018 理系女子の憧憬
……以前、船本は蒼葉にこう言っていた。
『中学の時からお前に
と。
「……一人、ね」
圷と別れた後、なんとなく外に出たい気分だった稲穂は一度家に帰り、着替えてすぐに街中をぶらついていた。
本当ならば、今頃映画を見て、その感想を言い合ってから二人並んで家路についている。……そのはずだったのに、稲穂は今、人気の少ない大通りを歩いていた。
適当なガードレールに体重を預けると、稲穂は眼前の工事現場を
「どうしよっかな……」
映画のチケットは手元にないが、あればもしかしたら破いていたかもしれない。
……蒼葉に手をあげた。いつものどきついツッコみじゃなく、明確な殺意を持って。
もしかしたら、蒼葉に嫌われたかもしれないと、気持ちが若干暗くなるも、
「……いや、先に人の過去突いてきたのはあいつだろ?」
すぐに否定した。
罪悪感に負けた、という意味では間違ってはいないだろう。しかし、稲穂が暴走しないように気を遣ったのも、間違いではないはずだ。
……だから、稲穂は悩んだ。
自らを捨てた母親のこと。そして、自分が好きだったはずの男のことを。なのに、
「『好きじゃないですよ』って、面と言われるとは思わなかったわね……」
稲穂自身も、自らの気持ちが恋愛感情かどうかは疑問に思っていた。しかし、他者から一方的に否定されるのも、気分のいいものでもない。
ただ……その根拠は否定しきれなかったが。
『金子先輩は、黒桐先輩に憧れているだけですよね?』
蒼葉への気持ちを否定された後、稲穂が後輩から聞かされたのは、その一言だった。
普通ならば、ここで怒るのかもしれない。それこそ、事前の『互いに怒らない』という取り決めすら無視して。
しかし、
『ああ、そうか……』
と思わずつぶやいてしまうほど、稲穂にはその答えがしっくりと来ていた。
そんなことを思い出したからだろう。稲穂が蒼葉を好きになる切っ掛け、その場所にまで来たのは。
「……ひゃっ!?」
「何
そう言って金髪ショートに左耳ピアスの女子高生、指原は稲穂の
「無糖でいい? それともカフェオレがよかった?」
「……いや、ブラックがいい」
缶コーヒーを受け取った稲穂の横に、指原もガードレールに体重を預けると、同じように視線を工事現場の方に向けた。
「たしか指原って言ったっけ? ……ありがとう」
「別に、前回の賭け金だし。ジュース買おうにも、そこの自販機いまいちだったのよね……」
「ああ、そっか……そんなこともあったわね」
あれからいろいろあり、顔を出せていなかったので、稲穂の方はすっかり忘れていた。だから踏み倒さずにすっと出してくれたのは、当たり前なのにどこか、嬉しく感じてしまっている。
「……それで、こんなところでどうかしたの?」
「ああ……微妙に失恋した」
「だから工事現場を
「自分でもそう思うわよ……」
プルタブを開け、一息に液体を流し込むが、稲穂の気は晴れなかった。
「……しかも失恋と言っときながら、憧れを恋愛感情と勘違いしてただけだったし。なんか馬鹿らしくなってきた」
「完全にガキの初恋ね……」
カフェオレの缶のプルタブが開けられた。
「まあ勘違いを繰り返してでも、生きなきゃいけないのが人間って生き物だし……別にいいんじゃない?」
指原の言葉も普通に聞く分には気を
「その相手ぶっ殺しかけといて……?」
「……あんた一体何やられたら、そんなことになるのよ?」
「
詳しく話したがらないだろうと思い、指原は稲穂を気にすることなく、自らのカフェオレを一息に飲み干した。
「……そりゃご
「本当にね。ああやだやだ……」
その日の夕方。
蒼葉は一人、マンションの廊下から階下を
稲穂から逃げ切った後、ほとぼりを冷ますために船本と昼食を
「どこ行ったんだが……?」
一度頭を冷やせ、と船本に連れられて逃げた蒼葉だったが、たとえ殺されかけたとしても、稲穂から離れたことを少し後悔していた。
別に、稲穂のために命を
