二十二章 桔梗の井戸(2)

 沼に小舟を押し出すと、水面を寒い風が吹き渡りました。

 ギイギイと櫂を漕ぐ音が風に乗って運ばれてゆきます。空はまだ明るく日が沈むまでにはすこし間がありました。


「この舟があって助かったよ」


 舳先に背を向けた先生が、櫂を漕ぎながら頬笑みました。


「今頃、若様は」


 同じ言葉を口にした二人は揃って北の方角に目をやりました。ちょうど同じ頃、若様たちは龍宮島の渡し場へ出発したのですが、そうとは知らぬ和真先生と花野子ちゃんは、若様の身を案じるばかりでした。


「若様はきっと御無事だ」


 和真先生は、大きく櫂を動かしながら言いました。


「そうでしょうか」


 花野子ちゃんは膝を抱えてうつむきました。


「うしとら沼って底なし沼の奧にあるのでしょう? どうしたら行けるんですか?」


「お里ばあによると、首無塚のふもとから枯れ川の跡をたどるらしいのだ」


「若様だけでそこまで行けたかな」


「虎千代に任せれば若様はきっと龍宮島へ行けるよ」


 先生は花野子ちゃんに頬笑みかけました。


「花野子の見つけた古文書にそう書いてあったろう?」


 あんな小さな虎千代にそんな大役が務まるのでしょうか。花野子ちゃんが難しい顔で黙り込むと、先生がふっと頬笑みました。


「花野子は優しいなあ」


「そんなことないです。だって若様はまだチビスケだから」


 花野子ちゃんは慌てて言い訳しました。


「そういえば桔梗ききょうの井戸って何のことですか?」


「ああ、素羽鷹の七不思議のひとつだよ」


 和真先生がうなずきました。


「鬼将軍には桔梗御前ききょうごぜんという美しい側室そくしつがいたんだが、その人が身を投げた井戸だというんだ」


「鬼将軍が死んじゃったから?」


「いや。鬼将軍の居場所を敵に告げたことが仲間に知れて責められたからだと伝わっているんだ」


「裏切ったんですか?」


 曲がったことの嫌いな花野子ちゃんの眉が上がりました。


「なにも記録が残っていないから真偽のほどは分からないのだ」


 先生は肩をすくめました。


「ただ、それ以来この辺りには桔梗が咲かないそうだよ」


「なんだか悲しい話ですね」


 ため息をつく花野子ちゃんに、先生は優しい眼差しを送りました。


「後世の人々が桔梗の井戸をさんざん探したんだが、未だに見つかっていないんだ。桔梗の恨みだろうと噂されている」


「どうして井戸を探すのですか?」


「鬼将軍が金銀財宝を隠したという噂でね」


「ほんとうなんですか?」


「それも記録に残っていない」


 先生がクスリと笑いました。




 草深い岸に舟を漕ぎ寄せると、夕映えのさざ波が朱い水脈みおを引きました。鏡権現の丘も夕陽に朱く染まっています。耳を澄ませても人の気配はありません。花野子ちゃんと和真先生は崩れかけた石段をのぼりました。


「じきに暗くなるだろうが手分けしてさがそう。いくつかほこらがあるはずだから、よく調べてくれ」


「はい。俺は向こうを見てきます」


 花野子ちゃんは丘の反対側へと走ってゆきました。


 背の高いナナカマドの木をまわりこんだところで、和真先生の足に固いものがあたりました。草むらに隠れていたものは緑青ろくしょうを吹いた青銅の破片でした。


「おや、これは寺の釣り鐘だな」


 先生は地面に顔を近づけました。すると大小の破片が散乱する黒土に、驚くほど大きなひづめの跡を見つけました。


「なんだ、この巨大な獣は?」


 足跡のまわりには、わらじの足跡と花びらのような子犬の足跡もありました。


「若様と虎千代は、ここに来たに違いないぞ」


 胸をはずませた先生は、二人の足跡をたどってゆきました。


「花野子。大変だ! こっちへ来てくれ」


 和真先生のただならぬ叫び声に花野子ちゃんはびっくりして駆けつけました。


「なにかありましたか」


「これを見てくれ」


 崩れかけた井戸の縁に見覚えのある刀が立てかけられていました。つかに刻まれた七つ星は素羽鷹家の家紋でした。そして長い縄が井戸の中へ垂れています。


「おおーい。わかさまー」


 二人は井戸の底に向かって呼びかけましたが、応えは返りません。縄を引っ張ると、固い手応えがありましたが、たぐり上げることはできませんでした。


「まさか、この下に?」


 二人は真っ青になりました。すぐさま井戸に降りようとする和真先生の腕を花野子ちゃんがつかみました。


「先生には狭すぎます。俺が行きます」


「いや。しかし、危険だ」


「早くどいてください。若様に何かあったらどうするんですか」


 花野子ちゃんはお母さんのくれた巾着袋を取り出すと、火打ち石をカチカチと打ち合わせて火をおこし、ロウソクを灯して燭台しょくだいに立てました。


 先生はクシャクシャに顔をゆがめて声をしぼりました。


「だめだ! こんな危険なところへ、花野子を行かせるわけにはいかないよ!」


「言ってる場合ですか。この縄の端を持ってて下さい」


 花野子ちゃんは若様が忘れていった縄をつかみます。そして燭台の持ち手を歯で器用にくわえると、シダの葉影に姿を消しました。

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