第3話 治療
ギルドの外はすっかり夜。食堂や飲み屋の窓から漏れる明かりが、暗い夜道を照らす。
黙々と宿を目指して歩いていた私は、酔っ払いの声で賑やかな店の前を通り過ぎたところで、自分の身体の異変に気付いた。
……なんだろう。身体は火照って熱いのに、背中が凍えるように冷たい。それにすごく足が重たく感じる……?
再びぐらりと襲った眩暈に、思わず近くの壁に寄りかかった。
「やばい、ちょっと休憩、しようかな」
そのままの姿勢で、どれくらい時間が過ぎただろう。眩暈をやり過ごしていた私は、なにかがが街灯の明かりを遮ったのに気がついて顔を上げた。
「おい、お前はとんでもない馬鹿野郎だな」
「は……?」
突然の声の主は、さっきギルドで会った怪しいおっさんだった。
「……もしかして、わざわざ文句言うために追いかけてきたの? おっさん、ずいぶんしつこいんだね。それともよほどヒマなの?」
「……そいつはマンマダンゴ蟲だろう? 街中でその蟲の匂いを垂れ流して歩いてたら、どうぞ襲ってくれって言ってるようなもんだぞ。お前、それをわかってんのか?」
「は? 蟲の匂いって、なに言ってんの?」
腕を組み軽蔑したような目で睨んでくるおっさんに、私は顔を顰めた。
だいたい蟲の匂いってなに? 確かにマンマダンゴ蟲が背中に張り付いてたけど……?
「マンマダンゴ蟲は媚薬の原料になる蟲だ。まったく、近頃の親はそんな初歩的なことも子供に教えねえのか」
「び、やく……って、もしかして、あの媚薬?」
「ああ。最近は薄めたやつを娼婦が香水の代わりに使ったりするらしいな。お前、狙ってやってるわけじゃねえんだろう? だが、その匂いを撒き散らして歩いてりゃあどうなるか、いくらお前が馬鹿でも想像つくんじゃねえか?」
マンマダンゴ蟲が媚薬の原料? 娼婦が使う香水?
うそ、そんなこと知らなかった。でも待って、その匂いが私に付いてるってことは、もしかしてさっきギルドでやたらと声をかけられたのも……?
身体がカタカタ震えだすのがわかった。
「発情した男にゃあガキだろうが男だろうが、そんなもん関係ねえんだ。嫌な目に会いたくなけりゃあ、今後は気をつけるこったな」
無言で何度も頷く私に、おっさんは呆れたように大きく溜息を吐いた。
「今頃になってびびってんのか? ったくしょうがねえな。心配しなくても、お前みてえな馬鹿をここで放り出すような真似はしねえよ」
「え……?」
「送ってってやるって言ってんだ。つくづく頭が悪いな」
不機嫌そうに眉を顰める男を前に、私は返す言葉もなく口を噤んだ。
確かに私が本当に馬鹿で迂闊だった。この人の口ぶりからして、冒険者なら誰でも知ってるような初歩的な知識だったに違いない。しかも私はギルドであんなに失礼な態度だったのに、この人はわざわざここまで追いかけてきてくれたんだ。
でも……。
辛辣な言葉に、弱った心がくじけそうになる。
泣きそうになるのを堪えて俯く私に、ますます不機嫌になった男は背を向けて歩き始めた。
「どこへ行きゃあいいんだ。ほら、早くしろ」
「……歌う
「そこがお前の宿か。よしわかった。……で、お前ちゃんと処理の方法は知ってるんだろうな?」
「……処理って?」
なんのことかわからず質問を返すと、前を歩く男はわざわざ振り返ってギロリと睨みつけた。
「お前、まさか自己処理の仕方も知らねえとか言うんじゃねぇだろうな? その蟲の効果を甘く見るな。一晩寝れば抜けるってもんじゃねえぞ?」
「ええと、抜ける……?」
「もうちょっとお前の歳がいってりゃあ、娼館って手もあるんだがな。まあ俺と違ってお前みてえな細い身体じゃあ、女に見向きもされないだろうがよ。ハハハッ」
大声で楽しそうに笑いながら、男は迷路のような細い路地を進んでいく。
やがて通りから奥まった場所に建つ古びた宿、「歌う椋鳥亭」に着いた私達は、カウンターの従業員に軽く挨拶して、脇にある階段を上った。
「ここは昔から変わんねえな。おい部屋は何号室だ」
「……五号室、です」
「ここか。で、お前、これからどうすんだ?」
おっさんは『五』と書かれたプレートのある部屋の前で止まり、腕を組んで私を見下ろした。
「……とりあえず背中が痛いから、まずはそれを治します。あの、名前を教えてもらえますか?」
「俺か? ……俺はアイザックだ」
