第三章(3)

 栄太に自覚があって、さらに片田も見抜いていたことだが、A高陸上長距離部のモチベーションは栄太の走りにかかっていた。栄太にスカウトがついていることなど、もちろん知れ渡っていた。彼が練習に精を出すか否かを、周りの部員は探っていた。

 やはり雨の降った後の日だった。週末の練習で、すでにガタが来ていた。右足を地面につくたびに痛みが駆け抜けた。ウォーミングアップの五千メートルでそういった事態だったが、栄太自身は痛みを隠して走り続けていた。むしろ、色々なことを考えずにいられるから、走りに費やす時間は欲しかった。彼のフォームには目に見えて不調が出ていたが、それでも頑張り通す栄太の姿を見て、部員たちはやる気を奮わせていた。しかし、この日は本当に調子が悪く、ぬかるみに足の力を余分に使って一歩ごとに骨を噛まれるような痛みが走る。栄太は顔をしかめて前に進んだ。

「さすがに無理をするな、今日は休みだ」

 片田が厳しい表情で言うので、栄太は反論しようとした。

「まさか大会も近いのに、休むわけにはいかないよ」

「何言ってるんだ。相当ひどいのは丸わかりだぞ。今日だけとは言わない、少し練習の強度を下げよう。右足だろ?」

「……ああ」

「部員のモチベーションとか、そう言うのは気にしなくていい。お前は大会で自分がベストのコンディションを出せるように尽くせ」

「……分かった」

 しぶしぶだが休まざるを得なかった。栄太は高校に来て以来初めて、校舎の一階の隅にある保健室を訪れた。表札として『いつでもウェルカム』というものがかかっていたが、これまで縁があるとは想像もしないところだった。

 ドアをノックしながら、妙な緊張を覚えた。養護教諭の名前も知らないほど、保健室には縁がなかった。

栄太の中でなんとなく、健康ではない人たちがいくところだということで、その一員となったことが悔しかった。

「どうしたの?」

 三十代に乗ったころだと思われる女性教諭が、柔らかい声をかけた。噂には聞いていたが、かなりの美人だった。きりりとした表情と、その声のふわふわした調子のギャップが溜まらないそうだ。栄太には、好みのタイプとも思えなかったが。

 その先生の雰囲気と、学校の中と思えないゆったりした保健室の空気が、逆に緊張感を掻きたてる。

「右足が……痛くて」

「部活で?」

「そう。実は何週間か前からずっと痛いんです」

「なるほどね、ちょっと見せてね」

 先生は心配そうながらも落ち着いた仕草で栄太の足を見た。

「ずっと前から痛いってことは、疲労がたまって何か炎症が起きてるだと思うけど……詳しくはお医者さんに行って見てもらって」

「シンスプリント、じゃないですか」

「そう、そうかもしれないね」

 断定を避けるような先生の言い方が、なんだか煮え切らなかった。栄太は珍しく苛立ちを感じていたのだ。

「先生、はっきり言ってもらいたいんだ……えっと、梅坂先生」

 栄太は

「えみ子先生って呼んで」

 急に強い口調で言われて、栄太は疑問に思った。症状に関しては曖昧なのに、なぜだろう。

「とりあえず、形式上のことで申し訳ないけど、この用紙に名前と症状を書いてね」

 言われるがまま、栄太はペンを持って用紙に記入をしていく。その途中からえみ子先生はずけずけとこちらをのぞき込んできた。

「長谷君、あの陸上の長谷君?」

「あ、はい、陸上部です」

「話は聞いてるよ。エースなんだって?」

 栄太は頭を掻いたが、それはほぼ反射的なものだった。その台詞は言われ慣れていたので、特に栄太の心が高揚することはなかった。そうしてその後、称賛や期待の言葉を受けるのが常だ。

「はい、まあ」

「ふーん……なるほどね。毎日頑張ってるんだね」

 えみ子先生はそれ以上踏み込んでこない。そこで栄太の違和感はほぼ確信となった。この人は、変わっている。どこか常識からずれたところがある。

「柳井ちゃんとはまだ続いているの?」

「えっ、それをなぜ知っているんですか?」

 えみ子先生は鼻を鳴らして、

「柳井ちゃんが二年生の終わりごろ、保健室に通っていたからだよ」

「僕は聞いてないんですけど」

「それはそんなものでしょう。特段報告することでもないもん」

 また一つ、優が栄太が認知する環境の外で動いている事実を知ってしまった。バイトの件と言い、優は一体どこへ向かおうとしているのか、分からないのが不安になった。

「学校、やっぱり来なくなったね、柳井ちゃんは」

 ぽつりとつぶやいたえみ子先生の言葉に、栄太は強烈な衝撃を覚えた。衝撃は直観に代わる。

 ――先生は、知っている。優が、なぜ学校に来ていないのか。

「まあ、それもありよね」

「……もしかして優は、いじめられたりしてたんですか?」

「勿論確認したけど、違うって。私にもそう見えなかったし」

「じゃあなんで」

「私はカウンセラーでも何でもない、ただの養護教諭だけど」

 えみ子先生は言った。

「スクールカウンセラーに教えてもらったんだ、人の話を聞く上で一番大事なことは難だと思う?」

 栄太が話の展開についていけないまま、首をかしげると、

「信用なの。人の悩みを相談してもらう人は、必ず口が堅い人じゃないといけないのよ」

「回りくどい言い方ですけど、つまり僕に教える気はないってことですか」

 朴訥な栄太は、結論を急いで尋ねた。

「まあ、しばらくはそうね」

「しばらくは……?」

「かなり疲れているように見えるからね、長谷くんは。体もそうだけど、心もね」

 はぐらかされているようだが、一瞬、栄太の胸にちくりと刺されたような感覚が生まれた。しかしそれを、痛いところを突かれたというより、思ってもみない話をされた驚きと介した彼は、

「僕の心はそんなにやわじゃないです」

「どうだか。長谷君も自分の悩みに向き合うこと。柳井ちゃんが学校に来ないこと、それだけじゃないよね?」

 やはり、言っている意味が、栄太にはよく分からなかった。優の悩みさえ解消すれば、彼女は学校に来るはずで、そうすれば栄太にとって彼女と触れ合う時間が増える。そうして、彼女がまた自分の手の届くところに戻ってきてくれる。それで円満に解決するはずだった。自分の悩みといわれても、ピンと来ない。

「いえ、分かりません。今のところ、僕の悩みは恋人が学校に来ないことなんですが」

「ふーん……まあ、次までの課題と言ったところね」

「次って、僕ここに通うつもりないんですが……」

「まあ、痛みがひどかったら遊びにおいでよ。表札の通り、いつでもウェルカムだからね」

 結局その後えみ子先生に言われるがまま、えみ子先生が受診するように勧めた整形外科に行った。診断は疲労性骨膜炎――つまりはシンスプリントだった。痛みが引くまで休むように言われていたが当然、言われたとおりにするつもりは栄太にはなかった。

 やはり、優のことを忘れていたかった。その事実から逃げ出したかった。

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