14話 氷の人形
老躯は万年の時ように感じるこの時間を高台から悠然と見下ろし、その時が来るのを待っていた。
(……おかしい)
だがそこで異変に気づく。
聖女一行はすでに予定された襲撃のポイントに到着している。にも関わらず、襲撃は実行されない。
あれほど、待ち焦がれた復讐の瞬間に同志達が動かないわけがない。
誰も彼もが恨みと憎しみを胸に今日まで生きながらえてきたのだ。
今更、怖気付いたり、裏切りの可能性など、はなから老人の頭にはない。だがそうであるならば何故?
「…何故だ、何故誰も動かない!」
眼下を悠然と過ぎ去っていく聖女一行に長年時を待ち続けた老人も焦りを隠せない。焦りのあまり、声高々にその疑問を空中へと吐き出す。
そしてその答えは唐突に示される。
「誰も動かないのではなく、誰も動けないのではないか?」
唐突に背後から掛けられたその言葉に、老躯はその老いた姿からは想像もできないほど素早く後ろを振り向き、声の方角から僅かに距離をとる。
「…ほぉ、さすがに元騎士なだけはある。その齢でそれほどの動きができるとは先程よりはやりがいがありそうだ」
唐突に現れた声の主は夕闇の中で、その相貌は老人からは見えない。老人の動きに感嘆とした様子で呟くその声はまだ年若い、だが決して油断できる相手ではないことを老人はその肌で感じ取っていた。
(…少なくともこの距離に至るまで、この私に全く気配を感じさせないだけの技量を持っている)
「これはこれは、私のことをご存知なのかな?
だが私も歳でね、この暗闇では君の姿がよく見えないのだよ、君は一体、誰なのかな?」
老人の問いかけは夕闇に吸い込まれるように消えていく。両者の間に一瞬の静寂が生まれる。
耳が痛くなるような静けさに周囲がより一層暗く感じる。
その瞬間、闇の中からスルリと前に出てくるひとつの影、徐々に明らかになる相貌に老人は僅かに目を見開く。
(若いとは思っていたが、これほどとはな)
老躯から見れば若すぎるその相貌は青年と言って差し支えないだろう、だが明らかにその若さには似合わぬ技量を感じさせる佇まい。
何よりぶらりと脱力したようにすら見えるその手に握られた得物はこの暗闇にあって鋼特有の不気味な光を放っている。
「…さてこれで見えたかな、僕の正体には心当たりがあるだろう」
暗闇から現れた姿はまさしく騎士といった様子それも聖女一行の騎士達と同じ装いからして間違いなく神殿騎士、それも聖女の護衛としてきているのだから間違いなく近衛騎士と言われる精鋭の類。
「はて?先ほども言ったが私は歳でね。君のような齢の神殿騎士に命を狙われる理由は私にはわからないな」
とぼけた老躯を演じるが、その実内心は冷や汗をかいている。
何故、この場所に自分がいることがわかった。
襲撃の時期、ポイント、その全てがバレている様子では計画の全てが漏れていたのであろうことは既に老人にもわかっている。
だがそうだとしても合点がいかないことがある。
計画に自分が向かう場所などいれていない、それどころか、この場所から襲撃を見ることなど誰にも伝えていない。
老人がここにいることは彼自身しか知らないことのはずだった。にもかかわらず、この神殿騎士は自分を襲撃計画の一員と断定してここいる。
(…見られていたということか、一体いつから…)
「それは困ったな。
其方の友人は随分と簡単に心当たりを話してくれたのだが…」
老人が考えを進める間にも青年はまた一歩近づきながら片手に持つその鋭利な刃物をチラリと翻す。
その刃を見て、老人は青年への穏便な対応が不可能であることを悟った。
「…ひとつだけ聞きたいのだがね。
その刃に付く血はどこで着いたものなのかな?」
青年の持つ鈍く光る鋼の色のなかに赤い輝きが混じっている。
「あぁ、どこだったか、確かこの街に入ってすぐのあたりだったかな。
妙なもので、皆揃って黒い装いをしていたのだ、この暗闇でそのような装束は
いかにもといったところでとても分かりやすかったよ」
青年はおどけたような口調で、そういえばと、思い当たる記憶を老人に説明する。簡単なものだったと、そう言わんばかりの青年の口ぶりに老人はその身に纏う空気をゆっくりと変える。
「…慈悲はなしか。なるほど実にお主達らしいやり方だ。
だが、解せんな、お主の技量ならばこの首を、気づかせることなく落とせたはずであろう? 何故私に声をかけたのだ?」
青年と老人の距離はおよそ20メートル程度しか、離れていない。この距離に至るまで老人は青年にまるで気づくことが出来なかった。青年が本気で殺しにきていたのならば、老人はその命を気づくことなく失っていた筈なのだ。
だが彼は私に猶予を与えるように声をかけてきた。
殺す以外になんらかの目的があるのか、あるいは単なる気まぐれか。
前者であればともかく後者であったならば随分な自信家だ。
(…何方にせよ、随分と舐められたものだ)
