8.Si sposta in avanti.






惚れたと気付いてからが一番悩んだ。


自分の仕出かしたことだ。


だから、俺自身の手で清算しなきゃならない。


そして、俺は前に進むんだ。




















「桑畑さん、けじめはご自分でお願いしますね?」


前園に休暇を取らせた日、帰り際に宮下に呼び止められて言われたのがこれだった。


言われなくてもわかっている。俺が周囲を欺いていること。それを前園が信じていること。


「結構、あからさま過ぎるんですよ。アプローチ、気をつけないと前園さんだって気付きますよ」


それだけ言って宮下は退社した。


その後姿を見送りつつ、俺は頭をかいた。


ばれてたか。


実のところ、今日に至るまでに何度か食事に誘ったことがある。仕事の話とか、色々と理由もつけてみた。だが、それでも素っ気なく断られるばかりだった。


その度に不安も押し寄せてくる。人間観察が趣味で洞察力も確かな宮下のことだから信用してはいるのだが、ここまでガードが固ければ彼氏でもいるんじゃないかと邪推したくもなる。仕事中に何度問い詰めてやろうかと思ったことか。もっとも、それだけは何としても堪えた。


自分から嫌われるような愚行はしたくない。それだけはお断りだ。


「はぁ。帰るか」


今日は飲みに行くとも伝えていない。だとすれば間違いなく飯が用意されてるんだろうな。


ふと、後ろに視線を向ける。さっき帰ってきたばかりの松戸が退社しようとしてた前園を捕まえて何かを渡していた。前園は一瞬戸惑ったような顔をしていたが、黙って松戸からその何かを受け取ってオフィスへと転進していった。


「あの馬鹿」


今朝の朝礼でも前園は明日休みだと言った筈だ。だというのにこういうことをするとはねぇ。


明日、絞ってやる。


そう心に決めて俺は退社した。




























部屋に戻ってから待っていたのは電話をしている真央だった。


「あ、帰ってきたから替わるね」


言って、受話器を俺に差し出す。


「誰?」


「お母さん。元気でやってる? ってさ」


なんだかんだで俺も信用されてはいないらしい。


まぁ。俺が真央にしてることは住む場所の提供だけだしなぁ。それに、その状況を自分のために利用してることもある。


そんな自分がほとほと情けなく、幼い子供のままなのだと認識させられる。


「もしもし?」


受話器を受け取って、第一声。


【あぁ静季? 体壊してない? 結婚したいって人はできた? そろそろそんなことを考えてもいい年になったんじゃない?】


「母さん。早口に捲くし立てないで。体は健康そのものだよ。結婚したいって人は」


そこまで言ってから前園のことが頭を過ぎった。


確かに、そこまでの関係になれればいいとは思うが。


ちらりと真央を盗み見る。


「結婚したいって人はまだいないな」


妹を女除けとして利用している現状。それで前園と付き合いたいだとか、虫が良すぎる。


母さんが俺の態度について説教してるのが耳に入ってくるけど、頭にはまったく入ってこない。


こんなことになるんなら、寄ってくるやつなんてはっきりと断るのを良しとしておけばよかった。本当に近づきたい人に近づけないジレンマを抱えるぐらいなら。


「お兄ちゃん、貸して」


真央が俺から受話器を奪い取る。


「うん。お兄ちゃん、何だか上の空だから。結構、悩んでるみたいだから」


最後に「はい」と、行儀よく返事して真央は電話を切った。


「お兄ちゃん、疲れてる?」


「いや」


「じゃあ、そろそろ話す気になった?」


一瞬、何のことかわからずに真央の顔を凝視してしまった。


「怖い顔しないでよ。最近、話に出てくる“マエゾノ”さんのことだよ」


「あ、あぁ。そうだな。話してもいいか」


安堵からか、それとも見透かされているような気がしてしまったのか、俺は前園のことを話すことを承諾してしまった。


それが悪いわけじゃない。俺たちはただ仲のいい兄妹だというだけだ。互いの色恋沙汰を雑談として話せるぐらい、仲のいい……


「じゃ、コーヒー淹れるね。インスタントでいい?」


「あぁ。お前にミルからやれと言ったところでできるわけがない」


そんなことをする女は身近には前園しかいない。


「それ、もしかしてマエゾノさんがするの?」


「そうだ。コーヒーが好きらしい」


「へぇ」と洩らしながら真央がカップにお湯を注いでいた。家事を人並みにはこなす妹だけに、こういう姿は安心する。自分が一人ではないことに安堵する。


ふと、前園が気になった。あいつは、一人だ。盆も年末年始も実家には帰らない。何をしているだろう? 何を考えるだろう? 松戸の頼みを深刻に受け止めてはいないだろうか?


