三十章 おかえりなさい
* * *
花野子ちゃんをおんぶした和真先生が、角権現に帰って来たのは、その日の夕刻でした。二の鳥居まで来ると、ここまで送ってきてくれた数頭の狼たちは名残惜しそうに二人の手のひらをなめて、どこかへ去ってゆきました。
「イノシシや鳥たちにも御礼が言いたかったなあ」
親切な狼たちの後ろ姿を見送りながら花野子ちゃんが残念そうに言いました。
「みんな素羽鷹にいるんだ。そのうち会えるさ」
花野子ちゃんを背負いなおして和真先生が頬笑みました。
「もう降ろしてください。俺、歩けますから。先生だって疲れてるでしょ?」
花野子ちゃんは急に恥ずかしくなったらしく頬を赤らめました。
「花野子は軽いから、これしき何でも無いよ」
和真先生は目を細めると急な石段をぐんぐん登ってゆきました。
「花野子!」
石段の上から呼んでいるのは、お母さんの冬青さんです。
「どうしたの? 怪我をしたの?」
青い顔をして石段を駆けおりてきます。
「まあ、先生、すみません。うちの娘を、ありがとうございます」
「母さん、違うの。どこもなんともないの。先生、そう言ってよ」
花野子ちゃんはますます赤くなりました。
「ええ。怪我はありません。大丈夫ですよ。花野子ちゃんは大活躍してくれて、お疲れなだけですよ」
和真先生は冬青さんを安心させると、拝殿の前で花野子ちゃんをおろし、汚れきった姿のままお城に戻ってゆきました。その後ろ姿を眺めながら冬青さんが、ふっと頰笑みました。
「ねえ。和真先生、花野子のお婿さんに来てくれないかしらね」
「バッカなこと言わないで!」
花野子ちゃんは耳まで赤くなって井戸端へ駆けてゆきました。
* * *
若様は草薙姫の首に両腕をまわして名残を惜しみました。
「草薙姫さん、ありがとう。お陰で戦にならなかったよ」
「若様が頑張ったからですよ」
「僕じゃないよ。草薙姫さんや龍や鳥や狼たちのおかげだよ」
「いいえ。素羽鷹の龍を捜しだして龍の三宝を届けたのは若様です。空を埋め尽くした鳥たちをご覧になったでしょう? 一億那由多の仲間を集めたのは若様ですよ。ほんとうによく頑張りましたね」
大イノシシは頬を染めた若様に優しく鼻を押しつけました。
「だけど、龍の鏡を見つけてくれたのは和真先生と花野子ちゃんだし、北の人たちを追い払ってくれたのは鳥たちと狼と草薙姫さんたちだもの」
「自分一人で何もかも出来る人はいませんよ。素直にみんなに感謝できるところこそ、若様の良いところです」
「ああちゃん、ねむくなったよう」
お母さんの足元でイノシシのぼうやがぐずりました。
「そしたら、もう帰ろうね、ぼうや」
最後に大イノシシは若様の額に鼻で触れると、ぼうやを連れて歩き出しました。
「草薙姫さん、またあえるよね」
若様は泣きそうな声で言いました。
「もちろんですよ。いつでも会えますとも」
手を振り続ける若様を、何度も振り返り振り返り、お母さんイノシシと小さいぼうやは夕焼けの枯れ野原に姿を消しました。
* * *
武石のお殿様の居間で二人きりになると、床にぺたりと平伏したのは素羽鷹のお殿様でした。向かいにあぐらをかいた武石のお殿様は困った顔で従兄弟を眺めています。
「すまなかった。詫びる言葉も見つからんのだ。誠にもって、申しわけなかった」
素羽鷹のお殿様は涙と鼻水で目も当てられない顔で謝りました。
「突然、謝られても困るんだがな。いったいどうしたんだ」
武石のお殿様は笑いました。
「俺は不戦の誓いを破ろうとしたんだ。俺を信じ切っている、せいたか丸の国を攻めようとした。とんでもない卑怯者なんだ」
「へえ。そうだったのか」
武石のお殿様は面白そうに言いました。
「怒ってくれよ。俺は本気だったんだ」
「武石を命がけで守ってくれた恩人を怒るわけににはいかぬだろう」
武石のお殿様は頰笑みました。
「違うんだ。結果的にはそうなったが、当初の計画では逆だったんだ」
あはははは、と武石のお殿様は笑いました。
「バカだな。言わなきゃ分からないものを。お前、鬼将軍に操られていたんだろう」
「いや。あれは半分俺だったんだ。天下を取るにはどうしたらいいか。策を練るのが楽しくて堪らなかったんだ。どうしても戦場を駆けめぐりたかったんだ」
