第6話 関東出兵

 永禄三年五月、駿河の今川義元は上杉景虎の上洛に刺激されてか、二万五千余の大軍を率いて西上し、三河から尾張に攻め入っていた。織田軍は劣勢ながらも善戦していたが、多勢に無勢追いやられていた。そんななか信長は突如として二千余を率いて清州城を飛び出し、桶狭間において義元の本陣に奇襲攻撃をかけ義元の首を落とした。義元の死により武田、北条、今川の三国同盟は消滅するにいたった。里見氏は北条軍に攻撃され、頼れる武将はもはや遠国越後の景虎だけだった。他の関東の諸豪族はもはや北条に敵対する力はなく、やはり景虎の力を借りるしかなかった。


 出陣要請の急使が三国峠を越え、春日山城へと走った。

「なにとぞこの窮状をお察しくだされご出陣たまわりたい!このまま捨て置けば、北条の膝元となるのは必定でござる。これはまったく耐えがたきこと」

 この非常事態を聞いてはじっとしていられる景虎ではない。

(やはり余が行かねばならぬ)

と、関東出陣の決意をする。


 景虎は早速春日山城に諸将を集めた。

「皆の者、去る二十二日里見義堯殿が三乗殿を通じて援を請うてきた。又、佐竹殿や結城殿も余の出陣を願っておると聞きおよぶ。先年上洛し将軍公よりのご沙汰は頂戴しており、関東出陣は願ってもない好機である。この上は八幡大菩薩の社前にて関東管領を拝領し、北条を蹴散らしてくれよう。皆は軍役に備え、普請の勤めを怠りなくいたすように勤めよ」

「ははっ!」

「藤資、今度の出陣の規模は、いか程となろう」

中条藤資は身体を景虎の方に向け、一礼しながら言った。

「旗本衆より騎馬二百、鑓一千二百、弓二百を含めおよそ三千、諸将より騎馬五百、鑓三千、弓三百、手明七百を含めおよそ五千、小荷駄を含めおよそ一万程になるかと」

「うむ、その当りとなろう。国内の首尾も考えねばなるまい。特に信濃の国境と越中の動きには気をつけねばなるまい。さて、出陣の日取りであるが」

「ご領内の様子と吉凶をみますれば、八月の末、二十五、六日あたりが妥当かと思われますが」

本庄繁長がゆっくりとした口調で言った。

「うむ」

「お館様」

「何か、朝信」

「こたびの関東出陣は、坂東の豪族どもに要請されてのこと。北条と一戦することとなりましょうが、多分北条は小田原に篭城して成り行きを見守るでありましょう。坂東の将も上杉に心を許すものばかりとは限りますまい。又、関東管領ともなれば、命狙う者多しと思わねばなりますまい。関東での長居は無用と存知ます」

「そなたの言い分わからぬでもない。しかし、将軍公より関東のことゆめゆめよろしく頼むと託されたのだ。尻尾を振って逃げ帰るわけにはいかぬのだ。余は義に反する輩は好まぬ。そのために毘沙門天になりかわり非道の輩を誅さんものである。そのような輩は唐天竺までも追いかけて懲らしめて遣わすのが余の勤めと思うておる」