「本が好きだって、前に聞いたけど。どんな本を読むとか知ってる?」


「そこまでは知らないな。俺も、あまり本を読むほうじゃないのはわかってるだろうけど。だからかな、余計にわからん」


でも、それが一人でいることを紛らわす手段なのだとしたら、淋しすぎる。


「あー。でも、自転車に乗るのが好きってのは知ってる」


「どんなのに乗ってるの?」


「確か、変速付の折り畳みだったかな? 前にそれで俺が忘れた書類を届けてもらったことがある。車で動いてるやつ相手に、それも結構タイトなスケジュールで動いてるやつに追いつけるんだからな。あれには驚かされた」


「凄いね。自転車なんてこの辺じゃ使いにくいし、あまり必要性を感じないから余計に凄いって思えちゃう」


そう。凄いんだ。


その凄さは自覚してるんだと思う。だとすれば。


「ちなみに、前園は明日休みを取ってるんだが、退社直前に朝一の仕事を頼んだやつがいる。どうすると思う?」


「…… 自転車で営業に追いつくんだから。誰よりも早く出勤して、仕事を片付けてしまう?」


「やっぱり、そう思うか?」


真央は黙って頷いた。


これで俺の明日の行動が決まった。まず、前園の部屋だ。自転車の鍵を没収する。



























「おはよう。今日は結構早いね」


「ちょっとばかり、用事があってな。すぐに出るつもりなんだ」


まだ5時にもなってないが、前園が動く前に何とかしなきゃならない。


「じゃあ、朝ごはんはどうするの?」


「今日は外で買っていくことにする」


「そっか。まだ準備してなくてよかったぁ」


悪いな、と言いつつネクタイを持って鏡に向かった。


俺がこうすることで、彼女は喜ぶのだろうか? 少しでも楽しむことを考えてくれるだろうか? 逆に心配しないだろうか?


考えれば考えるほどきりがない。それでも、考えずにはいられなかった。それだけ夢中になっていた。初めて会ったときにはこんなことになるなんて思ってもみなかった。それぐらい、今の状況が不思議でしょうがない。


髪形を整え、ネクタイの歪みを正す。営業職である以上、自身の見た目にも気を配らなきゃならない。


もし、こうやって整えていることで彼女がいいと思ってくれるなら、それは凄く嬉しいんだろう。そう思うと、自然と笑みが浮かんだ。


「お兄ちゃん。鏡の前で笑うと怖いからやめてね」


「怖いか?」


真央が俺の横から手を伸ばし、ブラシを手に取った。


「うん。でも、考えてることは大体想像つくけどね」


前園さんのことでしょ? と真央。


図星だけに何も言えなかった。


「でも、早く何かしたらいいのに。早く、お兄ちゃんの彼女を見てみたいし」


「何でだ? 昔はそんなこと言わなかっただろう?」


大学のころには彼女がいたころがあったし、交際を隠してたわけでもなく、家族もそれを知ってた。そのときにはこんな話にはならなかった。


「だって、昔はお兄ちゃん、“彼女”って存在が嫌で仕方ないって感じだったし。でも、前園さんのことを話すお兄ちゃんからはそんな感じはしないし。寧ろ、お兄ちゃんが自分から追いかけるのって初めてでしょ?」


言われてみればそうだったかもしれない。いつも勝手に寄ってきて、俺に勝手な幻想を押し付けて、俺をアクセサリーやステータスのように見て、そんな状況に苛立ちを感じていたんだ。


前園は、俺をどう見ているだろう? どう思っているだろう? 疎ましく感じてはいないだろうか?