「なんだ、歳だ歳だという割には、随分と頭がまわるじゃないか。
話が早いのはいいことだ、其方に聞きたいことがあったのだ」
青年の答えに老人は心の中で舌打ちすらしそうであった。
(やはり前者か、目的があって、今私を生かしておるということか)
「ほう、君のような若者が褒めてくれるのはありがたいがね。
この老躯に果たして答えられることかな?」
「なに、難しい質問ではない。
一体誰から聖女様がこの町に来ることを聞いたのか、
僕が知りたいのはそれだけだ」
襲撃の計画は聖女がパラムの町にいつ着くのか、その正確な情報がなければ不可能なものだった。そもそも聖女一行がこの町を訪れることは、限られた人間にしか知らされていない情報だ。
つまり、その情報を聞くことができた限られた人間、正確にいえばこの街の上層部、或いは聖都内部に聖女襲撃の計画に加担したものがいるということだ。
聖女の護衛としては是非知っておかなければならない情報だ。
「はて、どうだったかな、…やはり歳だな。
君の質問の答えを、どうやら思い出せそうもない」
だが、老人も簡単に情報源を吐いたりはしない。
老人にとってはそのものも同志なのだから。
「そうか、随分と使い勝手のいい言い訳だな。だが、それなら其方に用はない」
青年とてこの老人が情報源を簡単に喋ってくれるとは思っていない。
だが、老人の記憶が戻ってくるまで悠長に待っている時間など当然青年にはない。老人の言い訳を随分と使い勝手がいいと評し将来は利用できそうだな、などと内心でお気楽に考えながらもその雰囲気を冷徹なものへと一気に変える。
青年の雰囲気の変化に老人はその身にあつらえた得物を抜こうと構えをとる。
瞬間、老人の視界から青年が消える。
驚愕に目を見開くが周囲を見渡す間もなく、ついで老人の右側から激しい衝撃が襲う。
一瞬、意識を飛ばしてしまいそうなほどの衝撃の強さに老人はその体を勢いよく横に吹き飛ばされながら地面を転がるが、その反動を利用して衝撃を受けた位置から距離をとって飛び上がる。
再び地面に足をつけた老人が衝撃を受けた場所を見やればそこには剣をぶらりとぶら下げた青年が最初となにも変わらない様子で立っていた。
「ほぉー、今のを防ぐのか。其方は僕の想像以上に遣り手だったようだな」
あの瞬間、一瞬で老人まで距離を詰めた青年はその手に持つ剣を横に一閃、その首をはねるつもりだった。だが、こちらを完全に見失っていたはずの老人はまるで此方を見ることなく咄嗟に右の腰にぶら下げていた剣を抜き放って防いで見せた。
余裕綽綽といった様子で呟く様子の青年に老人は自身の右腕を見る。
老人にとっても先程の動きは意識したものではなかった。
長年の勘か無意識のうちに経験が自身の身体を動かし、青年の一撃を防ぐことができた。だがその代償は大きかった。
—カシャン—
金属が跳ねる音が周囲に響き渡る。
青年の一撃を受けた剣が老躯の手の中からその制御を失って飛んでいったのだ。
得物を失った上、ジンジンと痺れるような腕の痛み、さらに先程の無理な距離の取り方はこの老いた身体には随分と堪えたようだ。
(たった一撃、一撃受けただけで右腕を持っていかれたか)
自身の命を護った長年の経験による限界を超えた動きは代償としてその利き手を持っていった。もはやまともに握ることすら出来ない。
彼の一撃は自分の理解を遥かに超えたものだ、尋常ならざる速度で瞬時に距離を詰めてきただけではない。彼はただ剣を横に振っただけだ、それを防いだだけであの若者よりも大きいはずの自分の体はいとも容易く吹き飛ばされ、その上片腕を持っていかれた。
——化け物か——
あの青年の力量はもはや人中の範囲にはない、どう取り繕ったところでその動きは唯人のものではない。自身もかつては騎士として長いあいだ働いてきたのだ、盗賊や野党といった類のものから他国の騎士に至るまで多くの人間を相手取ってきたし、魔獣といわれる化け物とも戦ったことがある。
老いたとはいえ自分はその辺りの下手な騎士よりも十分に戦えると老人は考えていたし、事実、彼の技量は決して低くはない。
だがそれを遥かに上回るほど青年が強かっただけだ。
それまで冷静に落ち着いた雰囲気を醸し出していた老人の中から抑えきれないほどの感情が溢れる。だがそれは青年よりも弱い無力な自分の力を目の当たりにしたからではない。
何よりも老人のその眼で捉えた青年の姿が老人を激昂させたのだ。
「何をしているのだ、…お主自分が何をしておるのか、わかっているのか!」
先程までの冷静な様子と打って変わって怒鳴り散らす老人に対して、青年は変わらずただ悠然とただずむ。その身に青白い光を纏って。
暗闇に青白く浮かぶ亡霊のようにも見えるその姿は、ひどく不気味で、青年の周りの空気は氷のように冷たく、その表情はまるで人形のようにも見えた。
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