二十三章 井戸の黒影(1)

「龍の鏡に何の用がある」


 黒影の声が低く濁りました。


「素羽鷹の龍神様に返すのです」


 花野子ちゃんは心にひるむなと言いきかせ、こぶしを握りしめました。


「素羽鷹の龍神様がこの度めでたく甦りました。三宝を龍神様にお返して素羽鷹をわざわいから守っていただくのです」


 黒影の怖ろしげな姿は鬼将軍その人にも見えました。しかし若様を守るためには何としても龍の鏡が要るのです。花野子ちゃんは足の震えをおさえられぬまま、けなげに胸を張り足を踏みしめました。すると。


「おやかた様が何というか」


 黒影が低くつぶやきました。


「おやかた様とはどなたですか」


 花野子ちゃんの問いかけには答えず、黒影はしばしもくしました。そして。


「いかにも龍の鏡はここにある」


 その声がくぐもってわらいました。


「そなたは肝の据わった娘とみえる。ひとつ、賭けをしようではないか」


「賭けですって?」


 花野子ちゃんは目を見開きました。


「これより昔話をひとつ聞かすゆえ、それでこのわしの名を当てられたら、龍の鏡を譲ってしんぜよう」


「そんな……。当たらなかったら?」


「ここにとどまり、とこしなえに我に仕えよ」


 花野子ちゃんは唇を噛んで自分のつま先を見つめました。こんな化け物の名を当てようなど出来るとは思えません。


「嫌なら、さっさと戻るがよい」


 黒影は衣の裾を引いて背を向けようとしました。


「待ってください! 当ててみせます!」


 当てなければ龍の鏡は持って帰れないのです。若様と虎千代の為に花野子ちゃんは雄々しく顔を上げました。


「どうか、お話を聞かせてください」


「よかろう」


 黒影の衣の端から、わずかに白い扇子がのぞきました。


「おやかた様を裏切ったのは都から来た陰陽師おんみょうじだ」


 黒影はいきなりそんなところから語りはじめました。


「敵におやかた様の居所を知らせて襲わせたのだ」


「その陰陽師とは何者なんですか?」


 面食らいながら花野子ちゃんは尋ねました。

「都の陰陽寮おんみょうりょうの下働きだという若い男だったが、好奇心のただならぬ者でな。印波の国に天子様にたてつく鬼が出たと聞くや、その目で見たくて矢も楯もたまらず、仕事を放りだして見物に来たのだ。ところが舟が港につくなり船宿の跡取り娘とねんごろになってな」


 黒影はいまいましそうに続けました。


「二人の仲はたちまち親に知れ、どうでも婿になれと脅された。陰陽師は遠からず都に帰るつもりでいたから困ってしまった。それでこともあろうに婚礼の晩に逃げ出したのだ。哀れなのは、その娘よ。夫に逃げられた恥ずかしさに、海に身を投げて死んでしまった」


「あんまりです! かわいそうに。その陰陽師は恥を知るべきです!」


 花野子ちゃんが憤慨すると、黒影は我が意を得たりとうなずきました。


「死んだ娘の親兄弟は陰陽師を心底憎み、地の果てまでも追って殺そうとした。そのとき陰陽師をかばってやったのが、おやかた様よ。陰陽師が一目見たいと願った鬼その人よ」


「そんな非道ひどい奴を、なぜ庇ったのですか」


「若い奴はしくじるものだ。しくじっって世の中を学ぶのだ。俺もそうだった。だから俺はしくじった奴に居場所をくれてやって、やり直させてやりたいんだ。そう、おやかた様はおっしゃってのう」


 ため息をこぼす黒影に花野子ちゃんの恐れは薄らぎました。


「おやかた様は、お心の広い方だったのですね」


「うむ。困っている者を見過ごせないお方であった」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る