第5話
翌々日、私は日暮里にある水子供養のお寺へ赴いた。古屋先生の講義でもらったレジュメに載っていた中で比較的近かったから。
児童公園くらいの境内に、木々に囲まれ歴史ある外観の寺院が佇む……鳥居があったり絵馬やお守りを売っていたりで、見た目には神社とのちがいがわからない。神仏習合というやつか。
拝殿横にはたくさんの絵馬が吊るされた絵馬掛けがある。ここは水子供養と同時に子宝祈願のお寺でもあるから、多分その願い事だろう。出生率が低下の一途を辿る現在も年間九十万人近くは子供が生まれていて、全国には恐らく何百万組も子供を望む夫婦がいる。「ゲン担ぎ程度」にせよ、頼みにする人だって少なくないはずだ。
こんな時だけどそこに綴られた願いの数々を、私は覗いてみることにした。少しは明るい気持ちになれるかも、と。
『一日も早く○○ちゃんとの間に赤ちゃんが欲しいです』
『次は女の子をお願いします』
『三八〇〇グラムの元気な男の子! 神様ありがとう!』
赤ちゃんのイラストなんかも添えられた願いの数々、その中にはこんなものもあった。
『かわいい赤ちゃんへ。産んであげられなくてごめんなさい。それでもまた生まれてきてくれる時はお父さんとお母さんの子であって欲しいです。あなたを今度は丈夫な体に産んであげられるよう、お母さんはがんばります。』
水子供養と子宝祈願、両方を兼ねたお願い。
無事に生まれてこられない子、生まれても無事に育つことのできない子。そういう子が必ずいて、多分昔はその割合が桁違いに高かったからこそ、こうした信仰も生まれたんだろう。あの講義の時は微笑ましいくらいに思っていたけど、背景にあるものはあまりにも悲しい。
そうして見ていると、おどろくものを発見する。記名のある絵馬は少数だったけど、その中に知っている名前があったのだ。名前と共に記された日付けは、彼女が亡くなったその日だった。
じゃああの時は参拝帰りで、日暮里から常磐線に乗り、北千住で、私と同じく東武スカイツリーラインに――辻褄が合ってしまう。
『新しい命を授けてくださったこと感謝します。
まだまだたくさんの子をお授けください。
中尾由香里』
右腕に鳥肌が立つのがわかった。前の子を失って、また新たに子供をもうけようとしているのはさっきの絵馬の女性もそうだ。子沢山を望むのも別に珍しくない。
でも何故だろう。子供を欲しいと思う人が、初めて少し怖く感じた。
由香里さんの絵馬を見てはっとした私も、当初の目的を果たすことにした。
拝殿は実際長い年月を経ているようで、外観は厳かな雰囲気がある。
果たして雰囲気以上の何か、霊験みたいなものはあるのか全くわからない。これでまだ何か起きたら言われた通りお祓いをしてもらうつもりだったけど、それだって同じことだ。そもそも一連の事態が心霊現象なのかどうかも。
だけど他に頼みにできるものがない。私に起きているのが幻覚、幻聴の類ならプラシーボ効果で構わないから。
水天宮へ子宝を祈った時、手術前に成功を祈願した時、心の支えだったへその緒のお守りでさえ、「あくまで気休め」とわかっていた。生まれて初めて、本気で神頼みをする。
手水で手を洗い、お賽銭を入れ、二拝二拍手一拝。できるだけ集中して、強く念じる。
助けてください。もうあの夢を見なくて済むように、歌が聞こえなくなるように。誰にも不幸が起こりませんように………………死んだ赤ちゃんが、救われますように。
由香里さんの第一子も、彼女の子ではないっていうあの子も、それに他の……死んでいく子たちみんな。
古屋先生の言うような子宝の神様が、子供の魂を救ってくれる神様がいるなら、どうか願いを聞き届けてください。どんな理由で死ぬ子も、何の罪もないんだから。
ひた
突然、足首に何かが触れた。
反射的に見下ろすと自分のスカートと足首、それだけ。
なのに何か……人肌、温かい、弱々しいけどはっきりと掴まれる感覚、小さな、手。私の足首を掴んだ何かがさらに引っ張ってくる。引き込まれる。
んんいいあああ
あっ……あっ……
あいいいいいいいやあああああ
あんまああああ
うううぅ……ぎぇええ、ひっ……ひっ……
聞こえたし、見えたし、感じた。
いくつも重なった赤ちゃんの泣き声。
自分を切り刻もうとする巨大なハサミ。
蒸し焼きになるような高温の車内。
息ができない。
親がずっと帰ってこない。どれだけ泣いても食事をもらえずオムツも変えてもらえない。
足を掴んで持ち上げられ、フローリングに叩きつけられる。蹴られる。熱湯に落とされる。
皺くちゃの手が伸びてきて、指が首に食い込む。絞められる。
女性に抱かれて潜んでいた穴蔵が炎に包まれ、逃げ場を失い、周囲の人たちと共に生きたまま焼かれていく。
べたべたべたべたぺたぺたぺたぺた、無数の小さな手が私の全身を撫でる。
乳臭い。むせ返りそうなくらい濃い、赤ちゃんの臭い。
髪を引っ張られる。
抱きつかれる。
胸の先端に湿ったものが吸い付く。
「や、あああっ!」
私は反射的に背を向け、その場を逃げ出そうとした。纏わりつくような背に感じる重さ、足を引っ張る手の感触を振り払おうと。
「う……お、う゛えっ!!」
拝殿から数メートル走ったところで、急に酸っぱいものがこみ上げ、私は嘔吐した。吐瀉物が砂利の上に撒き散らされる。境内を汚したとか、そんなことを考える余裕はなかった。
汗だくになって、地面に膝をついて体を折り曲げ、荒い息を吐く。そこに、頭上から声があった。
「あの……、大丈夫ですか?」
顔を上げれば、眼鏡を掛けた女性が私を見下ろしている。三十歳くらいの、繊細そうな雰囲気の人だった。
彼女は私を助け起こすと境内の外へと連れて行き、すぐ前のバス停のベンチで休ませ、背中を擦りまでしてくれた。
少し経って私が大丈夫ですと答えると、ショルダーポーチからフルーツキャンディの袋を取り出して一つ私にくれる。
「ありがとう、ございます……?」
感謝しつつ、なんで飴、という戸惑いの気持ちが勝っていた気がする。彼女は自分も一つ手にして答えた。
「飴なめるといいらしいんですよ、つわりに」
「つわ……え?」
「あれ……私てっきり、あなたも妊婦さんかなって。ごめんなさい」
「あ、いえ…………え、妊……」
子宝祈願の神社にいて嘔吐している若い女性。たしかに、知らない人は勘違いするかも……勘違い、勘違い…………?
