008 理系女子の説教一歩手前
「……アオバしんだ?」
「
胸を揉まれたから、と反撃に出た稲穂だったが、それがいけなかった。特に
あばら骨の正面だからまだ衝撃には耐えられたが、その
「とは言っても頭の問題だし、医者に連れていくしかないわね」
「それって……イナホつかまらない?」
「黒桐次第ね。また停学で済んでくれればいいけれど……」
そう話している内に、地面の上で寝かされていた蒼葉の口が
「大丈夫そうね。救急車を呼ぶと警察まで出てきそうだし……この辺りに口の堅いお医者さんって、いる?」
「うん。このまえもアオバ、そこにいってたよ」
「そう……目を覚ましたら、後で連れて行きましょう」
「目が覚めた?」
「……次からは金銭で解決する方針を取らないか? このままだとマジで死にかねん」
「この前は冗談で言ったけど、
……その結果、蒼葉は稲穂の膝枕で寝ていたことに、いまさら気づいてしまった。
「彼女の膝枕か……」
「まだ付き合ってないでしょうが」
「イナホ、アオバのかのじょじゃないの?」
話がややこしくなりそうなので、蒼葉達は
『友達以上恋人未満』
「……日本語って難しい」
「そこだけ
蒼葉は寝転がったまま、クラにツッコミを入れた。その様子を見て、稲穂の口が開く。
「それだけツッコめるなら、もう立てるでしょ」
「いやいや、ここは慰謝料代わりに膝枕を
「それ筋肉」
蒼葉は
「というか、中学時代に馬鹿みたいに鍛えまくったから、卒業する頃には基礎体重振り切ってたのよね。筋肉落とそうかとも思ったけど、別に男
「あの、あなた……俺
とかなんとか言いつつ、ドサクサに
「ふたりとも、おもしろいね」
「楽しんでくれてなによりだよ……っと」
タオルを掴み取り、腹筋の要領で起き上がった蒼葉は、そのまま地べたに腰掛けた。身体の向きはそのままで、顔だけは稲穂達の方に向けている。
「どれくらい寝てた?」
「少なくとも、十分位じゃないかしら。そろそろ帰ろうかと考えてた時間だし」
「うわ、もう一時間か……」
クラに取ってもらったアップルフォンの画面を見て、時刻を確認すると、たしかに予定である一時間が経過している。つまりもう、蒼葉も稲穂も帰宅しなければいけないのだ。
「……で、大丈夫なの?」
「なんとか……一応医者行っとくわ」
「なら私も……ん?」
開けた空き地に、無機質な電子音が鳴り響く。電話の着信音だ。
「はい、イナホ」
「ありがと……あれ、親父?」
電話越しの相手はどうやら、稲穂の父親らしい。
クラからアップルフォンを受け取った稲穂は、そのまま画面を操作して通話状態にしている。
「そこはお父さんじゃないのな。もしくは可愛くパパとか」
「イナホのいめぇじなら、おとうさんかな? よびかた」
「いや、あいつけっこう可愛い趣味してぼっ!?」
飛んできた裏拳に意識を持っていかれそうになるも、蒼葉はどうにか
「あ、ごめん。なんでもない……それで?」
しかし稲穂は我関せずと飛ばした拳を戻し、電話を続けていた。
「……ああ、うん。了解、いえ、承知しました。折り返すから、ちょっと待ってて」
一度アップルフォンの通話を切ると、稲穂はなんとも言えない表情を蒼葉達に向けてきた。
「黒桐……悪いけど、あんた診療所に届けたらすぐ帰るわ」
「何かあったのか?」
蒼葉がそう問いかけるも、稲穂は慌てているのか、先にブレザーを
「この前停学になった件で、これからお説教を受けなくちゃならないのよ」
「え、いまさら?」
「家庭の事情でね。さすがに謝罪訪問とかまでは行かないと思うけど……」
手を上げたのも、生徒同士のじゃれ合いが行き過ぎたためと、学校側がそれぞれの家庭に連絡を入れていた。だから停学の件に関して、稲穂の家庭ではまだ説教が
「親父さん、出張にでも行ってたのか?」
「当たらずとも遠からず。仕事が立て込んでてしばらく連絡がつかなかったんだけど、思ったより早く終わったみたいで……
「俺もついてって取りなそうか?」
そう提案するも、稲穂は蒼葉に向けて首を横に振るだけだった。
