第9話 きつつき戦法
茶臼山に向かう武田軍ではあったが、一向に動きを見せない上杉軍に苛立ちを覚えてもいた。
「勘助!謙信は動かぬようだな」
「いやさすが謙信、わが誘いには微動だいたしませぬ。本来戦とはかような駆け引きが難しいもの。それでこそやりがいがございます。謙信をみくびっては大怪我をするということでございます」
「うん。しばらくはこのままここに居座るのか」
「はっ、ここをすぐに動けば、謙信に試したことをむやみに教えたことになりまする。しばらくは、ここに留まり様子をみることにいたしたいと。また、伏兵の存在が気になるゆえ、探索をしております」
「わかった。茶臼山に陣を布け!。謙信の出方を待ってみるか」
しかし、謙信はじっとして動かなかった。謙信は怒涛の如く、戦陣をかき回して勝機を得るタイプの用兵を好む。しかし、まったく動く気配は見せなかった。信玄はなにか裏があるに違いないと憶測した。
謙信も茶臼山の信玄に動きを注視していた。
「お館様、信玄は茶臼山に陣を布きましたが、いっこうに動きませんな」
「信玄め、ここを見下ろす茶臼山に腰を落ち着かせ、こちらの動きを監視しておるのだろう。こちらも動かねば、信玄は動くまい」
「持久とならば、こちらは兵糧がいずれ底をつきまする。善光寺の荷駄隊からの補給はこのままでは、不可能となり申す」
上杉の陣営は苛立ちを覚えはじめていたが、謙信は悠然としていた。我慢比べははじめから判っていた。
「ところで、越中の動きはどうなっておる?」
「はっ、朝信殿からの報せには、越中のこと工作は思いのほか順調に進んでおる由、安心してくださるようにとのことでござる」
中条藤資が云った。
「うん、あいわかった」
「お館様、あれを御覧下され」
柿崎景家が手を茶臼山の方に差し上げて云った。
(??)
「おうー」
その場にいる皆がその方向を注視した。武田の風林火山の旗印が動き出していた。信玄は動きを見せたのである。謙信はその軍勢の動きを見ていた。威風堂々の行進である。さすがは、信玄の見事なさばきよと感心していた。
「お館様、これを見逃してはなりませぬ。一気に攻めかかりましょう」
と景家は云った。
「待て!」
(信玄め威風堂々とした行進で、われを試す所存か?)
「このまま、眺めておればよい」
と謙信は言い放ち、武田の動きを見守っていた。
「お館様、このまま突進すれば、武田を崩せますぞ!」
「よい」
(信玄め、誘っておるのう。まだまだ根競べぞ。こたびは我慢ぞ)
茶臼山に陣を布いていた武田軍は六日後の八月二十九日、陣をひきはらい動きだした。善光寺平に荷駄隊は確認したが、他に伏兵がいるとの情報はなかったからだった。ひょっとすると兵糧不足におちいればこのまま一戦も交えず春日山に帰るかもしれないという公算も考えられた。過去の対峙もたいした戦にはならず、両軍とも帰国しているのだ。今回も同じような状況になることはありえたことだ。そのためには道を空けておくのも兵法の一つだからだ。
「お屋形様、海津に入られまするか」
勘助が尋ねた。
「うん。ここに滞陣する意味もなかろう。海津城に入っていましばらく様子を見よう。旗本衆も少しは骨休めできよう」
「はっ」
「ただちに、陣を海津に移す!ただし、上杉の襲撃があるやもしれぬ。十分に備えよ」
二万にも及ぶ武田軍は動き始めた。風林火山の旗をはためかせながら、威風堂々とした行進で海津へと向かった。当然、このときを狙って襲うかもしれない上杉軍には十分な注意を払ってであった。しかし、何事もおこらなかった。
海津城の高坂弾正もこの知らせを聞いて、両軍の動向を見守っていたが、上杉は全く動く気配を見せなかった。
(いつもとは違う)
弾正は上杉は勇猛果敢であり、迅速な戦法をとるのが常だと思っていたが、今回はそうでないのである。何かを考えておるとは感じたが、それが何かわからなかった。
海津に入った信玄であったが、何もすることなく七日間が過ぎていた。あいかわらず、謙信は微動だにしない様子であった。物見は片時も妻女山から眼をはなさず監視していた。遊軍がときたま附近を偵察をしてはいたが、本陣はまったく見事に動かなかった。謙信は陣を引き払わないのか。
海津城内では、しきりに軍議が行われたが、いっこうに動きを見せない上杉軍に対して、これといった対抗策など出るわけでもなく、いらだちはつのるばかりであった。勘助は眼をつぶり一人考えていた。
