29

杏奈の目の前に湯気のくゆるマグカップがコトリと置かれた。

漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐる。


「一緒に朝食にしませんか?」


そう言って広人はパンののった皿を差し出す。

今さら遠慮をするのもおかしいかなと、杏奈は大人しく受け取った。


「……いただきます。」


コーヒーに口をつけると、とたんに胃にしみわたる。

少し苦いのが今の杏奈にはちょうどいい。


「杏奈さん、お化粧落とされたんですね。」


「あ、そういえば。」


広人に指摘され、杏奈は慌てて頬を覆った。すっかり忘れていたが、シャワーを浴びたときに顔もザブザブ洗い、そのままファンデーションも塗らず素っぴんのままだった。

そんなことすら頭が回っていないとは、杏奈はガクリと肩を落とす。


「はー最悪。」


「杏奈さんは化粧しててもしてなくてもお綺麗ですね。」


「…ありがとうございます。」


本気かお世辞かよくわからない言葉に、一応お礼を言っておく。

にこりと笑う広人に何となく照れてしまい、居たたまれなくなって杏奈は目の前のパンを掴むとひと口かじった。


「このパン…。」


パンを口に入れた瞬間なにか懐かしい感じがして、杏奈はパンをまじまじと見る。


「パンよりご飯がよかったですか?」


「いえ、そうじゃなくて、もしかしてこれ、minamiのパンですか?」


杏奈は懐かしさとパンの見た目から、以前気に入って買っていたパン屋minamiの名前を挙げた。

パン屋minamiは前に働いていた早瀬設計事務所の近くにあり、美味しくてよく購入していたのだ。


「よくわかりましたね!ここのパン美味しいですよね。」


「広人さん何でminamiを知っているんですか?」


「え?うちの近所ですよ。」


驚く杏奈に、広人はさも当然かのごとく言ってのけた。


まさか広人が住んでいるところがminamiの近所で。ということは杏奈の前の職場も近いということで。何という巡り合わせか。


世間は狭いとはこういうことをいうのかと、杏奈は軽く衝撃を受けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る