008 理系女子の説教一歩手前

「……アオバしんだ?」

脳震盪のうしんとう起こしているだけ。少ししたらすぐ回復するわよ」

 胸を揉まれたから、と反撃に出た稲穂だったが、それがいけなかった。特にひじがいけなかった。

 あばら骨の正面だからまだ衝撃には耐えられたが、そのいきおいで蒼葉の後頭部こうとうぶとコンクリート舗装ほそうされた地面がごっつんこ。高所から落ちたわけではないので頭をぶつけた程度で済んではいるが、脳が揺れてしまい、意識が昏倒こんとうしてしまっているのか、目を覚ます様子はない。

「とは言っても頭の問題だし、医者に連れていくしかないわね」

「それって……イナホつかまらない?」

「黒桐次第ね。また停学で済んでくれればいいけれど……」

 そう話している内に、地面の上で寝かされていた蒼葉の口がうめき声をらし出していた。徐々じょじょにだが、意識を取り戻そうとしているのかもしれない。

「大丈夫そうね。救急車を呼ぶと警察まで出てきそうだし……この辺りに口の堅いお医者さんって、いる?」

「うん。このまえもアオバ、そこにいってたよ」

「そう……目を覚ましたら、後で連れて行きましょう」

 うめき声はさらに大きく、明確な意味を持ちだしていた。そしてひたいに載ったタオルの動きで、下にあるまぶたが上がっていくのが分かる。

「目が覚めた?」

「……次からは金銭で解決する方針を取らないか? このままだとマジで死にかねん」

「この前は冗談で言ったけど、高校生ガキの小遣いで支払えるほど安くないわよ。私の身体は」

 いまだに脳が揺れて立ち上がれないのか、片手を伸ばしてひたいに載っている濡れタオルの位置をずらす蒼葉。その時ふと、稲穂の声がどこから飛んでくるのか疑問に思った。かすんだままの視界から目をらし、どうにか状況を把握する。

 ……その結果、蒼葉は稲穂の膝枕で寝ていたことに、いまさら気づいてしまった。

「彼女の膝枕か……」

「まだ付き合ってないでしょうが」

「イナホ、アオバのかのじょじゃないの?」

 話がややこしくなりそうなので、蒼葉達は簡潔かんけつに答えた。

『友達以上恋人未満』

「……日本語って難しい」

「そこだけ流暢りゅうちょうに答えるなよ」

 蒼葉は寝転がったまま、クラにツッコミを入れた。その様子を見て、稲穂の口が開く。

「それだけツッコめるなら、もう立てるでしょ」

「いやいや、ここは慰謝料代わりに膝枕を堪能たんのうさせてくれても……思ったより硬いな」

「それ筋肉」

 蒼葉はうめいた。しかし稲穂の追撃は止まらない。

「というか、中学時代に馬鹿みたいに鍛えまくったから、卒業する頃には基礎体重振り切ってたのよね。筋肉落とそうかとも思ったけど、別に男口説くどく予定なかったし」

「あの、あなた……俺口説くどこうとしてませんでしたっけ?」

 とかなんとか言いつつ、ドサクサにまぎれて膝の柔らかい部分を探そうとする蒼葉に向けて、軽く手刀を落とす稲穂。その様子をクラはしゃがんで、頬杖を突きながら見つめていた。

「ふたりとも、おもしろいね」

「楽しんでくれてなによりだよ……っと」

 タオルを掴み取り、腹筋の要領で起き上がった蒼葉は、そのまま地べたに腰掛けた。身体の向きはそのままで、顔だけは稲穂達の方に向けている。

「どれくらい寝てた?」

「少なくとも、十分位じゃないかしら。そろそろ帰ろうかと考えてた時間だし」

「うわ、もう一時間か……」

 クラに取ってもらったアップルフォンの画面を見て、時刻を確認すると、たしかに予定である一時間が経過している。つまりもう、蒼葉も稲穂も帰宅しなければいけないのだ。

「……で、大丈夫なの?」

「なんとか……一応医者行っとくわ」

「なら私も……ん?」

 開けた空き地に、無機質な電子音が鳴り響く。電話の着信音だ。

「はい、イナホ」

「ありがと……あれ、親父?」

 電話越しの相手はどうやら、稲穂の父親らしい。

 クラからアップルフォンを受け取った稲穂は、そのまま画面を操作して通話状態にしている。

「そこはお父さんじゃないのな。もしくは可愛くパパとか」

「イナホのいめぇじなら、おとうさんかな? よびかた」

「いや、あいつけっこう可愛い趣味してぼっ!?」

 飛んできた裏拳に意識を持っていかれそうになるも、蒼葉はどうにかこらえることができた。

「あ、ごめん。なんでもない……それで?」

 しかし稲穂は我関せずと飛ばした拳を戻し、電話を続けていた。

「……ああ、うん。了解、いえ、承知しました。折り返すから、ちょっと待ってて」

 一度アップルフォンの通話を切ると、稲穂はなんとも言えない表情を蒼葉達に向けてきた。

「黒桐……悪いけど、あんた診療所に届けたらすぐ帰るわ」

「何かあったのか?」

 蒼葉がそう問いかけるも、稲穂は慌てているのか、先にブレザーを羽織はおってから返してきた。

「この前停学になった件で、これからお説教を受けなくちゃならないのよ」

「え、いまさら?」

「家庭の事情でね。さすがに謝罪訪問とかまでは行かないと思うけど……」

 手を上げたのも、生徒同士のじゃれ合いが行き過ぎたためと、学校側がそれぞれの家庭に連絡を入れていた。だから停学の件に関して、稲穂の家庭ではまだ説教がおこなわれていなかったらしい。

