4話 胸襟を開く

 ゴールデンウィーク初日。

 朝も早くから、私は神妙な面持ちで萌恵ちゃんの顔を見据えている。

 乾いた喉を麦茶で潤し、コップをテーブルに置く。

 せっかくの連休に緊迫した空気をもたらしたのは、他でもない私だ。

 あれは起床後すぐのこと、シンプルな疑問が不安となって襲ってきた。

 ――このまま変態願望が強まったら、いつか見捨てられるのでは?

 告白したときには受け入れてもらえたし、萌恵ちゃんは簡単に誰かを見捨てるような人じゃない。

 けど、何事にも許容限界というものは存在する。

 私の変態性が今後も強まる可能性がある以上、萌恵ちゃんに嫌われるなんて絶望的な未来も有り得ない話ではない。

 とはいえ、本心を隠したまま生活するとなれば、結局は同じことの繰り返しだ。

 そこで私は、自分がいかに変態なのか知ってほしいと萌恵ちゃんに申し出た。

 親しい仲でも秘密の一つや二つぐらいあって当然と思う人も多いだろう。

 理解はできるけど、やっぱり私は好きな人に隠し事をしたくない。


「萌恵ちゃん。私の言うこと、もしかしたら気持ち悪くて吐きそうになるかもしれないけど、聞いてくれる?」


 真性のド変態であることは痛いほどに自覚しているので、最後通告を行う。

 前置きなく話すには、いささか刺激が強い内容だ。


「もちろん! というか、もっとリラックスしようよ~。あたしは真菜がちょっとぐらい特殊な趣味してても、驚いたりしないから」


「ありがとう。でも、『ちょっとぐらい』なんて生易しいものじゃないよ。ハッキリ言って、私は最悪の場合、萌恵ちゃんにフラれるかもしれないとすら考えてる」


 最悪の場合というか、普通なら平手打ちされて唾を吐き捨てられてもおかしくない。

 萌恵ちゃんの優しさを計算に入れた上で、まだかろうじて受け入れてもらえる余地があるかもしれない、といった極めてギリギリのラインだ。

 リスクは大きいものの、この問題さえ乗り越えられればいよいよ私の不安要素は完全消滅する。


「う~ん、それはないと思うけど……とりあえず話してみてよ」


 萌恵ちゃんに促され、私はゆっくりと口を開いた。


「私、体臭フェチかもしれない」


 あぁ、もう戻れない。

 この局面に至っても腹を括り切れず曖昧な言い方をしてしまったけど、私は間違いなく体臭フェチである。

 もちろん、いつも萌恵ちゃんが放っている甘美な芳香こそ最も好きな匂いだ。

 いかに高価な香水であろうと敵わないと断言できる、萌恵ちゃんの体から発せられる極上の香り。

 しかし、運動後の腋とか一日中歩き続けた足の裏とか、常人ならまず好感を抱かない種類の臭いにも並々ならぬ興味を持ってしまう。むしろ好き。

 萌恵ちゃんは汗をかいていても桃のような匂いがするから、私の鼻は少しでも汗の臭いを嗅ぎ取ろうとするあまり、他人よりかなり鋭敏になっている。

 というか、萌恵ちゃんはズルい。

 アイドル顔負けにかわいいし、スタイル抜群だし、とてつもなく優しいし、一緒にいるだけで楽しいし、マラソン直後で汗だくなときでさえいい匂いするし!

 同じ人間として嫉妬するけど大好き!

 いますぐ思いっきり抱きしめてキスしたい!

 おっと、落ち着け私。

 まだ話の途中だ。一人で勝手にヒートアップしてはいけない。


「ふ~ん」


 萌恵ちゃんは特に驚くでもなく、申し訳程度に声を発した。


「そ、そんなどうでもいいみたいな反応しなくても……」


「だって、実際にどうでもいいから」


「どうでも、いい?」


「うん、どうでもいい。真菜はすごく気にしてるみたいだけど、あたしはそんなことで大好きな人を嫌ったりしないよ」


「でも、私、本当の本当に度し難い変態だよ? きっと萌恵ちゃんが考えてるより、何倍も気持ち悪い人間だよ? それでもいいの? 後悔しない?」


「だから平気だって。真菜は気にし過ぎだよ~」


 いや、そりゃ気にするよ。

 自分で言うのもなんだけど、私を客観視すると相当な危険人物だ。

 年中発情期で、朝から晩までえっちなことばっかり考えて、最近はただ卑猥なだけじゃなく倒錯した性癖もどんどん増えてきて、我ながら萌恵ちゃんを傷付ける前に自首した方がいいんじゃないかとさえ思ってしまう。


