舞い降りた天使へ
斉藤仁美は苛ついていた。
背負っているリュックが重かったからだ。夫から頼まれて買ってきた本が分厚く、五千円もしたことにも腹が立ってくる。
コンピューター関係の技術書なのに、どうしてネットで取り扱っていないのか。
抱っこひもの中にいる娘も、二歳児にしては十五キロと重たい。自分はセーブしているのに、夫が甘やかしすぎて色々と菓子やジュースを与えすぎているせいだ。
家事の手伝いもせずに、出張と称しては飲み食いして帰ってくる太った夫にも苛ついてきた。
たまに文句を言うと、金を稼いで来ているのだからと反論してくる。安月給の癖に何を言っているのか。
さらに仁美を苛立たせているのは、混んでいるこの地下鉄で誰も席を譲ろうとしないことだった。
目の前の席で寝ている中年男にもムカついてくる。
薬指に指輪は見えない。痩せぎすで薄らハゲだし、口説かれる女なんていなかったのだろう。
着ているものも作業着だから、どこかの工事現場で一日数千円の日雇いで働いている、いわゆる底辺のはず。
そんな男が、気持ち良さそうに寝ていることが許せなくなってきた。
――あんたより、子供を産んで育てている私のほうがよっぽど世間に貢献しているのに、どうして座らせないのよ。
車内のアナウンスが停車駅を告げる。
次の駅はベッドタウンだったため、大勢の乗客が降りる準備を始めた。
仁美も降りようとドアの位置を確認した時。
「うん……?」
薄らハゲの中年男が目を覚ました。
あたりを少し見回す。降りる駅ではないと感じたのか、再び目を瞑ろうとした時、仁美と目が合った。
「あ、すいません。気づかなくて」
そう言いながら中年男が立ち上がった。
――何よ、今さら。どうせイイヒトの演出でしょ。底辺が。
「別に座る気ありませんけど」
クズみたいな人間に気を遣われたことにも腹が立ってきた。
「え……? ですが、重そうですし、お子さんもいるみたいですし……」
「平気だって言ってんでしょ」
仁美の言葉に、中年男は少し傷ついたようだった。
その時。
「あっ」
電車が停まろうとして車両がガクンと動いた。
手すりを掴んでいた仁美は少し体を揺らせただけで留まったが、狭いスペースで立っていた中年男は掴まるものがなく、倒れるのを堪えようと手を伸ばしたところ――仁美の腰を掴んでしまったのだ。
その瞬間、仁美の体に嫌悪感が走り、全身に鳥肌が立った。
「何すんのよ、痴漢!」
その悲鳴で、何人もの乗客が振り返る。
「痴漢だって?」
「捕まえろ!」
電車が停車すると、近くにいた数人の乗客が中年男の体を押さえつけながらホームに引きずり出した。
仁美も一緒に車両の外へ出る。
そして、汚いものを見るような目で、中年男を見下ろした。
――底辺が、あたしの体を触りやがって。
騒ぎに気づいてやってきた駅員が、どうしたのかと聞いてきた。
「痴漢です。この男。私のお尻を触ったんです。捕まえてください」
すると、中年男はホームの地べたから仰ぎ見るようにして、首を横に振った。
「わ、私は痴漢なんてしてません。偶然触っちゃっただけで……」
「その右手でしっかりお尻触ったじゃない! 何言ってんのよ!」
「ですから、それは偶然で……」
「認めてるじゃない! その汚い手であたしのお尻触ったでしょ! 馬鹿なの!? 死ねよ!」
その言葉を聞いて、中年男は泣きそうな顔になった。
「い、いえ……電車が停まった時の揺れで偶然触ってしまっただけで……どうか、許してください」
隙間の空いた髪をホームの風にゆらゆらと揺らせながら、上目遣いに懇願してくる中年男の目。
そして彼は地べたに額を擦りつけて土下座した。
前にも駅でこんなことがあったなと、仁美はサディスティックな気持ちがまた湧いてくるのを感じていた。
「本人は認めていないようですが……痴漢として訴え出ますか?」
困ったように二人を見ていた駅員がそう聞いてきた。
その口ぶりにも仁美が苛つく。
「当たり前じゃない! あんたも馬鹿なの? 今まで何見てたのよ! いいからさっさと連れていきなさい!」
