第3話 10日目
体を丸くして、毛布にくるまっている僕は、チラリと視線を向けた。視線の先には、ぼやけて二重に見える扉がある。足音が聞こえた気がするが、頭を起こすのも億劫だ。きっと、あの女が、うすら寒い笑みを浮かべて、部屋に入ってくるのだろう。
僕は気怠い体をゴロンと転がして、扉に背を向けた。食事と水分を断っているせいか、頭は霞がかかったようだが、神経は研ぎ澄まされていくのを感じる。扉の向こう側で、あの女が、こちらの様子を窺うように、聞き耳を立てているような気がする。興奮したような息遣いが聞こえる気がする。僕は、意識的に、呼吸音を消す。流石に息を止める余裕はない。乾いた上下の唇が、張り付いている。
扉が意識的に、ゆっくりと開けられている。背後から聞こえる音が、とてつもなく不快に感じた。
―――あの女は、嘘くさい笑顔の仮面の裏で、僕を支配する算段を企てている。
女の足が床を擦る音が響く。背筋がゾワリと逆立つのが分かった。背後から漂う食事の匂いが、胃袋を刺激する。腹が無遠慮に音を立てた。
「ね? お腹空いてるんでしょ? いい加減、ご飯を食べなさい」
溜め息交じりで、弱々しい声が響く。
「ねえ、お願いだから、ご飯食べてよ。こんなに痩せちゃって」
毛布の隙間から、女の手が侵入し、僕の体に触れた。僕は過剰に反応し、投げ飛ばされたように、逃げ出した。体が檻と衝突し、激しい音を立てた。しばらく経っても、檻がビリビリと小さな振動音を漏らしている。僕は女とは反対側の檻の端で、檻に背を預けるようにして、女を睨みつけた。
―――この女を信用する訳には、いかない。
女は苛立ちが微かに漏れた吐息を漏らす。その後、己を落ち着かせるように、大きく深呼吸をした。
「毒なんか入ってないから、ね? ご飯食べて」
女は、僕専用だと言っていたお皿に指を突っ込んで、指を咥えた。『ね? 大丈夫でしょ?』と言うように、眉を上げ、口角を上げる。女の所作を眺めていると、自然と唾液が溢れてきた。カラカラに乾いた口内が、少し潤った。溜まった唾液を飲み込む。無意識の内に、呼吸が荒々しくなっている事に気が付いた。
「食べないと死んじゃうでしょ!?」
先ほどまで、冷静な装いをしていた女が、突然癇癪を起したように怒声を上げた。僕は、心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。慌てて、毛布の中へと潜り込んだ。全身がブルブルと震えている。まるで、痙攣を起こしたように、極寒の中に素っ裸で放り込まれたように。
―――ようやく、本性を現したな! 騙されるもんか! 騙されるもんか!
懸命に、自分自身を奮い立たせて、あの女に、そして本能に抗っている。
あんな女に支配されるくらいなら、死んだ方がマシだ。気持ちを強く持つんだ。僕は僕自身に言い聞かせる。右腕を噛んで、必死に抵抗して見せる。しかし、気持ちとは裏腹に、腹が激しい音を立てる。意識とは別に、体は食料を水を欲しているようだ。
「ごめんね。お願いだから、ご飯食べて。せめて、水だけでも飲んで」
女は、参っているような憐みを誘う声を上げる。参っているのは、こっちの方だ。
「煩い! 煩い! 僕をここから出せ! お前なんかの言いなりになってたまるか!」
僕は、なけなしの力を振り絞って、怒鳴った。空っぽの腹に力が入らず、思っていたほどの圧力が出ない。僕は、残り少ない理性で、ギリギリのところで懸命に抗う。女を睨みつけて、必死で抵抗する。女は、皿を床に置き、両手で耳をふさいでいた。
「もう! 分かったから、キャンキャン吠えないでよ!」
鼻を啜った女は、床に置いた皿を檻の小さな扉から中へと入れた。目元を手で擦った女は、項垂れながらも、ようやくといった感じに、小さく笑みを浮かべた。
「ご飯置いておくね。本当に死んじゃうから、次は無理やりにでも食べさせるからね」
立ち上がった女は、しばらく僕を見下した後、ゆっくり部屋を出て行った。
いい香りが、鼻先をくすぐる。涎がとめどなく溢れてくる。もう限界だ。
そう、思った。
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