「いや、用事は他にもあるし……あんたの身に何かあれば、そっちの方がまずいわ」
二人分の鞄を抱えた稲穂は、蒼葉にブレザーを投げ渡すとクラの前にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、またね」
「うん、またきてね」
稲穂がクラに挨拶をしている間に、蒼葉もブレザーを着込んで立ち上がっていた。そのまま二人並んで、空き地の外へと足を向ける。
「じゃあな、クラ」
「ばいば~い」
手を振り、クラに背を向けて帰路に着いた二人だった。しかし向かうのは自宅ではなく、蒼葉の通い付けの診療所だったが。
「ここから歩くの?」
「少しな。通りの前で診療所開いているから、急ぐならタクシーも呼べるぞ」
「いや、親父に迎えに来て貰うわ。ちょっとメール打たせて」
蒼葉に一歩分前を歩かせてから、稲穂はアップルフォンを取り出して、手早くメッセージを打ち込んでいく。ながら歩きになるからと先導に使っているようだが、時折その指が止まり、視線が刺さる時がある。
蒼葉に少しでも異変があれば、稲穂はすぐに手を伸ばそうと考えているのかも知れない。実際のところは、本人にしか分からないが。
「ここから自宅って、近いのか?」
「ううん、少し離れた所。夏休みになったらこの辺りに引っ越す予定だけどね」
「へぇ……ああ、それか。忙しいって言ってたのは?」
夏休みに蒼葉の相手ができない、と以前稲穂は言っていた。そういう事情だったのだろう。
「だったら、引っ越しが片付いたら他の仲間も紹介するよ。この辺りに引っ越してくるなら、通うのも苦じゃないだろう?」
「それもいいわね。いちいちバス通いしなくて済むし」
ここは駅や学校からも近いが、稲穂はさらに離れた場所に住んでいるらしい。バス移動もあるならば、少し込み入った集合住宅に住んでいるのかもしれないと、蒼葉は考えた。
話をしている内に、二人は商店街を出ていた。
この近辺は再開発の対象区域から少し離れているので、わりとひらけた土地が目立つ。そのうちの一つを公営の公園として残し、何かあれば潰して公共施設を建てようとしているらしいが、具体的な話はいまだに
「これから向かう診療所は公園の隣にあるんだが……どうした?」
蒼葉が歩みを止めて振り返ると、少し離れた場所で稲穂は立ち止まっていた。かなり前に立ち止まっていたらしく、近寄るのに二桁程の歩数を用いた程だ。
「金子……?」
「……ううん、なんでもない」
そう言い、稲穂は蒼葉の方を向いた。
「悪いけど、ここで別れてもいい?」
「別にいいけど……大丈夫か?」
荷物を受け取りながら、蒼葉はそう問いかけたが、稲穂は静かに首を振るだけだった。
特に問題はないと、アップルフォン片手に商店街入り口のアーチにもたれかかっている。
「そっちこそ、私の親父になんて言うつもりよ。『友達以上恋人未満』の癖に」
「いや、普通にクラスメイトでいいだろ。そこまで込み入った関係じゃないんだし」
少し心配だが、診療所はこの通りをまっすぐ行った先。入り口も通りに面しているので、何かあればすぐに駆け付けることができるだろう。お互いに。
「じゃあ、気をつけてな」
「こっちの台詞よ……じゃあ、また」
蒼葉は稲穂に背を向け、ゆっくりと去って行く。
「行ったか…………はあ」
蒼葉が視界から消えると、稲穂はアーチに頭をつけ、背骨を
「もう大丈夫だと思ってたんだけど、まだ……駄目みたいね」
稲穂は視界に映る公園の方を向いたまま、震える身体を
「昔よりかはマシだけど……やっぱり、
再びアーチにもたれる稲穂。アップルフォンに届いたメッセージに目を通せば、稲穂の父親はもうすぐ来るらしい。
「いまさら
一つ気合いを入れると、稲穂はアーチから離れて公道に一歩近づいた。近づいてくる車に手を振り、自らの居場所を示しながら。
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