第6話

 バイトが終わって帰宅したのは、朝の八時頃だった。


 二階建てアパートの階段をのぼり通路の突き当り、えんじ色のドアの前まで来てから、持ってきたビニール袋を左手に持ち替えて、鍵を開ける。


「ほたるは……いるのか?」


 寝かせたまま置いてきてしまったけど、まだ部屋にいるのだろうか。まさか「あれはやっぱり夢でした」なんてオチじゃないよな?


 奥にある洋室はガラス扉で隔てられているが、曇りガラスの向こうは明かりが点いている。俺は家を出るときに消してきたはずだが。


 そして何やら話し声が。


 持ってきたビニール袋をキッチンに置き、扉を開くと……


「ああ、おかえり和馬」


 俺のジャージズボンを穿いて、俺のTシャツを着て、ソファにゴロっと横になりながらテレビのワイドショーを見ているほたるがいた。こちらをチラとも振り向きもしない。


 テレビからはコメンテーターが辛口のツッコミを放っていて、その内容は「働かない女、捨てられる男」みたいな話題にほたるが尻をポリポリと掻いている。


 どういうくつろぎ方だよ。まるで自分の家にいるが如くじゃないか。しかも人の服を勝手に着ちゃって。


「ああ、これか。ちょっとサイズが大きくてあたしの趣味じゃないけど、仕方ないからガマンしてやるよ」


「自己中すぎるだろ! それに自分の服はどうしたんだよ」


「脱いだ」


 と言ってほたるは俺の足元を指差す。


 そこには、『らぶ☆ほたる』の望月ほたるが着ていたデフォルト衣装、白いブラウスと短いスカート、黒いニーソックス、そしてストライプ柄の三角形の布と、同じカラーのふんわりふっくらな紐付きの胸当てが。


 それらが、まるで小高く盛り付けられたスパゲティ・ナポリタンのように、俺の足元に脱ぎ捨ててあった。


「下着まで脱いでるのかよ!?」


 ストライプ柄の布は見間違いじゃなければパンティーとブラか? いいや、見間違わなくてもパンティーとブラだ!


「ついでにシャワーも使った」


 と、今度はバスルームの方を指差す。


 脱衣所を覗くと、バスタオルが無造作に使い捨てられている。床はビチョビチョだし、バスルームは電気が点けっぱなし。


「雑だ……雑すぎる」


 まだ湿っているバスタオルを拾い上げると、しっとりとした感触が手に伝わってくる。それに、やたらといい匂いがする。女の子のフローラルな匂いがする。


 バスタオルは俺のものだが――これを……ほたるが……使った……のか。


「いやいや、何を想像しているんだ俺は!」


 危うく背徳的な行為に及んでしないそうな自分を制して、俺はバスタオルで濡れた床を拭きあげ、それを洗濯機に放り込んだ。


 あの脱ぎ捨てられた服や下着も……洗ってやらなきゃいけないのか?


「おい、和馬」


 奥の部屋からほたるの呼ぶ声。あのヒロインは男の部屋で勝手に着替えて、服も下着も脱ぎ散らかして、さらにシャワーまで使って、バスタオルを放置しても平気なのか。


「なんだよ」


 俺は『スパゲッティ・ナポリタン~望月ほたる味~』になっている服と下着を……まあ出来るだけ下着には触れないように持ち上げて、これも洗濯機に静かに沈めてやった。


「腹が減った」


「またかよ!?」


 洗濯洗剤を流し込み、自動洗濯をセットする。


「腹が減った!」


「わかった、わかった」


 ったく、なんて身勝手なやつなんだ。寝っ転がってテレビを見て「腹が減った」と喚くなんて、グータラにも程があるぞ。


 少しは動け。働かざる者食うべからずだ、だ。


「ほらよ」


 俺は持ち帰ったビニール袋を広げて、アルミホイルに包まった大きなおにぎりを出してやる。


「おおっ!」


 横になっていたほたるは急に足を跳ね上げて起きると、両手でおにぎりをむずっと掴んだ。


「バイトの賄いで余ったご飯をもらってきたんだ」


 俺はせめてお茶くらいは淹れようとキッチンで湯を沸かす。たしか緑茶のティーバッグがあったはずだ。


「おにぎりは二つあるからな。中身は……」


「唐揚げとハンバーグだ!」


 ……って、もう食べてるのかよ!