素羽鷹のお殿様は子供のように声を上げて泣きだしました。
「お前ほどの才があれば無理からぬことだ。残念だったな。素羽鷹に生まれて」
「残念なのは、この俺だ。ばかで卑怯で最低だ。せいたか丸を裏切り、大事な仲間を戦場へ駆り出し、危うく七法師を、あの子を」
言葉に詰まった素羽鷹のお殿様は、こぶしを固めて自分の頭をボコボコ殴りました。
「おい。やめとけよ」
武石のお殿様は素羽鷹のお殿様の腕を押さえつけました。
「こんがら丸のお陰で武石は守られた。一人の怪我人も出さなかった。俺がお前にどんなに感謝してるか、分からないのか」
「その手柄はうちの七法師と和真と花野子のものだ」
「違うさ。俺は見ていた。お前が命がけで煙玉を投げながら馬で駆けるのを」
武石のお殿様は素羽鷹のお殿様の肩を抱きました。
「武石を守ってくれて、ありがとうな。こんがら丸」
「せいたか丸」
素羽鷹のお殿様はなかなか泣き止みませんでした。
* * *
虎千代は素羽鷹沼の岸辺で雌の狼の顔を見上げていました。
「一番小さかったお前が犬護法に選ばれて、ハヤブサと旅立ってから、毎日どうしているかと考えない日はありませんでしたよ、ぼうや」
雌の狼は虎千代の額を優しく舐めました。虎千代は恥ずかしそうにじっとしていました。
「ぼくは虎千代という名前をもらいました」
「なんと良い名前でしょうね」
雌の狼は虎千代の耳の匂いを嗅ぎました。
「はい、あの」
「なあに」
「えっと、あの」
雌狼は頬笑んで虎千代の瞳をのぞき込みました。
「お母さんとお呼びなさい」
「はい、お母さん」
「おいで、虎千代」
虎千代はお母さんの胸の柔らかな和毛に鼻をうずめました。お母さんは暖かくて柔らかくて、いつまでもこうしていたいと思いました。
「虎千代、このたびはよく頑張りましたね。お前はお母さんの誇りですよ」
「はい、お母さん」
「とらちゃーん」
遠くから若様の声が聞こえると、虎千代はぴんと耳を立てました。
「わかさまが呼んでる。ぼく、行かなくちゃ」
「そう。お役目に励みなさい。体に気をつけるのですよ」
「はい。お母さん」
「おおーい。とらちゃーん。どこー」
「おんおん。ここでーす」
まだ短い足で駆けてゆく息子の後ろ姿を、母狼はいつまでも見送っていました。
* * *
首無塚の名残も失せた空き地では、冷たい地べたに寝転んでいた山伏が、かっと目を開きました。
「なんだ? わしはなんでこんなところで寝てるんだ?」
山伏は地べたにあぐらをかいて首を捻りましたが、まるで思い出せません。
「チョウゲンボウと戦った夢を見たな。あれはなんだったのかな。最後は張り倒されたんだ。イヤな夢だったな」
そこへ、どこからともなく目つきの悪いサルがやってきて、山伏の法螺貝を小脇に抱えると街道の方へ逃げ去りました。
「こら、待て! わしの商売道具を返せ!」
山伏は錫杖を振り上げてサルを追ってゆきました。
* * *
桔梗の井戸深くに
首の無い黒い影が、ヒカリゴケの淡い光に包まれた石室の前に立ちました。
「おやかた様、お帰りなさいませ」
美しい
「おぬしは誰だ」
「え?」
桔梗御前は驚いた顔を見せまいと
「わたくしは桔梗と申します。昔から、おやかた様にお仕えさせて頂いております」
「首の無いわしが誰だか分かるのか」
「はい」
「うそをつけ」
すると桔梗御前は美しい
「失礼ながら、おやかた様のお声も
「そんなことまで覚えておるのか」
「はい。おやかた様のことならば」
「わしはお主を覚えておらぬぞ」
「わたくしは何から何まで覚えております。御心配なさいますな」
「そうか」
首の無い影は石の櫃に腰をおろしました。
「では教えてくれるか。わしがどんな男だったか、何を夢見て生きていたのか」
桔梗御前は花のように頬笑みました。
「なにもかもお話し申し上げましょう。おやかた様がどれほど強く雄々しくお優しいお方であられたか、どうぞごゆるりとお聞き下さいまし」
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