なじられた駅員はバツの悪そうな顔で頷くと、近くにいた駅員を呼んできて中年男を連行していった。
別の駅員から宥められつつ事務所へ案内されながら、仁美は考えた。
訴えるなんて手間はかけるつもりもない。だが、もう少しあのおもちゃで遊びたかった。
そうだ、示談で許してやることにしよう。
あの貧相な男のことだから蓄えもないはず。数十万も奪えば生活に困るだろう。底辺が最底辺になるのは見物だ。
あの男の、泥水をすするような生活を想像しただけでも楽しくなってくる。
せしめた金でママ友たちとちょっといいディナーでもすれば、さらに鬱憤は晴れるだろう。
残った金は何に使おうか。
そうだ、スマホを買い換えよう。
あのゲームもスムーズに動くはず。
事務所への道すがら、仁美は思わずほくそ笑んでしまった。
高木和広は苛ついていた。
営業をサボって適当な日報を書いていたらそれがバレてしまい、全員の前で営業所長に叱られてしまったからだ。
減給は言い過ぎだろう。月に二、三日、会社の車で遠出をしておいしいディナーを味わっていただけなのに。
今日はもういい、帰れというから本当に帰り支度をしたらまた怒られた。さらには他の人の仕事まで押しつけられて、こんな時間になる始末。
二十時を超えたばかりの地下鉄は混んでいて、隣の女のバッグが腹に刺さり、背後にいる男の体温が不快で、さらに苛立ちを募らせていった。
憂さ晴らしに飲みにでも行こうか。
しかし、給料が下がるかもしれない財布のことを思い出して二の足を踏んでしまい、今度は腹が立った。
――気晴らしがしたい。
そんな時、目の前にいた中年男が視界に入ったのだ。
まばらな頭髪に精気のない顔。着ているのも作業着だから、ろくな仕事をしていないのだろう。
和広は右手にスマホを持つと、中年男の頭近くにあるつり革を掴んだ。
スマホのストラップが中年男の顔に当たる。
それが彼には不快だったらしく、頭の位置をずらし始めた。しかし和広はスマホの握り方を変えて追い打ちをかける。
今度は中年男が首の角度を変えてストラップを避けようとした。だが和広は許さない。
体ごと近づけるようにしてストラップを当てながら、和広は思った。
――いいおもちゃを見つけた。
どこまで我慢できるのだろう。貧相な顔つきだし、おそらく終点ぐらいの駅にある安いアパートで一人暮らしをしているはず。
つまり、あと二十分ぐらいは楽しめるのだ。
そう思った矢先、中年男が悲しそうな目をしながら呟いた。
「……あの、やめてもらえませんか」
その言葉に、和広は純粋にムカついた。
――底辺みたいな顔しやがって、何で一般人様に反抗するんだよ。
和広はストラップごとスマホを握りしめると、中年男を睨み付けながら大きく舌打ちした。
「何がだよ」
「その……ストラップを顔に当てるのをやめてもらえませんか」
「はあ? ストラップ? 何言ってんだ、お前。当たってねえだろうが」
「今はしまってますが、さっきは私の顔に当たってたんです」
「ああ? だから、いつ当たってたんだよ? お前、言いがかりつけてんじゃねえぞ! おい!」
和広がすごむと、中年男は萎縮したように肩を縮めて、今にも泣きだっそうな顔をした。
これはこれで面白い。
どこまで暴言を吐けば泣くのか。貧相な男が涙を流してうろたえる姿はさぞ滑稽だろう。
「そんな証拠あんのかよ? 俺に因縁つけて、金でも巻き上げようってのか! このうすらハゲ!」
中年男はさらに悲しそうな顔をしながら首を横に振る。
「そ、そんなつもりはありません。ただ……ストラップを当てるのをやめてほしかったんです」
「だから、当たってねえって言ってんだろ! てめえ、俺に言いがかりつけて何しようってんだ! 底辺がよ!」
その時だった。
車内のアナウンスが次の停車駅を告げると、ガクンと動いたのだ。
揺れた電車が乗っている乗客たちを動かす。
よろめいた中年男の頭が、和広の顎に当たってしまった。
「いってええ!」
大げさに顎をさすりながら、和広は中年男の襟元を掴んだ。
「てめえ、俺にヘッドバット食らわしやがったな! ハゲ頭で!」