「いや、あれ、え……? 嘘……」
そういう視点に立って、私はようやく気づいていた。ここ最近の体調不良。吐き気に知覚過敏、頻尿……たしかに「
「ない、ないって……」
こんなのたまたま症状が似ているだけに決まっている。卵巣機能は未だに回復していないし、そもそも処女なのに。だけど。
由香里さんは自分のじゃない子を身ごもっていた。
私はしばらく黙り込んでいて、そこに女性が言葉をかける。
「あの、不安でしょうけど、検査してもらった方がいいですよ。いい病院があるんです」
心当たりがあると解釈したんだろう。彼女は私の肩に手を置き、精一杯勇気づけるように言った。
「あなたが決めることだから私が言うのは無責任だけど、でも産んであげて欲しいんです。どんな子だってお腹に宿った以上は、絶対産まれて来たいはずだから」
空いた手でぐっと拳を握り、澄んだ瞳に涙を溜めて訴える。
私が首ふり人形みたいに感情のこもらない頷きを返すと彼女は納得した風に立ち上がり、病院名と住所・電話番号を書いたメモを渡して去っていく。
私は近くの薬局で妊娠検査薬を購入した。いくらなんでもあり得ないと思ってはいたし、だから一応、不安を払拭するために検査したのだった。
結果は陽性。彼女が紹介してくれた、大塚の「川越レディースクリニック」に駆け込み、そこで自分の目で妊娠を確認させられることになる。
・・・
「DNA鑑定……なさいますか?」
どうにか表面上の落ち着きを取り戻した私に、川越先生はそう尋ねる。私は鑑定のために採血してもらうとクリニックを後にした。
出てからフラフラと数百メートル歩く。周囲の様子はほとんど目に入らないまま。よくぶつからなかったものだと思う。
前方に踏み切りがあって足を止めた。ランプが点いているので止まらないわけにいかないけど、立ち止まりたくない。止まったら考えてしまう。
脚は動いているけど、どこかに向かっているわけじゃない。家に帰りたくない。母に会ったら平静を装える気がしない。こんなのどう説明すればいいの。
カンカンカンカンと警笛が響く。寒い。下痢をしている時みたいだ。
どうすればいい?
死んだ子が私に憑いて、胎児として今度こそ生まれてこようとしている――昔のホラーに、似たようなのがあった気がする。『リング』だったか『呪怨』だったか。あれはフィクションで、これは現実。私は現実に。
あり得ないあり得ない。嘘だ。だけど、子宮に映ったあの影は。
子供を持ちたいと望んだ。妊娠できるようになりたいと祈った。でもこんな形で叶うなんて、そんな。
望まない妊娠をした。じゃあどうするか。中絶――その言葉が浮かんだ瞬間、胸が苦しくなる。
お寺で見たものがフラッシュバックする。迫ってくる巨大なハサミ。肉に刃が食い込む。あるいは、吸引器で吸い出される。
できない、あんなこと。得体は知れないけど、怖いけど、私のお腹にいるっていう子は罪のない赤ちゃんだ。貞子や伽椰子みたいな悪霊なんかじゃない。
「あなたは……」
答えを期待するでもなく、何を言うか考えもせず、ただ呼びかけ、お腹を見下ろした。
足下に、あの時と同じ笑顔があった。
「え?」
まちがいなくそこにいた。
足下にてかてかと血にまみれた裸の赤ちゃんが這っていて、私を笑顔で見上げる。
その短く丸っこい腕の先、小さな手は私のスカートの裾を握りしめ、そして。
「っ!?」
線路上に引きずり込もうとする。数メートル先まで迫ってきている電車。赤ん坊とは到底思えない力に踏み止まることもできずそのまま――
「だめぇっ!!」
叫び声と共に、誰かが私の襟首を後ろから掴み、強引に引いた。前に倒れそうになっていた私は急激に線路から引き離され、後ろに倒れて尻餅をついた。
ほぼ同時、目の前を電車が通過していく。
「う、あ、は……っ」
どうにか助かったことを認識した私は、さっき立っていたあたりを見やる。赤ん坊の姿は見えなくなっていた。
続いて首を後ろに反らし、私を助けてくれた人物を確認する。
「丸屋、恵那……」
相川愛の整った顔が、ひどく忌々しげに見下ろしていた。
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