第3話
樽山を含め室瀬川流域沿いに位置する
いつの頃か、一人の里人が言ったらしい。『水神様は娘を欲して川を乱しているのではないか』と。そこで、川の支配者たる水神の居――鏡池に贄として若い娘を差し出した。すると不思議なことに、頻繁に起こっていた筈の大水の災厄がぴたりとやんだのである。これ幸いと、里人たちは川の中枢に位置する鏡池に生娘を捧げ、水神の気を鎮めようと祝詞を詠むことを習わいとした。
以来五里は協力し、隔年ごとに儀式を行うことを決めた。水神の元へつかわす娘の選出は一儀式に一里が任を持つ。つまり、五里が順に任を回すことで、各里が娘を出すのは十年に一度とした。
この贄を選ぶものこそが白羽の矢であった。五里の中心にある五央殿より射られる矢は、水神の御心を宿すとされ、儀式の年、娘を出すこととなっている里に向かって放たれる。今年は樽山ノ里が儀式の任を担う年であった。
屋敷に立つ白い矢羽根は水神に選ばれた証。三津蔵の家の娘はこの矢によって見事選ばれたのである。
とうとうと流れる川を浅香はぼんやりと眺めていた。この場所よりいくらか上流に水の社がある池がある。周りの景色を全て映しこむと言われている鏡池。そこへ浅香は一週間の後に入ることとなっていた。普段は人の立ち寄らない、神域とはまさにこれかという美しい場所である。浅香は十年前に見た池の姿を思い起こして目を伏せた。
浅香にはもともと五つ年上の婚約者があった。顔も見たことのない、隣里、亜露にある大屋敷の跡取り息子。互いに慕う心はなくとも、物心ついた時から親同士によって結ばれていた縁だった。けれども、水神の意は絶対である。三津蔵の家に水神へ身を捧げることのできる娘は一人しかいなかった。他は、老いの見え始めた両親と兄夫婦、そして、彼らの幼い子どもたちだけだったのだ。必然的に浅香は婚約者のもとではなく水神のもとに嫁ぐこととなった。
それは良い。それは致し方のないことだった。
「浅香」
川の流音にかぶせるように背後から声がかかった。浅香は溜息を胸に押さえ込んでから、ゆるりと振り返る。河原に敷き詰められた小石を踏みしめてやって来た若者は浅香の前ですっくと立った。秀麗な顔立ちではないが、人の良い性格がにじみ出ている男である。しかし、この時ばかりは、彼の顔も険しいものだった。
「
「浅香、行こう」
言うなり、庫侘は躊躇いなく浅香の腕をとった。だが、対して浅香が放った言葉は「どこへ」という簡素なものであった。彼女は庫侘の手を容赦なく払うと、彼を睨み上げる。
「私たちがどこへ行けると言うのです。五里でこの儀式がどれほど重い意味をなすのかよそから来たあなたには到底理解できぬでしょう」
「浅香は、こんなくだらぬことで自ら命を投げだすと言うのか?」
「くだらぬことなど――」
「くだらぬではないか! 人身御供で氾濫が防げるものか。大水の被害が減ったのは、治水技術が上がっていったからだ。他に理由などない。それくらい、分かっているだろう」
「……知りませぬ。私には、わかりませぬ」
「――浅香!」
強い叱咤に、浅香は身を強張らせた。両肩を痛い程掴まれる。
「……私にはできませぬ。逃げれば追われて連れ戻されるだけです」
掴まれた肩がぎりぎりと唸るようだった。浅香にできたのは、冴え冴えと昏い目で庫侘を見つめ返すことのみ。
「ならば!」
庫侘は浅香の長い髪に手を差し入れた。華奢な体を引き寄せて口を合わせる。まるで獣が噛みつくようなその行為は、事実、浅香が思い切り庫侘の唇を噛んだことで終わりを告げた。
浅香は肩で息を繰り返し、切れた唇から血を滴らせている庫侘から離れた。
「おやめください。我が身は最早水神様のもとにあるも同じ。資格をなくせば私もあなたも殺されます。どちらにしろ逃げ場などないのです」
浅香は衿の合わせを握りしめ、視線を足もとの小石へと落とした。
「今でも庫侘、あなたを慕う気持ちに変わりはない。愚かと蔑まれようとそれは事実です。だけれど、私には婚約者がいた。流れ者のあなたが我が家に認められるはずもない。もとより結ばれるはずがなかったのです。これはきっと水神様の御慈悲。どうせ庫侘と一緒になれぬのなら、私は掟に従い水神様のもとへ嫁ぎます。だから、もう――」
私に近寄らないで、と浅香はぎゅうと目をつむって視界を閉ざした。
真暗な闇の中には、川の流れしか聞こえない。長い長い時間がたった。
やがて、小石がぶつかって軽い音を立て始める。庫侘が完全に立ち去ってしまうまで、浅香はさやさやと鳴る川辺に立ち尽くしていた。
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