25話 イリーナの幸せ
リード・アルティメスにとってその日はなかなか眠れない夜だった。
長い時間を働き続け、疲れ切ったその体を十分に休めるために眠る時間は1分1秒でも長く確保したかった。
今思えば、それはある意味で必然だったのだと思う。自身の私室にこんな遅い時間にしかも窓から訪れるものなど、普段は当然いないのだから。
私室に付いたテラスに突然感じた気配にアルティメスは剣を片手に警戒しながら窓から確認する。
テラスに立っていたのはカイルだった。
カイルの姿を確認したアルティメスは警戒を僅かに緩めテラスへと続く窓を開ける。その瞬間に漂ってくる血臭に目を僅かに細め、カイルが大事そうにその腕に抱えた何かを見る。マントに包まれた、恐らく人であろうその姿形をみて最悪の予想が一瞬脳裏を過ぎるが、そうであるなら内密にここにくる必要はない。扉から堂々とくればいい。
「カイル、……何があった?」
アルティメスの質問にカイルは何も言わずに無言で開け放たれた室内へと入っていく。
そして、ゆっくりと腕の中の誰かを、まるで壊れものを扱うかのように大事そうにアルティメスが座ったこともない上等なソファへと横たえる。
そのマントから覗いた見知った顔にアルティメスは目を見開く。
「……イリーナが死にました」
ソファへと横たえたイリーナの頬を優しく撫でながらカイルはアルティメスに呟く。
月光に照らされ、今までみたこともないほど優しい表情でイリーナの頬撫でるカイルのその姿にアルティメスは息を呑んで、言葉を発することを忘れた。
慈愛に満ちたその表情はまるでイズミが祈りを捧げている光景をみた時のような神聖さをアルティメスへと与る。
「僕はやらなければいけないことがあります。
騎士長、イリーナとイズミ様をお願い致します」
眠りつづけるイリーナから一切目を離すことなくカイルは騎士長にまるで最期のように2人を託すという。
「カイル、貴様一体何をするきだ?」
いつにないカイルの様子にアルティメスは危機感を抱いた。
彼の表情は慈愛に満ちた優しいものだというのに、纏う雰囲気は怒りと嘆きに満ちている。イリーナの突然の死といい、自身の知らないところで次々と変化していく事態にアルティメスとしては何が起きているのかを把握したい気持ちでいっぱいだ。
だが、今この目の前の青年が悠長に事情を説明してくれるとは思えない。
「誓いを、約束を果たしに行きます。
……イズミ様を守る、これが、僕がみんなに誓った想いですから」
カイルはそこで始めてアルティメスを見る。
様々な想いが込められたその瞳と儚く微笑むその顔はアルティメスにこれ以上の追及を止めさせた。
カイルはそれ以上何をいうでもなく、無言のままアルティメスの横を通り過ぎてテラスからその姿を消した。
カイルの去った部屋でアルティメスはその瞳から涙を流していた。カイルの見せた先程の表情、彼の全ての想いと覚悟がアルティメスの脳裏から離れない。かつて自分が背負いきることができなかった想いを、カイルは全て背負ってきたのだ。
カイルが何をしようとしているのか具体的なことは何もわからない。
だが、それがどのようなことであれ、その行いはきっとイズミを守る為だ。
アルティメスはそっとソファで眠るイリーナを見る。その穏やかで幸せそうな表情はアルティメスもみたことがない表情だった。カイルと同じように多くの命を奪い、その心を殺してきた彼女が、いつからか全く笑わなくった彼女がこんなにも幸福に満ちた表情をしている。
ふと、彼の脳裏にかつてイリーナと話した会話が過ぎる。
『貴様といい、カイルといい最近の若い連中は表情括約筋が死んでいるのではないかと思うくらい動かんな。イリーナはもう少し本当に笑っているようにしてみろ』
『失礼ですね、私だって笑うことくらいあります。
アルティメス騎士長が未婚なこととか、アルティメス騎士長がもう30過ぎてることとか』
『貴様が、私を馬鹿にしている事だけはよくわかった。
的確に私が気にしてることをついてくる事だけはさすがだと褒めてやろう』
『まあそれはさておくとして、そうですね。
…本当に幸せな時くらいは笑うんじゃないでしょうか?』
そう言ったイリーナの笑みは相変わらず作り笑顔であったが、今の眠りについた彼女の微笑みはとても作り笑顔には見えない。
「…イリーナ、お前は幸せだったか?」
氷の人形と揶揄されてきた彼の見せた慈愛に満ちた表情、それを一身に受けた彼女から答えが帰ってくることはない。
だが、きっと彼女は幸せだった、そう彼に断言させるのに十分な表情であった。
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