「萌恵ちゃん、もし私に気を遣ってくれてるなら、遠慮しなくていいから本音を言って。どんな罵倒でも受け止めるし、私なんて嫌われても仕方な――」


 唐突に頬を左右に引っ張られ、強制的に言葉を遮られる。


「ふざけたこと言わないで! あたしは真菜のことをそれぐらいで嫌いになんてならないよ! 気なんて遣ってないし、あたしは真菜に本音しか言ったことない!」


 初めて体験する、萌恵ちゃんの怒りだった。

 いつもの朗らかな雰囲気とは真逆の物凄い剣幕で怒鳴りつけられ、恐怖を覚えるほどに気圧される。

 だが、それゆえに疑うべくもない。

 萌恵ちゃんはいま、剥き出しの感情を、ありのままの本心を、私にぶつけてくれたんだ。


「もへひゃん……」


「ごっ、ごめん! 痛かったよね!?」


 萌恵ちゃんはハッとなって手を離す。

 私は頬をさすりながら、この痛みすらも快感だと思ってしまっている自分に辟易する。

 だけど不思議と、心の中にあった泥のようなモヤモヤがきれいさっぱり取り除かれた気分だ。


「私の方こそ、ごめん」


 不安に押し潰され疑心暗鬼になり、萌恵ちゃんの言葉が自分の望んでいたものであるにもかかわらず、素直に呑み込めなかった。


「だから言ったでしょ、気にし過ぎだって。そんなことより、真菜があたしにフラれるかもって気にしてたことの方がショックだったな~」


「だ、だって、私の性癖、すごく気持ち悪いから」


「気持ち悪くない。少なくとも、あたしはちっとも嫌じゃない。だから二度と、嫌われるかもしれないとか考えないで」


「うん、分かった」


「まぁでも、確かに他の人が知ったらビックリするかもね~」


「そ、そうだよね」


 芽衣ちゃんには以前にほんの一端だけ話したことがあるけど、すべてを打ち明けたらさすがに絶交されるだろう。


「だからさ、このことはあたしたち二人だけの秘密にしようよ!」


「二人だけの、秘密……」


「恋人っぽくてよくない?」


「た、確かにそうかも」


 二人だけの秘密。なんとも甘美な響きだ。


「その代わり、あたしにだけは隠さないで。もちろん無理に言えとは言わないけど、内緒にしたくない気持ちなら、我慢して溜め込むのはもうやめて」


「分かった、約束するよ」


「よしっ、それじゃあこの話はこれでおしまい!」


 萌恵ちゃんは両手を叩いてパンッと小気味いい音を鳴らし、麦茶を一息で飲み干す。


「そうだ。萌恵ちゃんは私に言いたいこととかない?」


「あたしはいつも思ったことそのまま口に出しちゃってるから、改まって言いたいことはないかな~。あ、でも、教えてほしいことはあるかも」


「ん、なに?」


 勉強のことだろうか。


「お、おなにー、だっけ? それのやり方を教えてほしい!」


「おなっ!? ごほっ、げほっ、げほっ!」


 予期せぬ過激な単語に度肝を抜かれ、激しく咳き込んでしまった。


「だ、大丈夫!?」


 萌恵ちゃんが私のそばに移動し、優しく背中をさすってくれた。

 ゆっくりと呼吸して息を整え、もう平気だと伝える。


「確かに私はけっこうな頻度でしてるけど、ネットで調べた方がいいと思うよ?」


「調べたんだけど、いろいろなやり方があって分かりづらくて。真菜がいつもどんなふうにしてるのか教えてくれればいいから。お願い!」


 それ尋常じゃなく恥ずかしいんだけど。

 鬼のようにえげつない罰ゲームでも、ここまでキツいことは要求されないよ。

 でも、頼ってくれるのは嬉しい。


「仕方ないなぁ。さすがに実演するわけにはいかないから、手順だけ説明するね」


「やった~! ありがと!」


 子どもがオモチャを買ってもらえるときのような喜び様だ。


「まさか萌恵ちゃんにこんなお願いをされる日が来るなんてね」


「だって、いつか真菜と、その……え、えっちなことするときのために、少しずつでも知識を増やしたくて……」


 頬を赤らめ、しゅんとうつむく萌恵ちゃん。

 自分の性知識が乏しいことを気にしていたらしい。


「萌恵ちゃんっ、かわいい! 大好き!」


 私は我慢できず、テーブルを横にずらして萌恵ちゃんに抱き着いた。


「それじゃあ先生、おなにーのやり方を教えてください!」


 あー、そうだった。

 体中の血がサーッと引いていく。萌恵ちゃんの温もりがなければ、今頃全身が凍っていたかもしれない。


「え、えっとね……」


 かくして私は、おそらく人類史上において最たる羞恥を味わうこととなった。

 断じて嫌々話しているわけではないけど、どうしても恥じらいは拭えない。

 一通り事細かに説明した後、萌恵ちゃんは顔を真っ赤にしながらも「なるほど」と繰り返しうなずいていた。




 ふと、思う。

 自慰行為を誰かに見られるのと、誰かに説明するの。

 下手すると後者の方が恥ずかしいんじゃないか、と。

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