「しかし、お館様!」

「余はただ昔日に様な平安な時代にしだいだけじゃ。それを乱す輩は、断じて許さぬ」

「ならば、お館様。やりましょうぞ、北条を懲らしめに参りましょう」

景虎は目を輝かせて諸将を見渡しながら言った。

「この景虎、上杉家を継承し、関東管領となって関東を平定せん!義をもって和をなさん」

「おう!」


 八月二十六日早朝、景虎はいつもの通り、毘沙門堂に入り必勝の祈願をおこない、それが終ると、左手に数珠、右手に黒漆塗りの軍配を手にして堂より出て、愛馬夕月に乗った。

「毘沙門天は怒っておる。これより景虎関東に下向し、将軍になりかわり凶賊輩を征伐する。者共いざ征かん!」

「おうー!」

一万もの軍勢の喊声が、春日山城を囲む山々に響き渡り、数倍のもの喊声のようにこだましている。

(毘沙門天様の出陣じゃ)と町中の人々がその英姿を見送った。


 中条藤資が先陣を賜り、毘沙門天の軍旗を掲げ、次に紺地に日の丸の軍旗が続く。大手道を下り、中屋敷から関川を渡り、三国峠へと進むのである。樋口惣右衛門の居城直峰城の脇を抜け、現在の十日町から六日町を経て、三国峠の難所に向かう。三国峠は標高千二百メートル余あり、現在も難所の峠として知られている。景虎はこの後何度もこの厳しい峠を往復することになる。一万もの軍勢がこの難所を越えるのは大変なことである。残雪のある時もあり、荷駄を伴う行軍は疲労を伴う。進軍速度は遅れ、疲労は戦う前に極度に達したと想像できる。


 二十八日には三国峠を越え、二十九日未明には沼田城へと向かった。沼田城は北条方の沼田顕康が守っていたが、

(上杉景虎来る!)

の物見の報告が入るや、加勢に来ていた北条軍は一目散に城が逃げたため、顕康は降伏して城を明け渡した。

 上杉軍は休む間もなく、今度は長野藤九郎、彦七郎兄弟が守っている厩橋城へと向かった。長野兄弟は最初城門を閉ざし、一戦するものと構えていたが、「毘」の軍旗と統制された軍勢を見るや、震えが止まらなくなり、

「即刻開城せよ」

 と、上杉の軍勢を城内へ迎え入れた。

(景虎が大軍を以て関東に出陣する)という噂は関東一円に広まっていた。これはあらかじめ直江景綱が放っていた「軒猿」という諜報活動集団の仕業も貢献していた。

“上杉景虎は将軍公より関東管領職を賜り、関東平定に乗り出すことになった。逆らう者あらば、容赦なく成敗いたす”

 ということを流言して廻っていた。


 沼田や長野兄弟は景虎を恐れていたので、戦う意思はなく恭順の意を示し、今後景虎に臣従することを誓った。彼らは、景虎がいままで見聞したことのない武将であり、まさしく“毘沙門天”の化身のように思えた。それほどエネルギッシュに見えたのである。

 景虎はそのまま厩橋城に入城し、ここを本陣として滞在することに決し、近在の豪族連が帰服恭順の意を現すためにやってくるのを待つこととした。

(景虎厩橋城にあり)

と関東一円に広がっていった。

「お館様、ここまではうまく事が運んでおります。あとは三楽殿、成田殿等が参れば、反北条の武将は大方こちらに付きましょう」

「坂東の衆はいかほどとなろうか」

「十万は下らぬかと」

「十万の軍勢がわが手元にあれば、小田原を屈伏させるのも容易いものに」

「しかしながら、十万といえども烏合の衆、小田原を攻略するのは無理かも知れませぬ」

「無理と申すか」

「御意、こちらを大軍と見た氏康は篭城して野戦には望むますまい。また攻める側にも、大軍ゆえの楽観さが出ましょう。いずれ隙を生じます。十日もすれば戦意は乱れ、二十日もたてば戦意を失い、一ヶ月たてば兵糧が底をつきます。さすれば囲みを解いて帰国するしか手はありませぬ」

「うむ。大軍ともなれば兵糧も数多いる。一ケ月が勝負であろうか」

(さて、いかに北条との戦をしかけようぞ)

 景虎はしばし考えこんでいた。


 厩橋城にある景虎のもとに、続々と関東諸侯が訪れようとしていた。

「太田三楽殿、明後日にも到着」

「成田長泰殿、本日城を出発して、向いつつあり」

 斎藤朝信が景虎に関東の有力諸侯が参集しつつあることを告げた。景虎の表情は多少喜びへの表情と変わっていた。越後を出て険しい山道を越えて、疲労したうえに、もし関東諸侯が同意しなければ、大変な結果となるという覚悟があったから、安堵の色が表情にでたといってよいだろう。