(謙信は戦うでもなく、退くでもなく、何がしたいのだろうか。こちらも苛立ちが積もっているが、上杉内でも苛立ちは感じておろう。いや、あくまで謙信の作戦ならば、その苛立ちは少ない。もし、妻女山から動けば、武田も動くことを計算にいれている。しかも、わが武田の方が駒の数が多い。むやみに動けば、上杉の不利だ。わが軍勢が海津から甲府に向けて撤退すれば、どう動くであろう。追ってきても、背後の海津城から挟み撃ちされることは明白。と、なるとやはり、上杉はあくまで動かぬために妻女山に在るのか・・)
ふと眼を開けてみると、鳥が樹皮に嘴をつきたてているのが見えた。中に潜む虫を追い出すようにして、捕らえて食しているのである。しばらくじっと見ていた。その手並みはあざやかに眼に焼きついた。すごい策が、しかも自然の中にかくも簡単にあったのである。
(うん!かくなる上は、わが策はこれしかあるまい)
勘助は眼を輝かせて、信玄のもとへと赴いた。
「お屋形様、ひとつだけ策がございます」
「うむ、何だ?勘助、言うてみるがよい」
「はっ」
勘助は、信玄の側に近寄り、耳元にしっかり聞えるように言った。
「夜半のうちに別働隊をもって妻女山麓に待機いたし、夜明けとともに謙信の本陣を衝きますれば、上杉勢は山を下りて八幡原を善光寺に向けて退くことになりましょう。お屋形様は、本隊を川中島に配されて下りてくる上杉を討てば、前後に動くことのできぬ謙信は袋の鼠同然。一気に殲滅させることができるかと存じます」
「うーむ」
信玄はしばし考えこんでいた。もはやこの作戦以外には戦局を打開することはできぬかもしれないと思った。このままじっとしていていれば、お互い兵糧が尽きるまで我慢比べとなるだろう。なにもないまま甲府に帰っても、またこの川中島まで出陣する時がくるであろう。ここらでなにか決着をつけたいものだと思っていた。上杉はわざわざ渦中に飛び込んできているのだ。それを勝利に結び付けることが肝要なのだ。勘助のたてたこの策であれば、勝利の女神はかたいのだ。そう自分に言い聞かせていた。
「よし、勘助。全軍に触れを出せ!今宵出陣をいたす」
「はっ!」
後に語られる〝きつつき戦法〟の作戦であった。
「道儀殿、武田に動きがあるように見えまする」
道儀の手下の間者が海津城内に送り込んでいる仲間から情報がもたらされたらしい。
「何と、動きがあると?」
「はっ、先ほど夕餉を手早くすませ、戦備を整えよとの達しがあった由にございます」
「今宵動くのだな」
「はっ、夜陰に乗じて妻女山の背後に迫りて夜明けとともに襲撃し、慌てて下りてきた所を武田の本隊が襲う由と見うけられます」
「でかした。とうとう動くか。わしは妻女山に火急を知らせる。あと動きを監視せよ」
「はっ」
道儀は妻女山の謙信の下へと急いだ。
謙信もまた異常を感じていた。
「景家、あれを見よ!」
「海津城でござるか。夕餉の仕度でござりましょう。煙が行く筋も上っており申す。余裕のあるところを見せておるのでしょう」
「いや、違うな。いつもより半刻はやく、煙の量も多い」
「さようでござるか。そういわれれば、そのようにも見受けられ申すが」
「感じぬか?」
「それほど、いつもと同じかと」
「長滞陣で冴えておらぬようじゃな」
「申し上げます。道儀殿、火急の用で控えております」
奏者番が伝えてきた。
「おっ、すぐこちらへ通せ!」
「はっ」
道儀は小走りで謙信の近くまで来て、膝をついて座って言った。
「お館様、武田が動きまする」
「やはりな」
「??、ご存知で」
「あの幾筋もの炊煙を見れば察しはつく」
「さすがはお館様。信玄は一隊をもって妻女山を夜明けに襲撃し、あわてふためき下山して善光寺に退くところを信玄本隊がむかえうつ段と聞き及びましてございます」
「確かだな!」
「城内の間者から聞いたものでござれば確かだと思われます」
「うん、よう知らせてくれた。そちは麓でわれらが寝静まっているよう計らえ」
「で、お館様は?」
「今すぐ山を下り、善光寺へ向かう」
「かしこまりましてござる。あとは道儀におまかせあれ」
道儀は立ち上がり一礼して、謙信のもとから離れて行った。道儀はお館様にはもう会えぬかもしれぬと思っていた。
「お館様、山を下りると」
景家が聞いた。
「おっ、すぐ皆を集めよ」
「はっ」
景家は側近、旗本衆を呼び集めるよう命じていた。
謙信のもとに、側近・旗本衆が集まった。村上義清、高梨政頼、河田貞政、本庄慶秀、柿崎景家、北条輔広、本庄繁長、水原隆家、加地知綱、安田長秀、宇佐美実定、直江実綱らがすぐさま本陣に姿を表わした。
「皆の者、よく聞けい!ついに信玄が動き出す。おそらく信玄は夜陰に乗じて妻女山の背後に回り、夜明けとともに襲撃するつもりであろう」
「それでは、われらは武田の裏をかき、待ち伏せして包囲して殲滅するのであろう」
本庄繁長が謙信の話が終らぬうちにでしゃばって嘴ってしまった。
「そうではない」
(??)