「…… そろそろ行ったら? 前園さんの自転車の鍵、没収するんでしょ?」


「そうだな。行ってくる」


背広を着て、バッグを掴み、車の鍵を引っ張り出す。


まずは、前園のところだ。



























午前6時25分。普通に考えれば出勤するにも早い時間。それも、自転車であれば尚のこと。そんな時間に彼女は出てきた。


どことなく急いでいるように見える。ということは、間違いないのだろう。


俺は静かに近付き、肩を叩いた。


「え?」


自転車に跨ったところだった。もう少し行動が遅ければ間に合わなかったかもしれない。


「かなり早いけど、来ておいて正解だった」


「く、桑畑、さん」


ありえないものを見るような目でこっちを見てる。


まぁ、それもそうか。こんな早い時間に、職場の先輩が家に来るなんて誰が考えるだろう。


「昨日、松戸の奴が定時ギリギリで経費の申請出しただろ? こんなことになるんじゃないかと思ってな」


「でも、それは私の仕事です」


恐ろしいぐらいにきっぱりと言い切る。自分のことを“できない”と思ってるから逆に意地になってきてる。そんな感じだ。


でもな、俺も、松戸も前園もガキじゃあない。


「松戸だってガキじゃない。前園が休みなら自分でやるさ」


寧ろ、やらせる。


「でも」


まだ渋るか。


「いいから。休みのときぐらい、しっかり休め。遊びに行くんだろ? 楽しんで来い」


「はぁ」


無理やり押し切ってる間に自転車にロックをかけ、鍵を抜き取る。


「ほら。出かけるには早すぎるだろ? 部屋に戻って来い。俺も今から出勤する。松戸に説教かまして、今日も元気に営業巡りだ」


自転車の鍵をポケットにしまって、「じゃあな」と背を向けた。


さて、松戸は説教だ。地獄を見せてやる。



























出社してしばらくして松戸が出てきた。


「おはようございます。桑畑さん、今日は早いですね」


挨拶してきた松戸をただ無言で睨み付ける。


「な、何ですか?」


あからさまにたじろいでいる。そんな松戸にずい、と昨日の経費の申請書を突き出した。


「あれ? これ何か問題があったんですか?」


「あぁ。お前にな」


何のことかわかっていない松戸。


「今日は前園が休みだろうが。あいつ、朝出社しようとしてたぞ。これだけのために」


昨日の朝礼の時点で説明はされていたし、その時間なら全員そろっていた。


つまり、松戸はこのことを知っていなければならない。


「ああっ!」


思い出したらしい。


「すみませんでした。昨日戻ってきたときにちょうど会ったので、つい」


「つい、じゃない。お前も依存しすぎじゃないのか? ありがたいってのはわかるが、あいつだって休むことぐらいあるだろう? 少しくらいは自分でもやる癖をつけろ。


 頼りすぎだ。そのためにいるんだから、それが悪いとは言わん。でもな、それは依存とは違うんだ。覚えておけ。俺たちには責任がある。仕事をしていくこと、そのために必要な責任があるんだ」


何より。何から何まで面倒見てもらわなきゃ何もできない年でもない。


そこをわかってほしい。前園にも、わかってほしい。責任はある。だが、全部一人で背負う必要もないということに。


「はい。すみませんでした」


「わかればいい。今日は俺と回るぞ。いくつかの事業所の担当をお前に引き継ぐついでの顔見せに行く」


「はいっ」


基本的に、松戸はまっすぐだ。元気もあるし、愛想もいい。そういう意味では営業に向いているんだろう。爽やか、とでも言えばいいのか? 相手に不快感を与えずに笑顔を作れる。


