よろずの花を贈るまで

あずまなづ

第1話 はるのひ


 瀬川伊月せがわいつきと会ったのは、彼女が短大に入学してすぐの、桜が咲き始めた頃だった。


 東北の春は遅く短い。二分咲き三分咲きの桜並木の中、彼女は、その年から制服が廃止になったキャンパスのなかを駆けていた。学生を満喫しながらのんびり歩くなんて選択肢は、彼女には無かった。


 女子大は、主要駅の大通りからバスで約十分。市役所をちょっと通り過ぎたところにあった。交通の便はいいっちゃ良いし、悪いっちゃわるいような、なんとも言えない立地だった。


 大学の隣には大神宮と公園と運動場があって、その前をせせらぎ小道という、舗装された散歩道がずっと続いている。地元のバンドがせせらぎ小道と青春を掛け合わせて歌を作っていた。案外いい曲で、俺はそれを聴きながら小道を通って正門をくぐった。


 そして左の棟へ入って、三階の講義室へと続く階段を上がっていく。その最中、たくさんの女子学生の視線を感じていた。


 俺の通う大学の専攻学科には、二週に一度の頻度でこの女子大で受ける講義があった。必修科目だ。うちの県と関係のある美術家達ばかりを取り上げた美術史。正式名称はいつ聞いても覚えられなかった。やたら長かった。

 

 席に着いて気づいたんだけど、そのナントカ史で使う書物もノートも、何もかもを忘れてきた。

 代わりに鞄に入っているのは明日、自分の大学で使う講義資料。時間割を一日間違えていた。


 家が近いし取りに帰るかどうかとか、いろいろぐるぐると考え込んで、まあひとコマくらいならやり過ごせるかな、なんて強引に納得させようとしたところで、隣に誰か座ったのが分かった。


「一緒に見る?」


 小さな声で、でも芯のあるハッキリした口調。

 ちょっとつり目がちで、でも瞳が大きくて、物怖じせずに初対面の男を助ける度胸がある。傾げた首には綺麗な金髪が流れていた。それは腰元まで届きそうなくらい長かった。


 返事をする前に教授が点呼を始めて、彼女は何食わぬ顔で隣にノートやペンを広げた。伏せ目がちの瞼にかかる前髪は、きっと自分で切ったんだと思う。おおむね揃っているのに、眉間のところだけ角度がついて、ちょっと短くなっていた。


「全部忘れたの?」

「…情けないことに。」


 彼女が破顔する。案外幼く笑う子だった。

 教授の気怠げな声をBGMに、彼女は自己紹介をする。ついでにペンとルーズリーフも渡してくれた。


「瀬川伊月。そっちにほら、芸術科あるでしょ。」

「…瀬川伊月?」

「えっ?…うん。」


 それがどうかしたのかと言いたげな彼女に、なんでもないよと笑ってごまかした。

 このとき俺が心底驚いたわけを、いっちゃんへ話すまでには随分時間がかかった。俺の中でそれだけ大きな、とても大事なことだった。


佐々谷春彦ささやはるひこ。駅過ぎて川渡ったとこに四大あるでしょ?」

「一年生?」

「二十二で入って今三年生。」

「えっ年上?」

「えっ?」


 彼女はちょっと笑ってから、なんでもないよと返した。童顔でもこじんまりした体格でもないんだけれど、忘れ物して動揺してるあたり、俺は年上に見えなかったんだろうなぁ。


 講義が始まった途端、彼女は真面目な顔をしてノートを取り始めた。金色の髪を鬱陶しそうに左肩へと流して、左手に赤い万年筆を握っていた。

 その凛とした眼差しにつられるように、俺は教授と黒板の方へ意識を向けた。本当は講義よりもずっと、彼女の真剣な表情を見ていたかった。流石にそれじゃ不審者なのでやめた。


「お礼させてくれない?」

「…ハンバーガーが食べたいかな。美味しいお店があるの。この後なら空いてる。」

「道わかんないから案内だけお願い。」

「わかった。」

 

 この日から、俺達は二人並んで講義を受けた。

 全く理解できない教授の話をリアルタイムで解釈してもらったりとか、講義に飽きて絵しりとりしたりとか、眠りこける彼女の代わりにノートを取ったりとか、その逆とか。そのノートには睡魔と戦った証のミミズ文字がいっぱいあって、テスト対策に頭を悩ませたりとか。


 こうして面白おかしく過ごす日々が積み重なっていくことが、俺は何より嬉しかった。

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