「信玄は襲撃すればわが上杉は当然川中島を善光寺に向かうであろうと予測し、川中島で布陣して待ち構えて挟み撃ちにする策をとるであろう。この謙信でも同じ策をとる」
「おうっ」
皆意外な策に感心してしまったし、その読みをする謙信に心服した。
「われらすぐさま。陣払いをする。特に目に付くような陣旗はそのままにせよ。われら全く武田に知られぬ如く、退散せねばなぬ。一刻も早く川中島をぬけ、善光寺に本陣を構える。よいか皆の者!」
「はっ、ただちにとりかかりまする」
「実綱」
謙信は直江与兵衛尉を呼び止めた。
「はっ、お屋形様。何なりと」
「小荷駄隊を指揮して、犀川を渡らせよ。それを終えたら丹波島に踏みとどまれ。この分だと明朝は霧となろう。周りは見えぬ。万一武田軍とぶつかれば一戦も已む無い。さすれば、犀川で防ぎ止めねばならぬ」
「はっ、急いで防御陣形をとって待ちまする」
「うん」
一方、武田側は戦備を整えて、奇襲部隊は勢ぞろいして、海津城を密かに出陣した。あわせて、上杉の動静を探るために百足衆・物見を放っていた。 夜間ではあり道案内として高坂弾正が先鋒役をつとめ、飯富三郎兵衛昌景、小幡又兵衛昌盛らが随行したが、夜間従来言われる一万二千の大軍を行進させるのは並大抵ではない。ましてや迂回路であり、草木生い茂るところを行くのであるから、無理がある。途中で、横合いから襲撃するにはと、妻女山から川中島への横槍に第二の部隊を置いた可能性が強い。その方が奇襲戦法としては常套手段である。妻女山へはどのくらいの規模の部隊が向かったかはっきりしないが、妻女山は城ではなく本陣を置いただけの防備には弱い場所だけに追い立てる役目は三千か四千もあれば十分だと考えていい。上杉方もどのくらいの兵が押し寄せたか、闇夜である限りわからないのだ。
武田の妻女山奇襲部隊は、この作戦が成功することを祈りつつ迂回しながら少しの灯りをたよりに進んでいった。高坂弾正が先頭になり、道に詳しい者を先導として向かっていた。別に物見も複数にわけて四方に出していた。だが、其の様子は、道儀が配置していた軒猿に監視されていた。
「武田の物見は、気づかれぬように殺れ」
道儀は命じていた。このため、武田の物見はほとんど各所で抹殺されていた。ゆえに、上杉の情報は、別働隊にも信玄本隊にもなにも届けられていなかった。
「謙信はどうしておるか?物見の報せは?」
信玄は苛立ちを覚えながら、八幡平に向かっていた。謙信は我らが行動を知っておるのか。嫌な予感を感じつつも馬を進めていた。
上杉軍は、丑の刻前後に妻女山を下りて、千曲川を渡って八幡原に向かった。大軍であり夜間でもあり、しかも武田に知られぬよう静寂を期して行動せねばならない。馬の嘶きに十分に注意し、足音を忍ばせての行軍なのでそれはゆっくりとしたものであった。
甘粕近江守が率いる約一千の部隊が、川の渡し附近に留まり殿軍として、やがて襲来するであろう武田の別働隊を防ぐために陣を敷きかけていた。
「あと、一刻もすれば武田の先鋒隊は妻女山の麓に着きましょう。備え怠りなきよう」
道儀の配下の者が近江守のもとへ注進におとずれていた。
「おう、一歩たりとも武田の者はここを通さぬ!」
夜が明けたら、そのときにはもう謙信を含め本隊は善光寺平まで進んでいよう。そうすれば一気に撤退すればよいのだ。道儀らも何らかの手段を用いて、武田軍を牽制するであろうことは予測できる。