駅に着いた電車が停車すると、和広は中年男の首を掴まえながらホームに降りて、その胸をどんと突いた。
中年男が背中から倒れ込み、背負っていたリュックが落ちる。
和広を見上げる彼の目は、完全に怯えていた。
しかし、和広は感じ取っていた。いや、無理にでも感じ取った。彼の瞳の中に、自分を侮蔑するような光があったことを。
「何だよその目は! やんのか!」
騒ぎを聞きつけた駅員がやってきた。
「どうされたんですか」
「どうされたもこうされたもねえんだよ! こいつがいきなり俺にヘッドバット食らわせやがったんだ。ああ、痛ぇ。なあ、あんたも見たよな!」
和広が同じ駅で降りた乗客に問いかけると、若い男はうんと頷いてその場を立ち去った。
そうそう。前もこうやったら何人か同意してくれた。
流れは完全にこっちのものだ。
「ほらな! あー痛ぇ。くそ……訴えてやる!」
倒れている中年男はどうしていいか分からないように、うろたえていた。
立ち上がろうとするも、力が入らないらしく、ずるずると動いてしまう。どうやら失禁しているようだった。
「何見てんだよ! 俺に言いがかりつけて暴力まで振りやがって!」
「い、いえ、私は何も……」
ヒートアップする和広と怯えている中年男を、ホームの乗客たちは遠巻きに見ていた。
それに気づいた駅員が二人の間に割って入る。
「お客さま。他のお客様のご迷惑になるので、どうか事務所に……」
――他の客の迷惑になる?
その言葉が和広の逆鱗に触れた。
「何だよてめーは! 駅員だろ!? お客様は神様なんだろ! いいからさっさとこいつ逮捕しろよ!」
「い、いえ、私は警察ではないので逮捕は……」
「役立たずがよ! だったらどうしろってんだ! 早くしろクズ!」
駅員は困りながらも応援を呼び、詳しい話を聞くからと二人を引き離して事務所へと連れて行った。
体格の大きな駅員に宥められながら、和広は今後の選択肢を聞いた。
暴行を受けたとして最寄りの交番で被害届を出すか、それとも示談にするか。
警察に頼ったところで何もしてくれないだろう。
それよりも示談にして金をせしめたほうがいい。
いくらゴミみたいな奴だと言っても、五万か十万ぐらいだったら出せるはずだ。確か駅の中にATMがあったから、そこに連れていけばいい。
その金で飲みにも行ける。
この前の店で可愛い子がいたのを思い出した。確かユミちゃんとか言うノリのいい子で、ボトルの一本でも入れたら胸ぐらいは触らせてくれそうだ。
事務所への道すがら、和広は思わずほくそ笑んでしまった。
寝ていると、ドアをガンガン叩く音で目覚めた。
「いるんだろ! 出てこい!」
野太い男の声にびくつきながら電気を点けると、中年男は玄関の鍵を開けた。
ドアを押しのけるようにして中へ入ってきたのは、トレンチコートを羽織ったスーツ姿の男二人だった。
「山本だな?」
「は、はい……」
問われた中年男が小さく頷く。
「斉藤仁美、高木和広殺害の容疑で逮捕する。身に覚えがあるだろう?」
「さ、殺害……私が誰をですか……?」
「下手な芝居はよせ。斉藤仁美はお前が痴漢をして示談にさせた主婦、高木和広はお前から暴行を受けたが同じように示談にさせられたサラリーマンだ。今朝、二人が殺されているのが発見された。現場にお前の遺留品があったんだ」
「わ、私は人を殺すだなんて、そんなことしてません」
「言い訳は署で聞く。着替えろ」
「い、嫌です」
「嫌かどうかじゃない、来いって言ってるんだ。早くしろ」
「でも私はやってないんです」
山本が懇願するような目で見つめると、刑事は眉を吊り上げて馬鹿野郎と怒鳴った。
「いいから早く着替えろ、このグズが!」
あまりの怒号に訳も分からず頷くと、山本は四畳半の部屋に戻って服をあさり始めた。
すると、後ろから見ていたもう一人の刑事がくすっと笑った。
「四十五歳、四畳半、独身。生きてるのが辛くなって他人に当たっちゃったんだよな。ろくなもんも食ってないんだろ? 話は聞いてやるから、早くしな」
そうして山本は近くの警察署に連れて行かれて取り調べを受けることとなった。