 ほたるの二刀流で、唐揚げおにぎりとハンバーグおにぎりは二つとも餌食となっている。


「一つは俺の分だぞ!?」


「はむ……そうなのか?」


「こういう場合は分け合うのが鉄則だろ? ちゃんと意思疎通の接続しろよ」


「今は和馬がログインしてないんだ」


 と言ってほたるは、一つ目のおにぎりをペロリと平らげた。


「ああぁ……唐揚げおにぎりさんがログアウトしやがった」


「ウマイな」


「いや、ウマいこと言ったわけじゃないし!」


「このおにぎりが」


「……………………」


 この隙にほたるは二つ目のおにぎりもペロリと平らげてしまった。いや待てよ、そのおにぎりはかなり大きかったと思うぞ?


 お茶を淹れる前にボリューミーなおにぎり二つは完全に駆逐されていた。俺にはログインする暇すらなかったぞ。


 あと、口の周りにハンバーグソースが付いてるし。


「ウマかった、ウマかった」


「そりゃ良かったな!」


 ほたるは指についた米粒をチュッチュしながら満足げな顔をしている。ホント、食べてる時だけは活き活きしてるな。


 仕方ないなぁ。俺は賄いを食べてきたから平気っちゃ平気だけどさ。


 お茶をテーブルに置き、ソファを占領しているほたるの向かい側に座る。ここは俺の家なのに、どうして家主が床に座るのでしょうね。


 そうしてお茶をひとすすりしてから、ずっと気になっていたことを聞いてみた。


「なあ、ほたるはどうしてゲームから出て来たんだよ」


「和馬がボタンを押しちゃったからだろ」


 即答。


 ――私と、ずっと一緒にいてくれるの?


 ってシーンか。


「たしかに『はい』とは押したけど、それでゲームのヒロインが出て来るなんて聞いたことないぞ」


「本当はあそこからエンディングの一部が流れて、本編の続きが始まるはずだったんだ。このソフトだけ、β版でのバグが残ってたのかな」


 と言って、ほたるはゲームソフトのパッケージを眺めた。


「バグ付きをリリースしちゃダメだろ! てか、世の中にそんなバグがあるわけねえ!」


 ゲームキャラが現実世界に出て来るなんて、バグと呼んでいいのかすら疑問だぞ。


 だが、まあいい。その件は部屋の隅にでも置いておこう。燃えるゴミにも萌えるゴミにもなりゃしないからな。


 とにかく『らぶ☆ほたる』は美少女エロゲだ。これがバグでもバグじゃなくても、そのヒロインを召喚したんだから、これから始まることといったら一つしかないだろう?


「なあ。ほたるはゲームのヒロインで、俺は好感度MAXの告白シーンを迎えたんだぞ。ということはだ、ここからエロゲ本編が始まるってことでいいんだよな、いいんだよな?」


 ムフー! っとギラつく俺であった。


「ゲームとリアルを一緒にするんじゃない」


「それをお前が言うな!」


 先にゲームとリアルをごっちゃにしたのはどっちだ。


「だいたい、会ったばかりの女の子にいきなりエンディングを求めるなんて、これだからエロゲーマーは……」


「いや、俺はストーリーも重視する」


 キリっと叫ぶ俺であった。


「してないじゃん。カスのくせにエロいことばっかり考えてるとか、ほんっとエロカスだな」


 いや、俺はゲームの中でちゃんとストーリーを経てきたはずなんだが。


「そんなにエンディングが見たいなら、リアルであたしを落としてみなよ」


「なにその急にギャルゲ要素!?」


 説明しよう。「ギャルゲ要素」とは、軽度のお色気描写があるヒロインを攻略すべく、あの手この手で恋愛関係を発展させていくことである。


 たとえば学園モノだったらヒロインとの出会いから学校内でのイベント、登下校、休日のデートなどを経て親密度を上げていき、最終的にエロゲ展開に辿り着くのが目的となる。


 あ、これじゃエロゲか。


 すまん。俺はエロゲマスターだがギャルゲーは未経験だ。


「和馬が勝ったらチューしてやるよ」


 だからそれじゃギャルゲーだろ。俺はギャルゲーをやってるんじゃない。『らぶ☆ほたる』はエロゲだぞ。


 そんな俺のエロゲポリシーに、ほたるは顔をしかめる。


「なんだよ、和馬は最初からエロゲ展開じゃないと嫌なのか?」


 唇をプクっと突き出して、スネたようにする。


「あたしのチューなんかいらないのか?」


 今度は目にうっすらと涙を浮かべている。これじゃ完全にギャルゲーのヒロインである。


「わかった、わかった。チューでいい」


「“で”ってどういうことだよ」


「間違えた。チュー“が”いい。とりあえずチューがいい」


「“とりあえず”ってなんだよ」


 だあっ! わかった。俺が勝ったら「チュー」でお願いします。ぜひ。


 というわけで、エロゲのヒロイン様の小悪魔的主張により俺が勝ったらチューをしてもらえるという勝負が、若干二名の満場一致で可決された。


 ……これは、エロゲだったよな?

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