08.役者不足の主役

 コウキの指摘したとおり、指の切断された死体が貯水タンクから見つかった。


 FBI捜査官達の疑いの眼差しを受けながら、コウキは狂ったようにタオルで手を拭い続ける。洗剤で6回洗い流し、10枚目の濡れタオルで手を拭いても満足できなかった。


 何かが肌の中に沁み込んでくるような不安と嫌悪感がコウキをパニック状態に陥らせていたのだ。


「彼が呼んでいます」


 捜査官の一人が研究所へ戻るよう促す。その一言に、弾かれたように我に返った。


 法医学の研修を受けた経験があるコウキは、死体など見慣れている。切り刻んで死因を調べたこともあるのに、どうしてここまでの嫌悪を感じたのか。


 何かが染み入るような不安は、どこから生まれた? いつから? どうして?


 膨らんだ疑問の答えは、あの男だ。鋭い三日月のような笑みを口元に刻み、不吉な言葉を吐く殺人鬼の一言一言が脳裏を過ぎった。


 いままで、ロビンがここまで親切に事件の詳細を語ったことがあったか?


 いつでもコウキが気づくように誘導していたが、それ以上の事実は語らなかった。なぜ今回だけ違うのか。死体の数を検死より先に告げ、殺した場所を特定できるヒントを与えた。


 水についてもそうだ。それがなければ、貯水タンクなど疑いもせず通り過ぎた筈……。


 ぎゅっと拳を握り、無言で頷いて捜査官に続いた。頭の中を占めるのは、稀代の連続殺人犯に対する怒りと疑惑だ。


 あの男が嘘を吐かない保証などなかったのに、どうして信じてしまった?


 苛立つままに足音を立てて歩くコウキは気づかなかった。


 笑みを浮かべてコウキを見送る人物がいたことに……。





「稀有なる羊、その顔は……ああ、疑っているのか」


 苦虫を噛み潰したような顰めっ面で現れたコウキに対し、呼びつけた男は大げさに嘆いてみせる。


「敵と味方を間違えるな。死神は悪ではないよ…すくなくとも平等なのだから」


 手首の鎖を揺らして檻に手をかける。白人特有の透けるような肌が、檻のくろがねの色と対照的で、さらに透き通って見えた。


 まるで現世うつしよらざる者のようだ。


「貯水タンクの死体を見つけたと聞いたよ」


「お前が誘導したくせに」


 吐き捨てた一言すら、声が聞けたことが嬉しいと笑みを零す男は肩を竦めてやり過ごす。数歩下がって、舞台俳優さながらの優雅さで一礼した。


「あのヒントでたどり着くとは思わなかった。侮っていたことを、まずは詫びるとしよう」


 侮っていた……つまりヒントはいつもと変わらなかった。彼の言葉からくみ取る能力が上がったという意味か。コウキは嫌そうに眉を顰める。


「神は常に公平だ。だが教えを理解できるものと、出来ないものが存在する。同じ教えであるのに理解する能力に違いが生まれるのは、神の意図だ。生まれたときから哀れな羊達は区別され、差別される運命にあるのだろう」


 背を向けて数歩歩き、また戻ってきた男は再び檻に手を触れた。手のひらをこちらに向けて、檻を押すような仕草……いや、閉じ込めている檻を哀れむような切ない笑みを浮かべて。


「理解できない羊が『サロメ』だ。『神』に魅せられた『殉教者』を振り向かせようと、必死で知恵を絞ったが舞台の幕を開けることができたに過ぎない。此度のサロメは主役になれなかった」


 表情を一転させ、ロビンはいつもの笑みを浮かべた。作った表情は感情を読み取らせることはない。


「さあ、幕は上がっている。下ろすのは『コウキ』の役目だ」


 彼がコウキと名を呼んだのは、これで2度目だった。


 驚愕に目を見開くコウキに、満足そうなロビンがひとつ頷く。書棚へ歩み寄り、茶色の革で整えられた聖書を抜き取った彼は、突然違う話を口にした。


「稀有なる羊、満開の桜を見たことがあるか? 夜になると月明かりを得て、まるで自らが発光しているように周囲を照らす。いつか見てみるといい」


 桜?


 日系のコウキにとってなじみ深い花だ。春を告げる薄いピンク色の花は、夜になると白く見える。


 だが事件とは関係ないだろうし、何よりこの季節に持ち出す話ではなかった。ましてや桜の大木など、周囲の地区にはないのだから。


 何か話を逸らしたい理由があるのか。


 尋ねようとしたコウキを「しぃ」と秘密を示す人差し指で制し、檻の囚人は指の触れた唇を小さく動かした。そこで終わりとでもいうように、彼はベッドに腰掛けて聖書を開く。


 唇をかみ締めたコウキが立ち上がっても、ロビンは視線を向けることはなかった。

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