「お館様、太田三楽殿がまいれば、これで関東の諸侯はこちらにつくことは明白でございます」

「うむ。そうだな。とりあえずは思惑通りにすすんでおろう」

「我軍勢は十万を越えるものと思われます。古今、これほどの大軍を動かした武将は皆無というもの。まことにめでたきことと存じます」

中条藤資が幸先によいことを称えた。

「藤資、喜ぶのはまだ早い。今からそれほど有頂天になっていたのでは、小田原には勝てぬぞ」

 藤資は早まったことを口にして申し訳なさそうな顔をして小さくなった。

「景綱、十万もの大軍となると兵糧が心配ぞ。氏康はおそらく小田原に篭城する策をとるであろう。攻めるには充分な兵がある。しかし、篭城となると長期戦を覚悟せねばならぬ。兵糧が充分がどうか、どれだけの兵糧が集められるか、手配せよ」

「はっ、まもなく収穫の時期となりましょう。しかし、天候や百姓の逃散により余り収穫に期待できないとの話も聞いておりますので、諸侯とはかりできる限る集めましょう」

「頼んだぞ」

「お館様、北条氏康、なかなかの戦上手と聞きますれば、篭城とみせかけ、野戦を望むことはありますまいか」

「氏康とて考えておろう。こちらは大軍、兵糧の大小が決めてと考えておろう。万一狙うとあらば、兵糧が欠乏して士気が衰え、囲みを解いて退却するときと考えておろう。こちらも大軍ではあるが、所詮関東連合の寄せ集め。意気は統合しておらず、そのうち不平不満もでよう。長期戦で囲んでも一ヶ月が限度であろう。ここは、小手調べにて、小田原の篭城の程をこの目で確かめることが肝要じゃ。氏康と戦うのはその後じゃ」

「お館様のご存念よう分り申した。我ら越後衆だけなら、戦もなりたちましょうが、寄せ集めの諸侯を急に采配するのは困難なこととご推察いたします。ここは、北条の出方を拝見つかまるろうではないか」

と、繁長が笑い飛ばすような勢いで言った。


 二日後、太田三楽が側近らと共に、景虎に拝謁し、反北条のために景虎の臣下に入ることを約定し、兵五千を率いて小田原に向うと誓った。

 翌日には成田長泰も来城し、臣下の礼をとった。この二人が景虎の臣下となった結果、日和見を決めていた武将等は、次々と厩橋城の景虎を訪ね、北条を討って関東平定のため景虎と協力する誓約をかわした。その数は七十六名に達し、その動員兵力は十万以上に及ぶと見積もられた。まさに想像以上の大兵力が景虎の掌中となったのである。

 

 永禄三年も十二月を迎え、寒い北風が吹き始めていた。雪が降り始めれば、三国峠は雪に閉ざされ、通行不可能となり、春日山にかえることは不可能になる。越年と覚悟せねばならなかった。北条は思った以上に動かず、こちらからも何も仕掛けをしないので、ただじっとしているだけであり、その年を終えようとしていた。無駄な時間がたっていた。さすがの景虎も苛立ちを感じ始めていた。


「お館様」

 となりの部屋から小さいが低い響く声がした。

「道儀か?」

「はっ」

 道儀は、軒猿などのいわば偵察部隊の長であった。

「遅かったのう、待ちかねたぞ」

 道儀は静かに部屋に入ると、景虎の間近に座った。

「しばらく人を近づけるでないぞ」

 景虎は小姓にそう言って、誰も近づけないよう指図をした。

「はっ、かしこまりました」

「で、北条の動きは?」

「小田原にあまり大きな動きは見られませぬ。城に兵糧は備蓄されておるようで、あわてて兵糧を運びいれる様子はございません。城下の町人なども戦が始まるという雰囲気はいささかも見られません。ただ、各城門は警備が厳しく、出入りは札の有無をしております。各支城への兵は少なく、小田原に集めている様子にて、支城は捨てるを覚悟かと」

