恋しい人 第62話

「先輩のことは嫌いだけど、でも、なんかいいね。葵達」

 儚い微笑みはとても綺麗で何度見ても見惚れてしまう。

 僕はできることなら慶史にだっていつか運命の人が現れるよって言ってあげたかった。

 けど、慶史は現実主義者。根拠のない言葉は憐れみだと勘違いされてしまう可能性があった。

 僕は結局「ありがとう」としか言えなかった……。

「まぁもしあの人が童貞じゃなかったら何が何でも葵との仲を邪魔しただろうけどね」

「気持ちは嬉しいけど、もしも虎君が他の人とそういう経験があったとしても僕は邪魔はしない欲しいかな」

「えぇ? だって腹立たない? 葵『だけ』って言っといて結局遊んでるとか言葉が薄っぺらいし信憑性もゼロだよね。何より人に不快な思いさせるぐらい嫉妬丸出しだったのに裏でやることやってたとか本当、ありえな―――」

 声がどんどん荒くなる慶史。何を思い出したのか、怒りを露わにするその姿に僕はとりあえず聞きに徹しようと判断する。

 でも、ピークを迎えそうだった慶史の怒りの声を妨げたのは、仕事に戻っていた斗弛弥さんの吹き出すような声だった。

 二人して斗弛弥さんを振り返れば、肩を震わせる後ろ姿が。僕は一体どうしたのかと思ったんだけど、慶史は斗弛弥さんが震えている理由が分かったのか「盗み聞きとか悪趣味ですよ」って不機嫌な声をあげていた。

「いやぁ、悪い悪い。黙って聞き流すつもりだったんだが、まさか起こらなかった『もしもの話』でそこまでヒートアップするとは思わなくてつい我慢できなかった」

 椅子ごと振り返る斗弛弥さんは目尻を拭っている。涙が零れるほど大笑いしたのは久しぶりだ。なんて言いながら。

「でも藤原君、黙って聞いていたことは確かに先生が悪いが、職場で生徒がサボって恋バナを始めたら聞きたくもなるだろう?」

「! 別に恋バナなんてしてませんけどっ!?」

「していたじゃないか。正直、息子同然の二人の恋バナなんて聞きたくないんだぞ? それを黙って耐えていた先生に随分じゃないかな?」

「さっきその『息子』にブチ切れてたと思うんですけど? ……っていうか、柊先生の二面性が本気で怖いんですけど」

 先生、絶対サイコパス気質ですよね?

 そう決めつける慶史は斗弛弥さんの本性がよっぽどショックだったのだろう。完全に騙されていたと警戒を露わにして僕を盾に身を隠そうとする。

「まるでサイコパスが悪だと言わんばかりの言い方だな」

「『言わんばかり』じゃなくて、言ってるんです」

「サイコパスとは本来精神病質者のことを指す言葉で善悪とは関係のないものだぞ? サイコパスが全員罪を犯すわけでもないし、そもそもサイコパスが悪人だと言うのも多くのメディアの―――」

「もういいです! そういうところ、本当、そういうところですからね!?」

 サイコパスの定義とかそういうのはどうでもいいです!

 耳を塞ぐ慶史に斗弛弥さんは楽しそうに笑っている。その姿に流石に斗弛弥さんと昔から知り合いの僕ですらちょっぴり怖いと思ってしまった。

 僕は斗弛弥さんにこれ以上慶史を苛めないでくださいとお願いする。斗弛弥さんの職場で授業をサボって話すべき事じゃなかったと謝りながら。

「二人が仲が良いことは分かったが、くれぐれも『友達』の範囲でいるように」

「! 言われなくても俺は葵にそんな汚い感情は持ってません!」

「『汚い』って……。そうか。藤原君は随分酷い恋愛をしてきたようだな」

 斗弛弥さんの忠告に慶史は食い気味に言われなくても『友達』だと言い切る。その勢いには斗弛弥さんも驚いたのか、眼鏡の奥で目が見開かれていた。

 随分珍しい表情を浮かべた斗弛弥さんは慶史の反応に目敏いまでに、学生らしい『清く正しく楽しい恋愛』を慶史が一度も経験していないことを見抜いてしまう。

 クライストの中等部の養護教諭でもある斗弛弥さんは、きっと慶史のことをよく知っている。その容姿はもちろん、慶史にまつわるよくない噂もきっと知っている。

 慶史に関する沢山のカードを持っている斗弛弥さんは、とても頭が良い。そして頭の回転も速い。そんな聡い斗弛弥さんが慶史の秘密に辿り着いてしまわないか、僕は正直気が気じゃなかった。

(慶史の過去が知られたら、慶史が守ろうとしているものが全部なくなっちゃう……)

 自分が傷つくことを厭わず、ただお母さんの幸せを守るためだけに口を噤んだ慶史。それなのに、その秘密が明るみに出てしまうかもしれない。

 慶史にとってはそれは生きる意味を失うと同義だった。

(僕には『どう頑張っても理解できないこと』、だもんね……)

 昔慶史に言われた言葉が抜けない棘のように心に突き刺さっている。でもそれは決して辛いから突き刺さっているわけではない。自分への戒めとして忘れたくない言葉だからだ。

 僕は自分が家族から愛されていると知っている。そして、必要とされていることも感じている。僕がいなくなったら母さんも父さんはもちろん、姉さんや茂斗だって正気を保てないだろう。

 もちろん、僕にとっても家族の誰が欠けても正気ではいられないぐらい大事な存在だ。

 だから僕は家族とはそういうモノだと思っていた。かけがえのない存在であり、強い絆で結ばれているものだ。と。

 でも、それが違うと慶史から教えられた。

 自分の存在に疑問を抱いたことのない僕に、慶史は言った。どうして母さんが俺を生んだか分からない。と。

 何があってそんな言葉が慶史の口から出たのかは分からない。でも、慶史がいくら望んでもお母さんからの愛情を感じることができなかったということだけは理解できた。

 僕にとって、それは青天の霹靂とも呼べる『家族』の形だった。慶史は自分を必要としてくれないお母さんの笑顔と幸せを守るために、お母さんの再婚相手から繰り返される性的虐待に耐え続けていたのだから。

 あの時、全てを知った僕は慶史を守るためにお母さんの再婚相手を断罪するために動くことはできた。

 でも、慶史はそれをすることでお母さんが傷つき、心が壊れてしまうことを懸念した。懸念して、とても強い言葉を口にして僕を止めた……。

(あの時、慶史、言ったよね……。『俺はこのために生まれてきたんだ』って……)

 当時まだ初等部に通っていた僕達。それなのに、慶史だけが性急に大人になることを強いられた。


――― 母さんの幸せを守るために俺は生まれた。だから母さんの幸せのためなら俺は死ぬことなんて怖くない。アイツに何をされても何をさせられても、我慢できる。


 一人だけ大人になろうとした慶史が紡いだ言葉は、何も知らず、何もできなかった僕に唯一できることを教えてくれた。

 それが、秘密の共有。慶史が耐えると決めたのなら、僕も慶史のために耐え続けると決めたのだ。

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