第154話

 昔、ある時期を境に慶史けいしの笑い方が変わった。

 それは他の誰も気づかないぐらい些細な変化だったけど、何故か僕だけがそれに気づいた。

 当時の僕は、どうしてみんな気づかないんだろう? って思っていたんだけど、 慶史が僕にだけ教えてくれた『理由』に、何があってもこの秘密を守ろうって決意した。そして同時に、慶史が以前のように笑えるためにできることをしようって誓った。

 あれからずいぶん時間が過ぎて、僕達は初等部から中等部へと進学した。そして、以前ほどではないにしろ昔と同じように笑っている慶史に、僕はすっかり安心してしまって、忘れてはいけないはずの決意と誓いを『過去』のことにしてしまっていたようだ。

 今、慶史の見せた笑い顔に、頭に昇っていた血が急激に引いていくのを体感する。

 冷静さを欠いて怒りに支配されていた思考は落ち着きを取り戻し、僕はようやく我に返ることができたのだ。

「け、慶史、ごめんっ……!」

 僕は青ざめながらも慶史に抱きつくと、そんな風に笑わないで! って声を荒げていた。

 突然抱きついたせいでしゃがいんでいた慶史はバランスを崩して後ろに倒れこんで、僕は慶史の上にのし掛かってしまう。

 けど、そんなことを気にしている場合じゃないから、僕は必死に謝った。怒ってごめん。って。酷い態度をとってごめん。って……。

「……なんでまもるが謝るの」

「だって、だって僕っ、慶史に酷いこと―――」

「酷いこと言ったのは俺でしょ。……葵の大事な人を悪く言ったのは俺なの。葵が怒るのは当然だよ」

 ぎゅっと抱きついてしまうのは、慶史の心が離れてしまいそうで怖かったから。

 心を繋ぎ止めておきたいって心理のまま力一杯抱きつく僕に、慶史は「苦しいってば」って苦笑混じりに僕の頭を叩いて力を緩めるように言ってきた。でも僕はその言葉に嫌だと言わんばかりに首を振ってより強く抱きついてしまう。

「葵、大丈夫だから。俺は何処にも行かないし、これからもずっと葵の友達だから、だから安心してってば」

「ほ、んとうに……? 本当に、何処にも行かない……? ずっと僕と友達でいてくれる……?」

「本当に。嘘じゃないから、お願いだから腕緩めて。結構苦しいから」

 息苦しいと笑う慶史に僕はおずおずとその手を緩め、身体を起こした。地面に寝転がったままの慶史は僕に向かって手を伸ばしてきて「起こして」って言ってきた。

 僕がその手を取り引っ張ると、慶史も起き上がってそのまま立ち上がると軽く伸びをして見せた。

「慶史、あの、本当にごめんね……」

「だから、なんで葵が謝るの。さっきも言ったでしょ? 怒られて当然の事を言ったのは俺だ。って」

 改めて謝るも、慶史は僕が頭を下げる前にその手で額を押してきて頭を下げることを許してはくれなかった。

 確かに慶史の言葉はとても酷いものだったけど、でも、それは慶史の本心であり、慶史はそう感じたっていう事実でもあった。

 それなのに僕は虎君の事しか考えられなくて、結果、慶史の気持ちを無視して自分の思いを押し付けてしまった。それについては全面的に僕が悪いから、ちゃんと謝りたかった。

 それなのに……。

「ごめんね、葵。葵の好きな人の事、できれば俺も好きになりたいって思ってはいるんだけど、やっぱりすぐには考えは変えられないや」

 できる限り理解できるように努力はするから、今はそれで許してよ? なんて、ずるくない?

 僕は不甲斐ない自分に泣きそうになるも唇を噛み締めてそれを耐えると、慶史の手を握りしめて何度も頷いた。

悠栖ゆず朋喜ともきも、巻き込んでごめん。ちょっとスッキリしたし、もう大丈夫だと思う。……たぶん」

「! 『たぶん』かよ」

「愚痴ならいくらでも聞くから、八つ当たりはやめてよね」

 呆然としていた二人は慶史の声にハッとして、理不尽な八つ当たりだけは絶対にやめてくれと言ってきた。

「あ、あの、僕も、ごめん……」

 慶史だけじゃなくて、悠栖にも朋喜にも酷い態度だった。

 簡単には許してもらえないかもしれないけど、失った信頼を取り戻せるように頑張るから、二人にもこれからも友達でいて欲しい。

 僕は二人に向き直ると今度はちゃんと頭を下げて謝った。

「マモのマジギレとか、激レアじゃね?」

「『激レア』どころかプレミア物だよ。俺も初めて見たぐらいだし」

「慶史君でも初めてなんだ? だったら僕達ももう葵君の『親友』なんだね!」

 頭を下げたままの僕の耳に届くのは、楽しげな三人の声。

 おずおずと頭を上げたら、三人は笑って僕の頭に手を伸ばしてきた。

「そんな泣きそうな顔すんなよ。今『迎え』が来たら俺等殺されるんじゃね?」

「だろうね。あの人って過保護通り越してストーカーレベルだし、葵のこんな顔見たら問答無用で確実に殴られるだろうね」

「殴られるのは流石に嫌だし、葵君お願いだから泣き止んで!」

 三人から頭を撫でられ抱き締められ、僕は涙腺への攻撃を必死に我慢する。

 そんな中で出てくる虎君の話題は相変わらず偏見に満ちていたけど、何故だかそれら全てが愛おしくてますます泣きそうになってしまった。

「あーあ。本当、予想はしてたけど腹が立つなぁ」

「慶史のそれってあれだよな。『娘を嫁に出す父親の心境』」

「! ぴったりだね!」

「なら、あの人の事いびり倒していいかな? 『お前みたいな男に大事な葵はやれん!』って」

「いいけど、それは僕達のいないところでやってね? 巻き添えで怒られるのは嫌だし」

「えぇ? 俺達『親友』だろ? 苦楽は共にするもんじゃない?」

「慶史、お前はそうやって都合の良い時だけ『親友』って言うのやめろよな」

 僕を抱き締めたまま軽口を交わす三人。その声が優しさで満ちていたから、僕は思わず声を出して笑ってしまうのだった。

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