35 名前で呼びたいんだが
「いやー覗こうとはしてなかったんだけど、たまたまパンの人が屋上に上がるのを見ちゃって」
赤色のメッシュが入った黒髪の少女──向島葵が若干気まずそうに頭を掻く。
勢いで出てきたはいいがその後は何も考えていなかったのだろう。
「ちなみに俺は早坂拓也だからな。このままパンの人っていうのが定着しても嫌だから一応」
「あーそれは悪かったね。まぁ転校してきたばかりだし許してよ。じゃあ今度から拓也って呼ぶね」
向島葵がよろしくと俺に手を差し出すと、若干わざとらしい咳が近くから聞こえた。
その咳の方向に顔を向けると、そこには先程よりもさらに機嫌を悪そうにした椎名えりがいた。
「取り込み中悪いのだけど私にも紹介してくれるかしら?」
椎名えりから放たれた言葉は刺々しく、とても友好的には見えない。
そんな彼女が醸し出す冷たい空気に俺が何も言えずにいると隣にいた向島葵が一歩前に出て手を差し出した。
「私はついこの間転校してきた向島葵。拓也には私が無理やり勉強を見てくれるように頼んだだけで別にあなたの彼氏を取ろうとかじゃないから安心して」
向島葵はいたって普通に笑顔で挨拶するが一方の椎名えりは今まで俺が見たことないくらいに顔を真っ赤にしてフリーズしていた。
「あれ? もしかして彼氏じゃなかった?」
椎名えりがフリーズしてしまったのはもしかしなくても向島葵の言葉が原因。
きっと俺と彼氏彼女の関係に見られてショックを受けてしまったのだろう。
ここは俺が彼女の代わりにビシッと言っておこう。
「向島、俺と椎名がそんな関係なはずないだろ」
「え? でも……あーなるほどそういうこと。ごめんね、空気悪くしちゃったみたいで」
向島葵は何かを言いかけたがすぐさま言葉を引っ込め椎名えりの肩を叩く。
それから彼女は椎名えりの耳元で小さく何かを吹き込んでいるようだったが俺の位置からでは何も聞き取ることが出来なかった。
「あなたには関係ないわ。あまり私達にちょっかい出さないで!」
ようやく復活したと思いきや、いきなり向島葵を怒鳴りつける椎名えり。
そんな彼女に向島葵は少々驚いた様子で彼女から数歩離れる。
「おー怖い怖い、そんなに怒んなくてもいいじゃん。まぁとにかく拓也、これから勉強よろしくね」
そしてそのまま向島葵は屋上の扉から学校内へと戻っていった。
彼女のいきなりの退場に先程まで一体何を二人で話していたのか気になるところだが椎名えりの機嫌的に聞ける雰囲気ではない。
「早坂君……」
いきなり名前を呼ばれ緊張しながらも上擦った声でなんとか返事をする。
先程まで機嫌が悪かった彼女に緊張してしまうのはごく自然なことだ。
それから少しして彼女は視線を地面に向けながらどこか居たたまれなさそうな様子で続きを口にした。
「その……今度から下の名前で呼んでもいいかしら?」
相当恥ずかしいのだろう。
そこにはいつもの無表情な椎名えりではなく顔を赤らめ普段よりも柔らかい表情をした美少女がいた。
普段見せない表情なだけに思わず見とれてしまうが俺はすぐに首を振り正気を取り戻す。
見とれていたことが相手に知られたらなんとなく気まずい。なのでそのことだけは気づかれないよう俺は平常心を取り繕って彼女の言葉に答えた。
「ああ、大丈夫だ」
「じゃあ、た、拓也君……」
彼女の口から発せられる自分の名前に耳がこそばゆくなるのを感じながらも必死に耐える。
ただ名前を呼ばれただけなのだが、普段から呼ばれなれていないせいかとても恥ずかしく感じた。
自分だけこんな思いをするのは理不尽だと思った俺は彼女と同じ提案をする。
「……俺も呼んでいいか?」
「え、ええ……」
言ってから何故こんな提案をしたんだと後悔するも時は既に遅い。
提案したからには恥ずかしがっている場合ではないのだ。
彼女から若干の恥じらいが混ざった視線を向けられる中、俺は目を瞑って精神を統一する。
それから勢いよく目を見開き、その勢いで彼女の名前を口にした。
「えり……」
たった二文字の言葉で込み上げてくるこの恥ずかしさに自分で自分を殴りたくなるがそうしたところで何の解決にもならない。
「はい……」
それに彼女の方もだいぶやられていた。
耳まで赤くなっているので相当恥ずかしいはずである。
まぁこれで一応彼女にも恥ずかしい思いをさせることが出来たのだが俺としては全く勝った気はしなかったし、呼ぶ方も十分に恥ずかしかった。
別に勝負していたわけではないが勝ち負けをつけるとすれば引き分け、というよりも両者敗北といったところだろう。
ともかくどちらも恥ずかしい思いをしたことには変わりない。
「じゃあ、また部活で」
「おう」
それから俺と椎名えりは特に何も会話をすることなく屋上を足早に後にした。
これは早く教室に戻らないとお昼を食べる時間がなくなるからであって別に名前を呼びあったせいで変に意識してしまいお互いの顔が見れなくなったとか、そういう理由では断じてなかった。
◆◆◆
放課後、ガラガラと部室の扉を開ければいつものメンバーに加えてもう一人、合計三人が部室内にいた。
「お邪魔してるよー、拓也!」
そう元気良く俺に挨拶してきたのは向島葵。
何故ここにいるのかは机に広げられた勉強道具を見れば大体予想出来るが今は彼女達にあまり関わりたくはない。
別にそれは勉強を教えたくないからとかではなく、もっと他に関わりたくない理由があった。
「向島さん、そこの問題間違っているわよ」
「向島さんじゃなくて葵ちゃんって呼んでよ。あ、お、い、ほら言ってみて?」
「やる気はあるのかしら? 向島さん」
「また向島さん……そりゃもちろんやる気はあるよ。でも集中出来ないんだよね」
「それはやる気があると言えるのかしらね?」
理由とは椎名えりと向島葵の二人が敵対していること。というより椎名えりが一方的に相手を敵視しているだけなのだが気まずいことには変わりない。まさに水と油であった。
ここで二人の間に挟まれている相坂優を見れば助けを求めるように俺を見ていた。
今まで板挟み状態で苦労したのだろうが残念ながら俺にはその状態を助けてやることは出来ない。
その代わりとして彼女に頑張れと頷きを送れば彼女の顔はげっそりと、まるでこれからこの世の終わりでも迎えるかのような顔をして固まった。
彼女には悪いがそうする他ない。
とにかく今日は部活を出来そうにない、そう判断した俺は彼女達に背を向け部室を出ようとする。
しかしそれは叶わなかった。
椎名えりに声をかけられたからだ。
「拓也君、あなたが引き受けた面倒事でまさか帰るなんてことはしないわよね」
出来れば彼女達に面倒事を押し付けたかったのだがそう簡単にはいかないようである。
それから俺はため息を吐きながらも部室内に設置されているテーブルへと戻った。
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