夕陽と共に気持ちも沈む中だった。アップルフォンの電話が鳴ったのは。
『どこまで逃げたのよ? この浮気者』
「まだ付き合ってないんじゃなかったのか? ……金子」
転落防止用の手すりにもたれながら、蒼葉は稲穂からの電話に応対した。特に
「……で、また校舎裏に呼び出しか?」
『いや、別件。まあ『付き合ってない』なら、こっちは気楽に言えるから助かるわ』
「もしかして……別れ話?」
『ある意味。……何ヶ月か前、少し離れたマンションが火事になったのは覚えてる?』
蒼葉はただ、静かに話をうながした。
「……そんなこともあったな」
『そこで似合わない覆面着けてヒーローごっこやってた奴が、何言ってんのよ』
……それが、稲穂が蒼葉に
『最初はただの厨二病かと思ったわよ。消防が来るまでベランダ
「……見てたのか?」
『つけていた、って言ったでしょ』
一呼吸置くごとに、日が沈む感覚が早くなっていく。そう、蒼葉は錯覚してしまっていた。
『あんたから家のこと聞いてからも不思議だった。目立たないように生きている癖に、遊園地の時みたいになんで、自分からリスクを背負おうとするのよ?』
「……単に、後悔したくないだけだよ」
腰より下の部分は漆喰の壁になっている。だから反転してしゃがみ込んだ蒼葉も、落下を気にせずもたれかかることができたのだ。
「昔から被害妄想が激しくてさ。いつも最悪の事態を想定してしまう。おまけに罪悪感も人一倍感じやすくてさ。だから……助けられるなら手を伸ばしてきた。ただ、それだけだよ」
『……偽善者』
「善意の押し売り、とか言われるよりはましだな。……結局は自己満足だ」
『それがうらやましいのよ。……私にとっては』
廊下の照明が点く。もうすぐ日が沈み、周囲を暗闇が包むからだ。
『同じ状況で同じ身体能力を持っていたとしても、私は多分、何もしない。何も、できない……他者が
「……親父さんに助けられたんじゃなかったのか?」
『それでも、私には……捨てられた過去がある。不幸に大小をつける気はないけど、どうしても
静かな夜だった。
『だから、いざという時は動けるあんたが……自由な翼を持っているあんたが、どうしようもなくうらやましい』
少女の独白が、どこまでも
『だから、ごめん…………私はただ、あんたに憧れてただけだった』
「ああ……」
『じゃあね……しばらく、頭が冷えるまでは帰らないから』
返事をする暇もなかった。
「…………」
通話の切れたアップルフォンを仕舞っても、蒼葉は立ち上がらなかった。
「ああ……振られた」
一方的に告白され、一方的に振られた。蒼葉から見て、稲穂の行動はそう映っていた。
実際は違うかもしれないが、少なくとも、蒼葉自身はそう思っていた。
「振られたなぁ…………ああくそ、いい女だったのに」
文武両道なツリ目気味美人、ってだけじゃない。話も合い、一緒に行動することも増え、互いの秘密を共有するまでの関係になれた。
それなのに……蒼葉は突き放してしまった。
船本と共に逃げたからじゃない。ずっと隠しておけない秘密を、蒼葉一人で抱えておけなかったからだ。
ただ自分の幸せを願うなら、黙っておけばよかったかもしれない。しかし、自らの交友関係を考えれば、いずれ稲穂に気づかれるだろう。だから、蒼葉は話すしかなかった。
「
立ち上がり、今後のことを考えながら、ブツブツ
「また金子か? ……って船本?」
何事かと思いつつ、蒼葉はアップルフォンを通話状態にした。
「船本? いったいどうし…………本当か? それは」
二、三話してから、蒼葉は通話を切った。
アップルフォンを仕舞い、頭を
「……ある意味都合がいい、そう思おう」
気持ちも切り替えられるし、何より稲穂を
蒼葉はそう結論付けると部屋に戻り、すぐに出掛けて行った。
そして、蒼葉もまた…………その日は帰ってこなかった。
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