第9話 森下玲美の告白 

「玲美?」と菊川さんがぼんやりと声を漏らす。


 彼女は「ごめんね。安奈ちゃん。私のために色々言ってくれたのに」と小さく謝ってから、「月ノ下さんが言っている絵はここにあります」と手前にある特大サイズの絵画の梱包をほどき始めた。


 やがて森下さんがほどいたビニールシートの下から二枚の絵画が姿を現す。


 一枚は修学旅行か何かで行った先の風景なのか、山林に囲まれた湖を写し取ったさわやかで明るい印象の横長の油絵だ。


 そしてそれに接するように保管されていたもう一枚の絵。


 松林の下で戯れる二匹の子犬を描いた絵だった。単純な線なのにふわりとした子犬の毛並みや動きのある一瞬を切り取ったような血の通ったようなデッサンが見るものに感銘を呼び起こす。そんな油絵だった。


「へえ、凄いな。この絵は」

「ええ。風情があるのにユーモラスで独特な雰囲気だわ」

「なるほどな。これがいうなれば『元ネタ』だったってことか」

「確かに優れた絵だねえ」


 僕たちは口々に絵の感想を述べた。そしてその隣で菊川さんが呆然とした表情で呟く。


「……どうして? どうしてこんな、偽の作品を創って本物の絵を隠すようなことを」

「それは菊川さん。森下さんがあなたの期待を裏切りたくなかったから、ではないかしら。ある意味あなたが、森下さんを追い詰めていたということじゃない? 違う? 森下さん」


 星原が静かな口調で呟く。


 森下さんは悲しそうな目で「はい」と肯定した。





 彼女はぽつりぽつりと経緯を語り始めた。


 一か月ほど前のことだ。


 彼女は美術部の大掃除の時に見つけた鍵がどこのものなのかを聞くために大崎先生を訪ねた。そしてそれが美術部の倉庫のものであると知って、存在そのものを初めて聞いた彼女は興味本位でそこに行ってみたいと考える。


 鍵についてはそのまま借りていいということで大崎先生の許可を得ることができたので、数日後彼女は美術部の倉庫を見つけて鍵を使って中に入った。


 そこで森下さんは、倉庫の入り口にあった目録とかつての美術部員たちの作品を照らし合わせ、面白いと思ったものを携帯のカメラで撮影したり自分の作品と比べてみるなどして時間を過ごすようになる。


 その中で彼女の目を引いたのは、目録の中の新春をテーマにして描かれたらしい十年以上前の三枚の連作のタイトルだった。


 ちょうど年末も近い。新しい作品を描くのにこういう絵を参考にしてみるのも良いのではないか。そう考えた彼女は件の三枚の油絵を探しだす。そして梱包をほどいた下から現れたその作品を見て彼女は心を奪われた。


 動物の姿が写実性を失うことなく適度にデフォルメされており、それでいて今にも動き出しそうな独特な画風とみて「こんなアプローチがあったのか」と森下さんは驚きと感動を得たのだそうだ。


 特に彼女が気に入ったのが「犬」の絵で、可愛らしく愛嬌も感じさせる描写に自分でも描いてみたいと思うようになった。見れば壁にも同じ絵柄の犬の落書きがある。当時の部員も気に入っていたのだろう。


 その後彼女はその絵を模写して家に帰ってデッサンしてみたり、他のポーズのイラストを描いてみたりと何度も何度も描き上げるようになったのだ。


 ある時、森下さんは学校の教室で、携帯電話の画像で自分の描いたイラストを見直していた。すると横から声をかけられる。同じ美術部で友人でもある菊川さんだった。


「それ、可愛いね?」

「うん。もっとうまく描けないか練習しているんだけど」

「え? それじゃあ、そのイラストは玲美が描いたってこと?」


 美術部の倉庫にあった絵に触発されたものだが、自分で描いたのは間違いない。


 彼女は「うん」と頷いた。


「わあ、凄いよ! 玲美って才能あるんじゃない? もっと見せてよ」


 彼女にとって菊川さんはクラスで一番仲のいい女子生徒であり、活発で物怖じしない行動力も自分にはないものだったので憧れすら抱いていた。その彼女が自分のことを褒めてくれている。それは森下さんにとって、とても嬉しいことだった。


