第16話 フローレンス

「いい?お嬢様を驚かせるようなことはしないように」


 しつこく念を押すエイダを尻目に首元のネクタイを締め直し、紳士的な佇まいに頭を切り替えていく。今日、ハイライン家の御令嬢であるフローレンス・ハイラインと初対面をする。ここからは汗とストレス、精密な硝煙とは真反対な文化の領域。


「フローレンス様はこれまでのとも会ったことがあないわ。ジェイムスン・ドウセットと会うのは初めて」


「私がどんな人間か説明しているんだろ?」


「もちろん混乱されていたわ」


 無理もない。私は19世紀から体を換えて生き続けていますなんて人間など、どう接するのが正解だというのか。産業革命の暗さと、2度の大戦を渡り歩いてきた私には空に映る雲、雨粒が弾けるアスファルトのような些細な情景さえ今を生きる者とは違って見えるだろう。今も鮮明に思い出せる激動の夕暮れ。ロケット開発の裏にあった真の目的である長距離弾道弾の開発競争。撃鉄が叩くフルメタルジャケットとホローポイント。諜報がその力を発揮したとき、イギリスは三枚舌外交という汚名を受けた。

 あらゆる時代、あらゆる国、あらゆる文化、あらゆる宗教の片隅に私は存在してきた。過大な過去が刻まれた私と、今を生きる者との差異を繋げる意識転写技術に敬意を表するためにも、襟元を正し、フローレンスの元へと・・・



 ※



 フローレンス・ハイラインは、日傘を差した背を向けて墓石の前に立っていた。粗相なく、しかし気配を消して驚かれないようなごく一般的で紳士的に声をかける。


「お初にお目にかかります、フローレンス様」


 白を基調としたドレスが翻り、俯き気味だった頭をゆっくりと上げた。その眼を、口を、鼻を見たとき、衝撃に脳が振動した。これまでに私は何人ものハイライン家の跡取りと時間を共にしてきた。彼らの瞳には、変わらずクラウディアの目に映る夕暮れの赤が宿っていた。


 だが彼女は。


 目も、鼻も、口も。影すらもクラウディアとそっくりで、そのものといっても過言ではなかった。クラウディアという情報因子が引き継がれていき、自然の営みのみでこの時代に奇跡的にも再度生起したかのようで、テクノロジーに依存して今も生きる私とは大きく違う、奇跡を目の当たりにした。あまりの現象に目眩を感じ、不意に足元がふらつく。


「あの・・・大丈夫ですか?」


「大丈夫・・・」


 意図せず眉間を手で押さえていた。眼を揉んで確かな視覚で淑女の姿を見つめる。色素の薄い銀髪、赤みがかった瞳。かつて同じ時代を共に歩んだクラウの幻影が、目前の女性と大きく重なり混じり合う。同時に、私の帰るべき場所はあの産業革命のロンドンだったのだと思い知った。


 人には帰るべき場所がある。


 父と母が温かいシチューを作って待っている実家、地元に根を張る旧友。もし私に帰る場所があるとするなら、それは19世紀のロンドン。あまりにも遠い、時間が片道切符のようにノスタルジーから今へ。振り向こうとも決して歩みを止めないこの足が、心臓のように回り続けていく。

 クラウの血が、異なる時代、異なる人間、つまりはフローレンスの表面をメッキのように覆い、再度私の前にその姿を現しているという事実。クラウがその血縁へと遺伝している事実を目の当たりにし、驚きと感動、そしてどういうわけか喪失感が不規則に胸の内で泳ぎ回っていた。その激しい動揺を何とか押さえ込み、私はフローレンスへ向き直った。