「親父さん、出張にでも行ってたのか?」

「当たらずとも遠からず。仕事が立て込んでてしばらく連絡がつかなかったんだけど、思ったより早く終わったみたいで……憂鬱ゆううつだわ」

「俺もついてって取りなそうか?」

 そう提案するも、稲穂は蒼葉に向けて首を横に振るだけだった。

「いや、用事は他にもあるし……あんたの身に何かあれば、そっちの方がまずいわ」

 二人分の鞄を抱えた稲穂は、蒼葉にブレザーを投げ渡すとクラの前にしゃがみ込んだ。

「じゃあ、またね」

「うん、またきてね」

 稲穂がクラに挨拶をしている間に、蒼葉もブレザーを着込んで立ち上がっていた。そのまま二人並んで、空き地の外へと足を向ける。

「じゃあな、クラ」

「ばいば~い」

 手を振り、クラに背を向けて帰路に着いた二人だった。しかし向かうのは自宅ではなく、蒼葉の通い付けの診療所だったが。

「ここから歩くの?」

「少しな。通りの前で診療所開いているから、急ぐならタクシーも呼べるぞ」

「いや、親父に迎えに来て貰うわ。ちょっとメール打たせて」

 蒼葉に一歩分前を歩かせてから、稲穂はアップルフォンを取り出して、手早くメッセージを打ち込んでいく。ながら歩きになるからと先導に使っているようだが、時折その指が止まり、視線が刺さる時がある。

 蒼葉に少しでも異変があれば、稲穂はすぐに手を伸ばそうと考えているのかも知れない。実際のところは、本人にしか分からないが。

「ここから自宅って、近いのか?」

「ううん、少し離れた所。夏休みになったらこの辺りに引っ越す予定だけどね」

「へぇ……ああ、それか。忙しいって言ってたのは?」

 夏休みに蒼葉の相手ができない、と以前稲穂は言っていた。そういう事情だったのだろう。

「だったら、引っ越しが片付いたら他の仲間も紹介するよ。この辺りに引っ越してくるなら、通うのも苦じゃないだろう?」

「それもいいわね。いちいちバス通いしなくて済むし」

 ここは駅や学校からも近いが、稲穂はさらに離れた場所に住んでいるらしい。バス移動もあるならば、少し込み入った集合住宅に住んでいるのかもしれないと、蒼葉は考えた。

 話をしている内に、二人は商店街を出ていた。

 この近辺は再開発の対象区域から少し離れているので、わりとひらけた土地が目立つ。そのうちの一つを公営の公園として残し、何かあれば潰して公共施設を建てようとしているらしいが、具体的な話はいまだにがってこない。当面はそのままだろう。

「これから向かう診療所は公園の隣にあるんだが……どうした?」

 蒼葉が歩みを止めて振り返ると、少し離れた場所で稲穂は立ち止まっていた。かなり前に立ち止まっていたらしく、近寄るのに二桁程の歩数を用いた程だ。

「金子……?」

「……ううん、なんでもない」

 そう言い、稲穂は蒼葉の方を向いた。

「悪いけど、ここで別れてもいい?」

「別にいいけど……大丈夫か?」

 荷物を受け取りながら、蒼葉はそう問いかけたが、稲穂は静かに首を振るだけだった。

 特に問題はないと、アップルフォン片手に商店街入り口のアーチにもたれかかっている。

「そっちこそ、私の親父になんて言うつもりよ。『友達以上恋人未満』の癖に」

「いや、普通にクラスメイトでいいだろ。そこまで込み入った関係じゃないんだし」

 少し心配だが、診療所はこの通りをまっすぐ行った先。入り口も通りに面しているので、何かあればすぐに駆け付けることができるだろう。お互いに。

「じゃあ、気をつけてな」

「こっちの台詞よ……じゃあ、また」

 蒼葉は稲穂に背を向け、ゆっくりと去って行く。




「行ったか…………はあ」

 蒼葉が視界から消えると、稲穂はアーチに頭をつけ、背骨をくぼみのある車輪代わりにしてゆっくりと……路上に腰を落とした。

「もう大丈夫だと思ってたんだけど、まだ……駄目みたいね」

 稲穂は視界に映る公園の方を向いたまま、震える身体をなだめようと浅い呼吸を繰り返した。すると次第に身体は落ち着き、どうにか立ち上がれるまでになった。

「昔よりかはマシだけど……やっぱり、あそこ・・・か」

 再びアーチにもたれる稲穂。アップルフォンに届いたメッセージに目を通せば、稲穂の父親はもうすぐ来るらしい。

「いまさら葛藤かっとうするなんて、『You can't buy a second with money.』でしょう…………よし」

 一つ気合いを入れると、稲穂はアーチから離れて公道に一歩近づいた。近づいてくる車に手を振り、自らの居場所を示しながら。

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