を浮かべながら、服の水を絞りつつ帰る後ろ姿は完全にヒーローでした。
賞賛の言葉しかありません。それがお礼です。
私の代わりにあの少女を救ってくれてありがとうございました。
──ですが。
あなたと同じようなことをしたのに、少女に対する強制猥褻とされて収監された私との違いは何だったのでしょうか。
そんな気持ちが沸々と蘇ってきました。
許せなかったのです。
私もあの時、あの少女を救いました。しかし今回のように野次馬がいないことが私に災いしたのです。
断じて変なことはしていません。ずぶ濡れになっていたから服を脱がせて水を絞っただけです。
その時にはずみで体やデリケートな場所に触れたかもしれませんが、それは別の話です。
なのにあの子はそれを母親に告げ、家族はあろうことか私を刑事告発しました。
警察や検事もあの子の言うことを信じて私を取調べ、裁判官は証人の証言を鵜呑みにして私に罰を下しました。
拘置所と独房での暮らしは悲惨そのものでした。子供の命を救った者に対する敬意など微塵もありません。同じ部屋の犯罪者には変質者だと詰られ暴力すらふるわれたのです。
しかし今は誰も恨んでいません。それは済んだことだからです。
でも私の指先には忘れられない感触がありました。網膜の奥にはいつまでも消えない表情があったのです。
あの感動をもう一度味わいたかった。なのに、あなたが邪魔をしたのです。
あなたは立派でした。ですが私の野望を阻止したのです。
少女が川に落ちるよう入念な準備をした私の努力を無駄にしましたね? 私が浴びるはずだった賞賛をあなたが受けましたね?
誰もいなければ、私が救った少女の命という、すなわち私が自由にしていい人間を得て人生を豊かに過ごすはずの計画を阻止しましたね?
本当に許せなかったのでこの手紙を差し上げました。
名も名乗らずいずこかに消えたあなたの住所と名前を知っている理由はもうご存知でしょう?
後をつけたからです。
こんな手紙を送った理由ももうご存知でしょう?
この地域にヒーローは二人といらないからです。
ヒーローは幸せになるべき。
あなたは不要です。私がヒーロー。
不要な人はしかるべき罰を受ける必要があります。
さあ、今……鍵を開けますからね……。
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