もっとも、ヘラヘラしてると相手先から怒鳴られたこともある。それが理由で松戸は1課から2課へと配置換えになった。


しかし、きっとそれが松戸のためだったんだと思う。今の松戸なら1課でも通じるはずだから。



























いくつかの事業所を回り、いい時間になった。


「そこで昼にするか。軽食ぐらいならあるだろう」


「はい」


俺たちは手近なコーヒーショップに足を踏み入れた。


アーケード内の交差点に面したオープンテラスのある店。


「よく来るんですか、こういう店」


「偶にな」


真央の買い物に付き合ったりしたときに。とは、いくら松戸相手とはいえ言えなかった。


だが、前園にだけは早いうちに打ち明けなければならないだろう。そうしなければ、俺はただの二股野郎だ。


「ブレンドコーヒーとハムサンドとチリドッグください」


松戸が注文してる隣のカウンターで並んで待つ。


「ご注文は?」


「エスプレッソとエッグサンド」


「かしこまりました。では少々お待ちください」


しばらく待って、会計を済ませ品を受け取る。


そして、オープンテラスのほうへと足を進める。まだ、真夏の暑さはここまでやってきてはいない。


「こんなところに二人で座るとか、彼女としたかったですよ」


「彼女いないくせに何を言ってやがる」


「あはは。違いないですね」


でも、酷いですよ。とぼそぼそと呟く松戸。


聞こえてるんだよ。でも、何も言わない。そこは言ってやらない。他人の色恋沙汰に首を突っ込むのはごめんだ。自分の現状をまだ晒すわけには行かないのだから。


「桑畑さん。あっちにいるのって前園と宮下ですよね?」


言われて、振り返り松戸の視線の先を探る。


確かに、二人の姿があった。割と無理矢理取らせたような休みだったから、幾らか罪悪感のようなものを感じていたが楽しそうにしているのを見ると少し安心できた。それに、これなら鍵を返してやれそうだ。


「そうだな。休みを満喫してるようで良かった」


「そうですよねぇ。前園、一切休みとってなかったですからね。冠婚葬祭すら聞かないですし」


身内の不幸はなかったはずだが、友人の結婚ぐらいはなかったのだろうか? 親族の結婚にしてもそうだ。


「そだ。こっち来たら声かけてもいいですか?」


「好きにしろ」


「よかったぁ。前園に一言謝っておきたかったんですよ。早いほうがいいですし」


それもそうだ。


松戸にしたらいい機会なんだろうな。


こっちからしたら予定にない接触だから対応に悩む瞬間はあるが。


「こんにちわー。今、休憩中ですか?」


こっちにやってきた宮下がにこやかに声をかけてくる。


「んー休憩中。鬼先輩が引き摺り回すから」


松戸が意図して疲れた表情を作ることで会話を弾ませようとしている。


仕方ない。俺も合わせてやるか。


「こら松戸。誰が鬼だ。そういうことはせめて本人がいないところで言うんだ」


「すんません」


こちらも気付けば笑みが浮かぶ。


そこで視線を前園に向ける。


「それはそうと、休みを満喫してるみたいだな。前園」


「そ、そう、ですね…… 桑畑さん」


何かあったのか、前園の対応はいつに増してぎこちない。


「桑畑さんと松戸さんはこのまま昼食ですか?」


と、宮下。同時に、俺に一瞬だけ目が向けられる。


そういうことか。同調しろってことだな。


「あぁ。少しゆっくり出来そうだからな。今のうちだ。昼からまた忙しなくなる」


これでいいか、と視線だけで訴える。


「私たちもこれからなんですよ。良かったら相席させていただけませんか?」


どうでもいいが宮下。さっきのお前の表情は悪魔のそれだぞ。


「えぇっ!?」


「相方が驚いてるぞ」


それも心の底から。


「大丈夫ですよ」


その後ろで首をふるふると横に振る前園。見ていて可哀相なくらいだ。


「じゃ、すぐに行きますから」


そう言って、宮下は前園の手を引いて店内へと踏み込んでいった。


「これで良かったか?」


「はい。十分すぎます」


状況は整えた。


あとは、前園の悪い癖が出たときのフォローだな。


「あ、あの。松戸さ」


席に着くなり、前園が口を開くと同時に松戸がそれを手で制した。


「ごめんね、今日、休み取ってること忘れてて」



「え?」


前園が「何故」と言いたげな顔をしている。


確かに、前園からしたらそうなるんだろう。自分は仕事を放棄して休みを優先した最低な人間だと。だから、松戸が謝る理由がわからない。


「そこの鬼先輩に怒られたよ。明日休みの人間に定時後に渡すくらいだったら自分で朝一外出前に出せってさ。そりゃそうだよね。今まで自分でやってたことなのに、前園が来てから全部やってもらって。それが当たり前になってたみたいで。ほんと、ごめんね」


確かに、自分たちだけでうまくできなかったがゆえに、俺たちは前園を採用した。そして、それに助けられ、当たり前になった。


だが、誰だって何かあれば休みをとることや、出勤できなくなることもある。それを松戸は改めて自覚した。それだけでいい。松戸はこれからもっと成長する。


間違いなく、1課に戻れるぐらいには。


「私が悪いんです」


そして、前園の悪い癖が出た。


この悪い癖は俺や宮下と話すようになって初めて露呈したんだが、自分はだめだ、というある種の強迫観念に迫られているような…… そう、単純に言い換えるならば被害妄想を常日頃から抱えているようだ。今までは人付き合いがほぼ皆無だったがゆえに露呈しなかったが、こうして誰かと接するようになってから、誰かと自分を比べて自分のだめなところだけを探し出して『私が悪い』という、ある種乱暴としかいえない結論を導き出すようになった、と俺は勝手に考えてる。