「ほら、見てこれ。可愛くない? これ玲美が描いたんだよ?」と自分のことのように自慢げにクラスメイトに語る後ろ姿を見て森下さんは天にも昇る心地だった。こんな風に人から認められたことが今までの人生であっただろうか。何となく続けてきた趣味だったけれど絵を描いていて良かった、と彼女は思った。


 しかしそこに目を付けたのが大島悦子という、かの気が強い女子生徒だった。彼女は森下さんのイラストを見て「へえ、いいじゃん」といいながら「あたしにこれデータごと譲ってよ。気に入っちゃった」と言いだした。その時は別に断る理由は特になかったし、個人で利用するくらいなら別に構わないと彼女は考えたのだそうだ。


 しかし大島はその数日後、そのイラストをメッセージスタンプとして販売を始めた。それはそこそこの人気を博して、一年生の間では急速に広まっていく。


 そこで彼女は急に不安になる。


 あの犬の油絵は十年以上前に卒業した生徒が描き上げたものなのだ。普通であればあの絵の存在を知る者は、自分のように興味本位で美術部倉庫の過去作品を見るような人間だけのはずだ。しかし美術部顧問の大崎先生はどうだろう。


 あの人はこの学校に在籍して長いらしい。もしもあの犬のイラストが広まり続け先生の目に留まったら「これは昔の卒業生が描いた作品に似ている」と指摘したりしないだろうか。


 何とかあのイラストが広まるのを止めたい。そう考える彼女を更に追い詰める事態が起きる。


 美術部で「来月に過去の卒業生の作品を含めた展示イベントをする」という企画が持ち上がったのだ。


 過去の卒業生作品。それはつまりあの三枚の連作も公開されるということではないだろうか。そうしたら、自分が描いたあのイラストが実は人のものを真似たのだということが白日の下に晒されてしまう。


 それに、あの落書きもまずい。過去の美術部員が描いた作品を確認する時に倉庫に入ったら目にする者もいるかもしれない。


 怯えた彼女が考えたことは、まずあの落書きを見えないように絵の具で隠してしまうことだった。何度か美術部の活動の後で居残るふりをして、壁に絵の具を塗りつける。


 そして次に考えたのがあの犬の絵を他の絵にすり替えることだ。


 あの絵が他に一年生の美術部員の目に触れるようなことがあれば、そこから自分のイラストとの類似性に気が付いてしまうに違いない。


 今度行われる展示会では、スペースの関係で卒業生作品は「通常サイズのもの」だけが展示されると聞いていた。それならば、最初からあの犬の絵の存在に気づかれないように文化祭の共作の特大の絵画の方に紛れ込ませればいい。


 また、いくら大崎先生でも何年も前の過去の卒業生の作品をすべて正確に記憶しているとは思えない。あの犬のイラストさえ見なければ、本物の方は想起されずに済むかもしれない。自分が描いた偽物の絵を見ても「こんな作品もあったかな」と思うだけなのではないか。


 絵のすり替えにさえ成功すれば、あとは大崎先生の目に触れないうちになるべくあのイラストが拡散するのを防げばいい。


 そう考えたのだった。





「ごめんね。菊川さん。……私のために荻久保先輩に相談してくれたり、大島さんにも怒ってくれたりしたのに」

「れ、玲美」

「私、菊川さんが私のことを褒めてくれたのが嬉しくて。……でも、今度はあのイラストが他の人の真似だと知られたら軽蔑するんじゃないかって怖くなって」


 森下さんは泣き出しそうな顔で小さく体を震わせて、俯いていた。


「あの、さ。森下さん」


 僕は彼女にそっと声をかけた。


「誤解しないでほしいんだ。僕は君から『友人に隠し事をしている』という重荷を取り去りたかっただけで、君を責めようと思ったわけじゃない」

「それは……どういうことですか」


 僕が彼女の疑問に答えようとした、その時だ。



「荻久保さん? 月ノ下くん? いるの?」


 倉庫の入り口の向こうから聞き慣れた妙齢の女性の声がした。


 隣の星原が僕に「ねえ、あれって?」と囁く。


「ああ、ちょうどよかった。実は事前に話をしてもらおうと思って呼んでおいたんだ。大崎先生を」


 そう。廊下から姿を現したのは長い髪を後ろで結んで眼鏡をかけた、穏やかな雰囲気の美術教師。大崎先生だった。

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