百足衆の一人海野三郎は配下の者数人を連れて、物見に出ていた。上杉の動静を探るため、千曲川を渡り妻女山から下りてくる気配はないか確かめるためだった。三郎は何か変な予感を感じていた。別働隊が迂回して妻女山に向かうが、ひょっとしてその時には蛻の殻ではないかと悪い予感がした。そうであれば、川を渡り大軍が進む気配が夜中であろうとわかるはずであった。もしそうであれば、合図の狼煙をすぐさまあげなければ、この作戦は無に帰してしまうのだ。
深々と深まる暗闇の中、自然に虫の音や水の音がかすかに聞えるだけだ。
「何も聞えぬな」
「はっ」
立ち止まって耳を済ませて辺りをうかがっていた三郎は、またゆっくりと進もうとした時だった。馬のいななきが微かだが聞えた。
「聞いたか?」
「はっ。確かに馬のいななきのような」
三郎は、念のために下馬していた。蹄の足音は禁物だからだ。
「見てまいれ」
二人の物見が静かな足どりで前の方に向かっていた。五間ほど進んだらもう姿は見えない。しばらくすると、二人は帰ってきた。
「おそらく上杉の軍勢でございましょう。かなりの数で八幡平の方に向けて進んでおります。妻女山から下りてきたのでしょう」
「やはり、思ったとおりか。すぐにお館様に知らさねばならぬ。狼煙の用意をいたせ」
という言葉が終わらないうちに、近くで草むらがガサガサという音がした。
「武田の間者は生きて返さぬ」
するどい低い声が闇から響いてきた。
あっという間に囲まれてしまったらしかった。三郎はかすかだが空気が震動する音を聞いた。隣にいた若者の胸に槍がつきささる音が聞え、ウッという声とともにその若者は倒れこんだ。ほとんど光のない闇の中では何も見えぬ。音だけが頼りだ。こちらも見えねば敵も見えぬはず。一気に駆け出して包囲を突破する方がよいと三郎は思った。
「皆!駆けぬけてこの場を去れ」
小さいがするどい声で三郎は仲間に告げた。しかし、繰り出される槍と刀の刃に次々と倒れていった。三郎は微かな音だけを頼りに刃を受けて跳ね除けていたが、ついに太ももに槍創を受けて昏倒し、首をはねられてしまった。
上杉の行動は武田軍にはまったく入らなかった。そして、暗い中を微かな灯りを頼りに上杉軍は善光寺平方面へと急いだ。灯りが遠くにまでもれなかったのは、川中島を覆いはじめた霧のせいもあった。灯りは霧に包まれ、遠くまで届かなかった。しかし、行軍速度は遅く夜明けまでに善光寺平に到着することは無理だと思われた。少し空が明るくなりかけてきたが、霧のため遠くはまったくわからなかった。
妻女山襲撃の武田の別働隊は夜間行軍を続け、夜明け前には集結を整えつつそのときをむかえようとしていた。その間、物見の兵が様子を窺いに上杉の陣営の近くまで偵察に出ていた。
上杉もそれを警戒していたので、篝火と警戒の兵は残していた。と、いってもそれは道儀の配下に者たちが扮していたのだが。
「申し上げます。上杉に何の徴候もみられません。篝火をつけ、見張りの者が数名いるのみでございます。わが襲撃に気づいてはおらぬと思われます」
「うん」
高坂弾正はそれを聞いて、襲撃隊本隊の馬場信房や飯富虎昌らに襲撃は間違いなく成功すると報告し、予定どおり行動を開始することを確認した。
武田軍が控えている場所は、妻女山の麓であり川中島から離れているため、地形独特の霧の発生はなく、絶対的に武田が有利に事を運べると信じていた。
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