「うーん」

 景虎は口をへの字に曲げて聞いていた。

「城下の噂では、氏康は今回ばかりは野戦は不利ゆえ、篭城して時をかせぎ迎え撃つのが得策と流布されております。お館様が春日山に帰るのを待つ所存でございましょう」

「氏康め!やはり出てこぬつもりか。ならば、望みどおり小田原を直接攻めるか」

「お館様、ここは一つ牽制してはいかがかと」

「陽動策で氏康の出方を見よと」

「御意」

 景虎の眉が動き、眼光が強さを増した。

「どのような策をとる」

 道儀は景虎の耳元に近づき小声で言った。

「北条は当然河越を攻めた上で小田原に来ると見ておりましょう。それが、道理というもの。で、こちらは河越をせめず通り越して、高月か滝山のいずれかを攻め落とし、陣を敷いて北条の出陣を待ちます。当然、河越からの出陣で挟み撃ちもありますゆえ、一部で包囲しておきます。氏康が河越を見捨てるかどうか、氏康が出陣しなければ、それから小田原を包囲するまで」

「うむ・・ここでじっとしておるのも癪にさわる。こちらの持駒は手にあまるほどある。一度仕掛けてみるか。雪解けがなれば、越後に一度帰らねばならぬ」

「それもよいかと」

「道儀、そちも配下の輩をひきつれ、撹乱してくれ」

「はっ、ではさっそくに事を運びます」

「頼んだぞ」

 道儀はさがり、物音も立てずスルスルと居たという気配も感じさせず出て行った。


 景虎はしばし考えをめぐらしたのち、重臣たちを集めるよう小姓に指図した。

夕刻、中条、斎藤、直江、本庄等景虎直下の武将と太田、成田、土屋、宇都宮などの諸将三十余名が集まった。

「集まってもらったのは他でもない。いよいよ北条征伐を行なわんが為である。各々の役目を言い渡す」

「お館様、いよいよ北条攻めでござるか。腕がなり申す。このところ暇ゆえどしたものかと思案していたものよ。お館様がなかなか腰をあげぬゆえ、もう越後に帰るのかと思うておりました」

 本庄繁長が満悦な表情をうかべて言った。

「弾正小弼殿、小田原から氏康が出陣いたさば、この三楽、一気に蹴散らし氏康が首とってみせまする」

 太田三楽が真剣な眼差しで景虎に向って言った。ここにいる関東からの諸将のうち、期待できる軍勢は三楽の軍勢より他には見当たらない。

「三楽殿、心強い限り。頼りにしております」

「お館様、先陣は是非この朝信に賜りたいと存ずる」

「いやいや、この藤資が先陣に決まっておる」

「そう逸るでない。朝信、藤資」

「三楽殿は三万の兵をもって、まず高月城と滝山城を攻め落とされよ。余は五万の兵を率いて、松山城付近に陣を敷き、北条軍の動きに備える」

「では、お館様、万一氏康が出て来ぬときは、一気に小田原に攻め込むご所存で」

「いや、小田原から出てこれば、一気に決戦に挑むが、恐らく出てはこぬ。こちらの小手調べの戦じゃ、気を楽にもって戦に望め。小田原攻めはまだ先ぞ」

「はっ」

「坂東武士の戦ぶり、越後の方々にご披露奉る」

 三楽が坂東武士の意地を見せる戦いでもあると、越後衆に豪語した。

「おう、三楽殿、とくと拝見いたそう。越後の粘り強い戦ぶりも御覧あれ」

「楽しみにして拝見仕る」

「出陣の前祝いじゃ。誰か、酒を持て!」

 藤資が出陣祝いの酒肴を準備してもってくるよう指示した。

「はっ、ただいま持参いたします」

 もう、準備が整っていたのか、すぐさまに酒と肴の膳が運ばれて諸将の前に用意された。

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