暗澹編

1103教室最後尾左端

「なにも起きていない」

「さあ行くんだ~その顔を上げて~」


 男の声は低く、よく通った。静かな部屋によく響く。

 その声量は鼻歌というにはあまりに大きく、しかしカラオケで歌うような声量や音程などが意識されたものではない。誰もいない部屋で、ふと思いついた曲が歌えるか確認したくなった時のような、試すような声色だ。


「あの~ひと~はも~う、おもいで~だけど~」


 男が一人暮らしで、自分の部屋に一人でいるならよくある話だ。しかし、ここはビジネスホテルだったし、部屋には男の他にも人間がいた。制服姿の女が、ベッドに腰かけてスマートフォンを触っている。ベッドのシーツには皺ひとつなく、彼女の重さで少しだけ影が歪んでいた。


「わか~れもあ~い~の~、ひとつだ~と~」


 曲調を思い出してきたのか、男の声は少し大きくなった。隣の部屋にも聞こえるかもしれない。男の歌が響くほど、部屋は空虚になっていった。男は部屋に誰もいないかのように歌った。もしかしたら、もう部屋に女がいたことを本当に忘れているのかもしれない。

 

 女はスマートフォンをポケットにしまい、ベッドに横になった。シーツには彼女と彼女の服の形に皺が寄った。倒れた時に、布が彼女を受け止める音が少しだけして、ベッドがきしんだ。


「そうさき~みは~きづい~て~しま~った~」


 男の歌詞はうろ覚えだった。一番と二番が混ざっている。しかし、男にとってそんなことはどうでもよかった。朗らかに自分が声を出せればそれでよかった。誰もいない空洞の中でなら何を歌っても平気だった。


「その曲知ってる。エグザイルだっけ」


 退屈そうにベッドに寝そべる制服女がつぶやくように言った。男は歌うのをやめた。男が歌うのをやめると、部屋の中は本当に静かになった。男も制服女も空間の中に溶けてしまったかのように部屋から人気がなくなった。



「……違うよ。別のミュージシャン。アニメの主題歌だったんだ」

「ふーん。そう」



 作り直されてきらびやかになったパッケージしか知らない制服女と、記憶の中の輝きしか追えない男の会話は、深夜に冷蔵庫が氷を作る音や、エアコンが動く音のやり取りと同じくらい無意味だった。男は詳しい説明をする気はなかったし、制服女は聞く気もなかった。



「ねえ、やんないの?」

「あのアニメは少年の成長を描いた物語だった。詳しいことは忘れちゃったけど」


 制服女は浮かんだ疑問をポツリとつぶやいただけだった。多分、「今日は雨かしら」と同じ意味だった。男も自分の記憶をたどっているだけで、さっきまでの歌となんの変りもなかった。



「やんないなら帰りたいんだけど」

「僕はずっとスリーナインを待っていた。でも来なかった」



 男はずっと子供だった。もうあらすじも追えないような物語をどこかで信じていた。実はその物語は銀河鉄道ではなくて、機動戦士だったかもしれないし、宇宙戦艦だったかもしれない。もしかすると、本当に男の身に起きた過去なのかもしれない。記憶の中でストーリーや登場人物が全部溶けて混ざって、汚い澱みになっても、その輝きだけは消えなかった。


「とりあえず、お金だけ頂戴」

「君はいつまで制服姿なんだい?」


 制服女はすでに老婆だった。制服の中に入っている女は、机に置かれた新品のキラキラ光る二万円と同じくらい乾いていた。校庭に転がる使い古したゴムボールみたいに、硬くて、皺だらけで、今にもひび割れそうだった。


 二人がポツリポツリと声を出すたび、二人の出す音は空気を震わせた。ただそれだけだった。お互いにとって意味のある言葉ではなかった。犬や猫の鳴き声と同じだった。


 もうお互いに、言葉が通じないことはわかっていた。二人は自分がこの部屋で一人きりであることを確認するためだけに声を出した。さして寂しくはなかった。もうわかり切っていることだった。


 女と男はバラバラに部屋を出た。女が先にでて、男が後から出た。


 部屋のベッドには少しだけ影ができていた。もしかしたら、さっきまで誰かがいたかもしれない。でもそれはどうでもいいことだった。


 隣の部屋では獣のような声が重なっていた。その隣の部屋では嬌声が響いた。その隣の部屋では嗚咽があふれた。


 でもそれは全部、この部屋で起きたことと変わらなかった。


 つまり、結局は何も起きていなかった。

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