意識の在り処

第14話 目覚め

 浮遊感。泡が弾けるくぐもった音が絶え間ない。目を開いても苦痛に感じない、翡翠色をした液体の中を私の体は浮遊していた。口の周りにはマスクが装着されていて、酸素を供給するためのホースが上方へと伸びている。外へと繋がる視界が制限された丸窓からは用途不明なスイッチ類、私のバイタルを表示しているのか、心電図のようなものが見える。


 私。


 私という言葉には違和感があった。私は私のことを知っている。そのはずなのに、私とはどういう人間だっただろうか。そんなありえない疑問を自然に浮かべていた。私自身についての疑問を晴らそうと思考を巡らせていたとき、人影が丸窓の前へと躍り出た。


「目が覚めたのね」


 その表情は影に隠れて伺えない。水の中にいるせいでくぐもって聞こえるが、女性の声だった。


「自分が誰だかはっきりと分かるかしら」


 酸素マスクで声を出せない代わりに、首を振って問いに答えた。


「そう」


 女性の声音は、うっすらと寂しさを見せる。なぜだか女性の心の変化が手に取るように分かるような気がした。


「あなたの名前はジェイムスン・ドウセット。心配しないで、すぐに思い出すわ」


 言うや否や、彼女はスイッチを押す。すると私の生命を維持していた液体は足元の排水口からサラサラと流れていった。浮遊していた身体は沈み、踵から足をつく。


「ようこそ21世紀へ」


 女性の声はさっきよりも鮮明に聞こえた。体を拭き、清潔な肌着に着替えた後に頭髪を乾かそうドライヤーを探したが見当たらない。仕方なくタオルで根気よく拭き続けていると、センサー式の自動扉が横に開いた。


「気分はどうかしら」


「悪くはないよ」


 さっき円窓の影で見えなかった女性がペットボトル容器に入った未開封のミネラルウォーターを持ってきてくれたので、一気にあおって飲み干した。水を飲んだのは随分と久しい気がする。女性は私が座るソファの反対に腰を下ろした。

 ブロンドの髪を後ろで束ねた切れ長の眼。背は高く、広い肩幅は男性の筋肉にも負けない力強さを感じさせる。身に纏った軍服は戦闘服よりも制服に近いが、分厚い布地からは実戦にも耐えうる加工が施されていた。


「はじめまして、ジェイムスン・ドウセット。私の名前はエイダ・フロイト」


「エイダ・・・?」


 遠い昔に聞いたことがあるような名前だった。記号がアメーバのように溶けて混じり合い、しかし朧げにモヤがかって不愉快。


「そしてあなたはジェイ。ジェイムスン・ドウセット。理解してる?」


「わかるよ。私はジェイだ」


 遂には散り散りだった記憶の断片が、硬いガラス状から溶け、一つの液体のように繋がっていく。


「あなたの仕事は?」


「諜報員」


「結構」


 エイダは安心したように胸をなでおろす。ついに私は現状を理解した。


「そうか。意識を転写したんだな」


 意識の転写後はいつだって記憶が曖昧な状態から始まる。その度にこうやって記憶の確認から始めていた。私が他者の肉体に転写されて何回目になるだろうか。随分長く生きている。この状態を生きていると言っていいのであれば。肩を回し、首を回し、体の感覚のズレをチェックしていく。


「なぜ君がエイダの名を?」


「フロイト家がハイライン家の直属になってもう長い。それに敬意を表して、ハイライン家はフロイト家が輩出する優秀な人材に対してエイダの名を襲名する制度を設けたわ。つまり私は優秀な人材ってわけ」


 束ねたブロンドの髪と切れ長い目が、彼女の聡明さを如実に語っている。まるで100年以上前の彼女のように。その聡明さにはフロイトの性を語るには十分だった。


「できれば本名を教えてくれないかい」


「相変わらず節操がないのね」


「あくまで魅力的な女性にだけさ」


 そんな風に、軽薄な男のふりをしてみた。この軽薄さが天性のものなのか、或いは任務の過程でそう思い込んできたことが事実となっただけのなか、今でも演技なのか、それは既に分からなくなっていた。ただ、無意識にそうしていた。


「私を口説くのも無理はないわ。私って美人だから」


 それが冗談か本気なのか、表情からは分からない。


「かつてのエイダも君のように分からない冗談をとばしていたよ」


「あなたもきっと変わっていないのね。事前に読んだ資料のまんまの軽薄さよ」


 磨かれた机に映った自分の顔は、しかし全く見覚えのないものだった。そして若かった。恐らくはティーンエイジャー。


「今回の肉体は随分悪趣味だな」


「確かに、随分可愛らしい諜報員さんになったわね」



 ※



 記憶の齟齬を徹底的に修正されてから数日後、今度は過酷な体力と精神の練磨が始まった。とは言えそのプログラムは前代や前々台の私が組んだものなのだが。そういえばそんなものを計画したなというあやふやな記憶は残っていたが、どうにも他人が作ったものという感覚だ。

 プログラムには60kg以上の荷物を背負い、山の中をひたすら歩く。なるべく悪天候、悪路が望ましいと記してあった。だからこうして雨天でぬかるむ道なき山道を地図とコンパスのみを頼りに歩いているわけだ。恨むぞ前代の私と呟いてみても、その言葉は正に私自身へと向けた言葉であり、1人復讐の連鎖なんていう奇妙で無益な呪いにしかならない。エイダが見つけてくれたこの体力と精神のトレーニングスポットは、抜群に私の心と体をすり減らしてくれた。

 肩の血流を止める60kgの荷物を半ば酸欠になりながら、太い木の根が露出した箇所を蹟かぬようにまたぎ、大腿筋に青筋をたてては一歩を踏みしめていく。もう何度も目に入った雨水混じりの汗が目を充血させても決して閉じず、足場の安全を最優先にして開き続ける。荷物は水を吸ってさらに重くなり、濡れて張り付く服が間接の挙動を妨げ、思うように足が前に出なくなっていく。体も心も天候も思うよにいかないストレスにひたすら耐えるどころか、コンパスと地図で現在地を確認しなければならないので冷静さすらも失えない。どうせ誰もいないのだから一つ大声でも上げてやろうかという衝動を抑え、深呼吸をして湿気の多い空気で肺を満たす。こんなとき、頭の中には疲労と精神的苦痛を追い出そうと様々な雑念が這い上ってくる。このとき私は昔を思い出していた。雨降る鉛の空はかつて産業革命の混沌の渦中にあったロンドンの街を思い起こさせる。


 もうずっと昔だ。


 あの革命の蒸気も、発明の燃焼も、発展の悪臭も。全ては霧のように晴れた。規則性のない混沌にも実は自ら修正しようと働く秩序が機能していて、蒸気は電気へ、石炭は石油へ、環境汚染は規制によって整備されていった。今はただ、全てが予想の範疇から出ないように、制御されたプログラムをランする一筋の演算をロンドンは、いや世界中が走っている。かつての私が組んだこのプログラムを、ただ闇雲にこなす今の私のように。


 世界はプログラムされた。


 恋人作りに躍起になる者も、最終の学歴が大卒を目指す人間も、結婚を推進する国家も、全てがプログラムの上をランしているだけ。意識的な選択肢などない。あるのはそのプログラムを走るか走らないか。


「今の私よりマシか」


 走るしかないプログラムを。この山を歩く私より。

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