和久正雪の話

今居一彦

Day 1


 「先生!締め切りまでもう日もないんですが、その後どうですか?」


 電話に出ると、なんの前置きもなく相手の声が響いた。編集者の田口だ。長い付き合いだった前任者が定年退職したので、代わりに今回から担当している。歳も若く、仕事に対する意識も高いだけあって、催促の勢いも一入ひとしおだ。


 しかし小説家という職業を選んだ手前、締め切りに追われるのも仕方あるまい。


 「あと3日ですよ?あと3日!分かりますか?」


 耳が痛いとはよく言ったものだ。私は本当に耳に痛みを感じた。


 「困るんですよね本当に。私のみてる他の先生はみんなもっと余裕をもって上げてくれますよ?」


 それは嘘である。世の中で少なからず「先生」と呼ばれ、何かしらの作品を創作することを生業としている人間に、余裕をもって仕上げる者がいるはずがない。少なくとも私はそのような人間にこれまで一度も出会ったことはない。


 しかもこの駆け出しの担当者は、私の他にまともに担当と呼べる担当をしていないことを私は知っている。前任の担当者からそう聞いているからだ。それもそのはず、会社だってこんなデリカシーのない若造に重要なクライアントは任せられないだろう。


 しかしそんな彼が私の担当…?おいおい、私もすっかり地に落ちたものだ。自分の都合のためには平然と嘘をつく、こんな担当者を割り当てられるとは。


 かつて私は、文壇に彗星の如く現れた新進気鋭の若手作家として一躍脚光を浴び、世間に和久正雪わくしょうせつの名を知らしめたものだ。しかしその期待とは裏腹に、これまでろくなヒット作を生み出していない。実績からすればそれもやむなしといったところだろうか。


 私は手元にあったマトリョーシカの人形を手でいじり始めた。電話口に鳴り響く怒涛の言葉からなんとか意識を分散させたかったのかもしれない。


 マトリョーシカ…


 それにしても、私はこのマトリョーシカの人形というものが好きでたまらなかった。並の好きではない。異常なまでの愛着があると言っても過言ではない。毎晩抱きしめながら床につくぐらいだ。マトリョーシカ人形フェチとも言える。


 考えてみれば、おおよそこのような丸味を帯びた小さな物というのは、無条件に愛着を感じるように、人類の遺伝子にプリセットされているに違いない。


 外側の一番大きな人形は、もちろん一番目につくわけだから、それなりに丁寧に模様が描かれている。しかし、そこから先は、中になるにつれて意外といい加減に描かれている。目の丸が歪な形になっていたり、服の装飾も絵具がはみ出したりしている。でもそれがまたなんとも可愛らしいのだ。いかにも手作り感があって温もりも感じさせる。


 それに、何より興味をそそるのはこの構造だ。入れ子構造。これほど素晴らしいものはない。この世の成り立ち。それはすべて入れ子構造と言って過言ではない。宇宙から銀河系、太陽系、地球といった具合に・・・


 「先生?先生!聞いてますか?」


 私はすっかりマトリョーシカに気を取られていた。田口は相当イライラしているようだ。


 「和久先生、本当に今回は期待してるんですよ!」


 「今回『は』?な、なんと失礼・・・」


 「絶対にいい作品ができると思ってます!お待ちしてますよ?じゃよろしくお願いしますね?明日またかけますから」


 早朝の部屋に静寂が返った。私はマトリョーシカをひと撫でしてから頬擦りすると、棚の上に置き、ソファーに深く腰を下ろした。


 「そういえば、田口、まだ一度も今回の私の作品の内容を訊いてなかったはずだが…」


 私はこの不躾ぶしつけな編集者への不信感が拭えず、どうしても気持ち良く執筆に打ち込むことができなかった。そしてそのまま、その日は一日が過ぎていった。


 やむを得まい。焦っても良いものは書けない。気を取り直して、明日また再開することにしよう。

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