「アイザックさん、今日は本当にありがとうございました。お礼は後日……」
そう言って頭を下げようとしたところで、視界がぐにゃりと歪んだ。咄嗟になにかに掴まろうと伸ばした手を、大きな手が掴んだ。
「チッ、しょうがねえな。背中が痛いって、お前怪我でもしてんのか?」
「ごめん、なさい……」
「おら、早く鍵を寄越せ」
呆れたような声に言われるままに鍵を渡すと、アイザックさんは片手で私を支えながら扉を開けた。そしてひょいと私を抱き上げ、まっすぐ寝室へ向かった。
「へえ、ずいぶん綺麗にしてんだな。女とでも一緒に暮らしてんのか?」
話しながらアイザックさんはベッドの上に私を降ろし、おもむろにマントに手をかけた。
「おら、そのマントを脱いで背中を見せてみろ。ここまできたら乗りかかった船だ。ついでに怪我を看てやるよ」
「こ、これは、いいです」
私はマントを脱がそうとする手を、慌てて掴んだ。
自分でもわかるくらい身体が変だ。熱っぽくてくらくらするのに寒気がする。正直言って、話してる余裕なんてこれっぽっちもない。
……だけどこれ以上、この人に迷惑をかけたくない。それにこのままだと、私が女だってバレてしまう……私は声を振り絞った。
「……もう、大丈夫です。帰って、ください」
それを聞いたアイザックさんは、怒ったように私を無理やりベッドに押し倒した。そして強引にマントを剥いで────ピタリとその動きを止めた。
「……お前、これ、どうしたんだ」
奇妙な沈黙のあと、大きな手が慎重に背中に触れた。
自分ではどうなっているのかわからないけど、その手はなにかを確かめるみたいに、背中の上を動く。
「……薬草を採ってたら、木の上から蟲が降ってきて、それで……」
「マンマダンゴ蟲に襲われたのか。ポーションは飲んだのか?」
「ううん、持ってないから……」
「そうか。お前、小さいのに偉かったな。一人でよく頑張った」
俯せになった私の頭を、アイザックさんは労うようにぽんぽんと撫でた。
打って変わって優しくなった声と温かい手に、なぜか目頭がつんと熱くなる。
反則だよ。こんなタイミングで優しくされたら、泣きそうになるじゃん……。
みっともない顔を見せたくなかったのに、顔を隠そうとした手がゆっくりアイザックさんに開かれた。
「手も傷だらけじゃねえか。ずいぶん痛かったろう」
「うん……」
「いいか、よく聞け。お前の背中には、蟲の毒針が刺さったままになってる。まずはこいつを抜かなきゃなんねえ。本当なら話もできないほど痛みがあるはずだが、きっと蟲の毒のせいで感覚が鈍ってんだな。お前、気分はどうだ?」
「そういえば……もう痛くないけど、すごく、寒い……」
「チッ、まずいな。ちょっと服を破くぞ。うん? こりゃなんだ? なんでこんなの巻いてんだ? 悪ぃがこれも切るぞ」
私の返事を待たずに布を切る音がして、さらしで絞めていた胸が楽になる。それと同時に、ものすごい眠気が襲ってきた。
「よし、毒針を抜くぞ。痛かったら言え」
「……うん」
アイザックさんの手が、慎重に背中に触れる。もう感覚はよくわからないのに、肌に触れる指の温度だけが伝わってくる。
温かい手はなにかを確かめるように、背中を何度も往復する。そんな動作がしばらく続いたあと、やがて離れていったのがわかった。
「ずいぶん深くまで毒針が刺さってた。よく頑張ったな。痛くねえか?」
「……うん」
「よし、次はこのポーションだ。これで怪我は治るが、ポーションで傷が塞がっても蟲の毒の効果は消えねえんだ。体力が戻れば、今度は媚薬の効果が強く出るかもしれん。……それでもいいな?」
「……ん」
「よし、じゃあとりあえず身体を起こして、これを……」
アイザックさんの手の温もりがなくなった背中が、凍えるように寒い。
近くで聞こえていた声も徐々に遠ざかる。
……私、もう、寝てもいいかな。なんだか、すごく、疲れちゃった……。
「……アイザック、さん、私、眠くて……」
「おい、ちょっと待て、まだ寝るな! 寝るならポーション飲んでからにしろ!」
なぜか焦ったようなアイザックさんの声が聞こえるけど、なにを言ってるのかもうわからない。
緞帳が下がるように、すとんと意識が落ちる。
私は深い眠りに引きずり込まれていった。
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