「大変失礼致しましたフローレンス様。貴方様に仕えることになりました、ジェイムスン・ドウセットと申します」


「ジェイムスン・ドウセットさん・・・ですね。体を換えてずっと生き続けていると」


「その通りです。先程は失礼致しました。あなたの姿がかつての知人に似ていまして」


「それはもしかして、私のご先祖様ですか」


「もう100年以上も前のことです」


「途方もないお話です・・・どうしてそこまでしてハイライン家のために?」


「野暮な話です。そんなことよりも私はあなたのことを知りたい」


「まぁ」


 そう言うとフローレンスは口元に手をあててクスクスと笑った。私が不思議の眼差しを作って見つめていると、やがてフローレンスは口角を上げた。


「ごめんなさい。エイダから事前に聞いていた人物像そのまんまでしたのでつい・・・」


「ふむ、きっとエイダの話には齟齬があります。私はいたって紳士ですよ。特にあなたのような美しい方に対しては」


 いつのまにかフローレンスの表情に不安な面持ちは消えていた。ころころと笑うその姿がかつてのクラウにそっくりで、上品な背筋に愛嬌が宿る。


「ご挨拶が遅れました。フローレンス・ハイラインです」


 彼女の差し出す白くきめの細かい手を握った。


「はい、フローレンス様。これからは私があなたのサポートの一端を担います」


「よろしければもう少し砕けて話したいわ。私のことは親しみを持ってフレイと呼んでください。あなたのことはジェイでよろしくて?エイダがそう呼んでいたから」


「問題ありません」


「ならジェイ。あなたはもう私のことをよく知っているでしょう?」


「あくまで紙面上のあなたです。本当のあなたは知りません」


「ならこれから知ってもらわないとね。でもその前に、私にあなたのことを教えてくれないかしら」


「何を話しましょう」


「あなたが生まれ育った時代がいいわ」


 私の時代。


 クラウのいた、無数の歯車が軋りをあげる霧の徘徊。目を閉じればすぐに浮かび上がる革命の蒸気。


「あのころのロンドンは、今よりも混沌としていました」


 クラウは墓の隣に座り、私もまた腰を下ろす。


「破壊と創造、相反する両者を携えた煙がロンドンの空を覆う・・・」


 かつて真鍮の色だったロンドンの話が、私とフレイの間を繋いでいく。私の語りがあの時代にあった煙突の煙のように立ち上り、それを見上げるフレイ。その姿が、ボウストリートを闊歩していたクラウに重なる。もしあのとき、できなかった選択を実行に移すことができるなら。フレイの手を取れるならば。背徳の未来を夢想し、自制心が急ブレーキのように衝動を押さえ込む。私の語りに一喜一憂、喜怒哀楽のこもった様々な表情を見せるフレイ。彼女と過ごす時間に私はいつのまにか魅了されていた。政界や大企業の人妻を魅了して情報を引き出してきた私に彼女は眩しく、まるで太陽をこの手に掴もうとするかのように愚かしくて、しかしそんな自身を嘲笑う自意識など容易く曖昧にしてしまう。そしてこの時間を楽しむことに全力な自分だけが、只々いるだけなのだった。


「かつてのあなただった者たちの墓です」


 唐突に、彼女は近くの墓石に視線を移す。墓に刻まれた、私ではない本来の肉体の持ち主たちの名前が連ねられている。


「ええ。知っています」


「不思議です。あなたは滅び、しかし私の前にいる。恐ろしいような、頼もしいような・・・安心の中に隠れた不安のようなものを感じます」


「その不安は何も間違ってはいません。私は所謂ウォーキング・デッドのようなものですから」


 自分の手の甲を日にかざしてみたが、腐敗の兆しは見られない。ゾンビ、或いは人形か。永遠にハイライン家に仕え続ける人形の物語。そんな私の安っぽい運命にため息を吐く。暮石に刻まれた名は、初めて見た名ばかりだった。今まで自分の肉体の元の持ち主の名前など、気にもしたことがなかった。この肉体が今は自分のものであることを漠然と受け止めて、私が知らないだけでこの肉体も、これまでの体も、とある人生を歩んでいたはずなのだ。どういうわけか元の持ち主は国家のために自分の肉体を差し出し、今は私の意識にある。手の平の皺、目つきは歴史にも似た情緒を結び、それが私の歴史ではないことを示す。なぜなら私の歴史は、この墓の中にあるのだから。


「その、今回の体と言えばよろしいのかしら。随分とお若いのですね」


「ティーンエイジャーの体に宿るのは初めてです。詳細はまだ知りませんが、次の任務に必要になるとエイダから聞いています」


 そこまで話して、彼女に任務に関係することを話すべきではないことを悟る。


「少し話し過ぎました」


 そう言って私は立ち上がる。彼女との時間は私にはあまりに平和すぎる。策謀、裏切り、狐、狸が蔓延する世界に長く居たせいか、平和な日常に持ち込むべきでない話を当然のように話してしまう自分に危機感を抱く。隣に座るフレイも立ち上がり私の眼を正面から捉えた。


「またお会いできますか」


 私は遠くで待つエイダと黒塗りのセダンのもとへ向かいながら言葉を返した。


「もちろんです」

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