「仕事なんてまともにできないくせに、こうやって休みだけは謳歌して…… だから私が悪」


「やめなさい」


宮下が鋭い口調で前園の言葉を止める。止めるための方法がこういう力技しかないというのも、何だかな。


「樹。この前よりもきついこと言うけど、そういうのって被害妄想とか自意識過剰っていうんだけど」


いつもよりもストレートでオブラートにも包まない宮下の一言。だが、確かにその通りだ。


それにしても、宮下。結論を急ぎすぎていないか? 俺に対しても、前園に対しても。


「で、でも」


「桑畑さんや松戸さんも。樹に感謝してるんならそれをきちんと伝えてあげてください。人の気持ちなんて、これっぽっちもわからない鈍感娘ですから」


この状況に松戸はついてきていない。だとすれば、言葉を発するのは俺の役割だな。


「松戸が素直に謝ってるんだ。それはきちんと受け止めてやれ」


じゃなきゃ、松戸の謝罪が行き場をなくしてしまう。


「桑畑さん」


「それから。もう少しだけ頑張ってる自分を認めてやれ」


これは、しばらく前から俺や宮下がずっと言い続けていること。それを改めて理解してもらわなきゃならないだろう。


他人に認めてもらうにも努力は必要だが、自分がその努力を認められないなら、他人に認められても何の意味も持たない。少しずつでも変わってきたんだ。もっと、笑って生きられるようになって欲しい。そう、思う。


そうして俺たちは短い時間ではあったが、昼を共にして別れた。勿論、帰る前に宮下に前園の自転車の鍵を預けることを忘れてはいない。


























今日一日の業務が終わり、俺と松戸は一度オフィスに戻った。


「にしても、びっくりしました。前園って普段何も言わずにこっちの頼みを引き受けてくれるんで、あんなこと考えてるなんて思ってもみませんでしたよ」


「そうだな。俺も話してみるまでは同じ意見だった」


ですよね、と俺の同意を取り付け松戸は資料を片付け始めた。


「というか、最初に気付いてもよかったんですよね」


松戸がポツリと洩らす。


「前園、最初の頃は俺たち全員が帰ってくるのを待ってたじゃないですか? 残業代なんて出ないですし、他にすることがあるわけでもない。まして定時で上がれるのに」


「そうだったな」


「あそこで気付いてやれなかった。そう思うと、ちょっと悔しいです」


松戸は俯いていた。


「仕事を頼めば頼むほど、卑屈になる、か。誰でもできる雑用。それがどれだけ支えになるか、あいつは何にもわかっちゃいなかった。


卑屈になることなんてなかったのに。俺たちが助けられてるのは事実だったのに」


ただひたすら、松戸は悔しそうだった。


「桑畑さんは知ってたんですか?」


「少し前からな。だから、同じ短大出身で同期入社の宮下を紹介した。社内に親しい人もいない現状だったからな。それで、休みもとらせた。少しくらい、生きてることを、働いた分の対価を楽しんでもいいと思ったから」


「どうして何も言ってくれなかったんですか? 言ってくれれば」


俺を責めるような目。


「言ってくれれば、何だ? まさか、お前に何かできたのか? 問題を共有することで連帯感を得たかったのか?」


「……」


言ったところで何もできない。それがわかる。きっと、松戸もわかってる。


「でも、実際のところ前園を独占したいだけじゃないんですか?」


わかってるくせに。この件に関してそんなに俺が気に入らないか。


「桑畑さん、本当は彼女なんていないんでしょ?」


「何故、そう思う?」


「いたとして、この歳にもなってわざわざ自分で言いふらします? それも、噂になって話が大きくなっても否定もしない。そのほうが都合がいいって思ったんでしょう?」


気付いていたとはね。まぁ、一番うるさいやつらを黙らせるだけでいいんだが。


「桑畑さん。前園に気があるんならきとんと清算してくださいよ」


それだけ言い残し、松戸は帰っていった。


「…… 言われなくても、それぐらい知っている」









後書


今回の副題は「前進せよ」です。静季が本当に前進できたのかどうかは別として。

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