そこで刑事から身に覚えのない二件の殺人について話を聞くことができた。
斉藤仁美は駅から出て家に帰る途中の道で何者かに声をかけられ、その場で殺害されたという。
体中の至るところに刺し傷と切り傷があったことから、凶器は刃物で、動機は怨恨の説が浮上した。
高木和広はキャバクラで飲んだ帰りに殺されたらしく、吐いているところを後ろから襲われたような状況だった。
背中をメッタ刺しにされており、これもやはり恨みを持つ者の犯行を思わせた。
一見、別々の殺人と思えたが、捜査によりある共通点が浮かび上がった。
それが駅でのトラブルだったのだ。
「斉藤仁美の痴漢の件では二十万で、高木和広には十万で示談に持ち込んだ。どちらも、お前からの被害を受けた人たちだ。恨んでたんだろ? ちょっと尻を触っただけ、ちょっと顎を殴っただけでそんなに金を取られて」
「どっちも違うんです。私は一方的に絡まれて、電車がちょっと動いた拍子に触ったり当たったりして……」
山本の釈明を聞いて、刑事は蔑むような目で笑った。
「細かい状況は知らんし興味もない。関心があるのは、お前が一方的に被害を与えた人物に金を払ったという事実と、これがお前の家のポストから出てきたことだ」
そう言って、刑事が取調室のテーブルに証拠品袋を置く。
それは包丁に近い長さのナイフであり、血糊がべっとりとついていた。
「こんなもの、私は知りません」
「あくまでシラを切り通すつもりなんだな? まあいい。拘留期限目いっぱいまで付き合ってやろうじゃねえか。お前みたいなゴミムシにも人権はあるからな」
アリバイはあるものの、証明してくれる人がいない。物的証拠はないものの、それを覆すだけの材料もない。
そもそも人を殺していないが、誰も信じてくれない。
それから数日の間は犯行を否認していた山本だったが、その心は次第に揺れ動いていった。
毎日朝七時に呼び出されては取り調べが始まり、午後九時に解放される生活。
拘留されている事実が伝わったらしく、務めていた派遣先の会社から首を切られてしまった。派遣会社への登録も抹消されてしまい、他の会社でエントリーシートを書こうと思ったら拒否されてしまった。
刑事が来たことで大家からは二ヶ月分の家賃前払いを強制され、そのせいで支払いできなくなった携帯電話は通じなくなってしまった。
両親は既に他界しており、兄弟もいない。
身寄りも頼る人もいない。
希望をなくした山本に、刑事がぽつりと呟いた。
「お前みたいなカス野郎でも、終身刑なら飯には困らないぞ」
その言葉で、山本の心は崩れ落ちた。
「刑事さん。私がやりました」
「そうだろう、そうだろうとも。よく決意してくれた」
取り調べが終わり身柄を検事局に送致された山本は、起訴を受け、地方裁判所による第一審で無期懲役を宣告されると、それを控訴せずに受け入れた。
刑務所の暮らしは厳しかったものの、規則正しい生活は向いていたらしく、しばらくすると苦痛は全くなくなっていた。
模範囚として過ごす日々。
楽しみは食事ぐらいなものだったが、それでも平和な日々が続いていた。
そんな山本の元に、ある日、一通の手紙が届いた。
開けてみると、パソコンで書かれた短い文章にはこう綴られていた。
「
あなたのお陰で、僕は平和な日々を送ることができています。
あの口うるさかった主婦は、以前にも他の乗客を痴漢だと言って騒ぎ、駅員の僕をなじったことがあります。あのサラリーマンも同じく、他の乗客にちょっかいを出した上、仲裁に入った僕をなじるばかりか、蹴飛ばしたこともあるんです。
いつか復讐しようと思っていた矢先に、あなたが現れて二人に絡まれてくれました。
警察は僕の仕業とも思わず、あなたを逮捕し起訴して判決が出ましたね。
あなたのお陰で、僕はあの二人にまた罵られることなく、仕事を続けることができます。
あなたは、僕の前に舞い降りた天使です。
ありがとう。
」
その手紙を読み終えた後、山本は布団のシーツで首をくくり自殺した。
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