さようならが言えなくて

藍沢 紗夜

さようならが言えなくて

 たった五文字が言えなかった。


 音にしようとして、掠れた私の声は蝉時雨の中に溶けていく。代わりに私は、なんでもない、またね、と手を振った。


          ✳︎


 夏休み明けから、私は父の転勤の関係で、ここから新幹線と電車を乗り継いで二時間ほどの遠い街へ引っ越すことが決まっていた。それ自体には別段不満は無かったし、あっさりと受け入れることが出来た。

 でも生まれ育ったこの街に愛着はあったし、何よりこの街には大切な人がいた。私の唯一の幼馴染で、親友で、特別な人が。


「葵はもう宿題終わった?」

 河川敷を二人で歩きながら、祐也はそう訊いてきた。

「まだだよ、誰かさんと違って、計画的にやってるからね」

「終わってないなら一緒だろ、俺もお前も」

「一緒じゃないでしょ、だいたいまだ夏休み終わってないし」

 くだらないやりとりをしながら、私たちは炎天下を歩く。それが私たちのいつもの夏だった。でもこれが、最後の夏だった。


 私はまだ、引っ越しのことを祐也に話せていなかった。その時私たちはまだ中学生で、お互い携帯電話も持っていなくて、離れ離れになってしまったら連絡を取ることすらままならないのは分かっていた。それでも言えなかったのは、なんとなく、タイミングを失ってしまって、というのはもしかすると言い訳で、本当は、認めたくなかったのかもしれない。もう二度と、会えないかもしれないこと。


「じゃあ、また夏休み明けに。またな」

 軽く手を振って去ろうとする祐也を、慌てて私は呼び止める。

「あ、まって、」

 足を止めて、どうした、と私の言葉を待つその真っ直ぐな瞳に、私は何も言えなくなる。

 蝉時雨がうるさく鳴り響く。刹那の間だけ、時が止まったかのように、彼以外何も見えなくなる。

 さようなら、を音にしようとして、でもそのたった五文字が、上手く声にならない。


 なんでもない、と私は無理に笑った。

「またね」

 またなんて来ないのに、そう言って手を振る私は、臆病者だ。


 あの夏、私は大切なものをなくしました。

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