可愛いおじさん講習
きりん後
第一講習
地図を印刷した紙を持ちながら、しばらくの間俺は施設の前で逡巡していた。
この建物で間違いない筈だが、入るのに気が引ける。
周囲を見渡すと、自分と同じような中年男性が何人かいた。建物に入ることを躊躇っていたり、こちらの視線に気が付くと直ぐに目線を逸らす様子から、同じ目的でやって来た人たちだと確信した。
中には挫折して帰ってゆく人もいたが、少しの躊躇もなく建物に入ってゆく俺たちより明らかに年上の男性がいた。こんな年上の先輩参加者がいるのかと勇気付けられ、俺たちは意を決して建物に入った。
俺の脳裏には吉沢さんが浮かんでいた。彼女をものにするとは言わない、少なくとも気に入られる程度にはなりたい。
しかし入ったのはいいものの、受付に人はいなかった。身を乗り出して受付の奥の職員室を見た人の言うには、職員室にも誰にもいなかったそうだ。参考にしようと先程の年上の男性を探したがもう姿がない。代わりにその男性と同じ年くらいの女性が廊下を曲がってこちらに姿を現した。
「すいません、職員の方でしょうか?」
俺たちの中の1人が尋ねたが、「参加者です」と言って去って行った。女性向けの講習があるとは聞いていなかったがどうゆうことだろうと首をかしげていると、俺たちの先頭の人はもう廊下を曲がって建物の散策を始めている。
廊下に沿っていくつもの部屋があった。俺たちはそれを順番に眺めていった。
1つ目の部屋では、講演者らしき若い男が講壇に立ち参加者たちに向けて授業をしている。
2つ目の部屋では、くたびれたスーツとメイクセットが部屋の端に連なって置いてあり、参加者たちが着替えたり化粧したりしている。
3つ目の部屋は、また普通の部屋の作りになっており、参加者たちが横並びになっている。
4つ目の部屋は、会社のオフィスのような作りになっており、若い女性たちが社員の格好をしている。その間で参加者が一人ずつ前に出ているようだ。
それからもずっと部屋が奥まで続いているのだが、俺たちの散策はそこで止まった。
「あ、本日15時からのご予約の皆様でお間違えないでしょうか?」
若い男性職員だ。「そうですが」と少し憮然とした態度で俺たちの内の一人が応える。その気持ちは俺にも分かった。
しかし悪びれた様子もなく、若い男性職員は1つ目の部屋を開けて中の職員の何やら会話をし始めた。「少々お待ちください」という言葉通りにそれから数分経ってようやく1つ目の部屋から参加者が廊下に出て来た。それと同時に、2つ目、3つ目以降の部屋からも人が出て来て、皆一つずつ奥の部屋に移動した。成程、講習は奥の部屋に行く程進んでゆくというシステムか。つまり全ての部屋が渋滞を避ける為にオンタイムで始まり終わらなければいけない。
特に初めての参加者は社会人の常識に乗っ取って早めに到着する。時間丁度に来るように案内するなど、改善すべき点がありそうだと思いながら、しかし無料の講習ということもあり、郷に入っては郷に従えと黙って俺たちは1つ目の部屋に入った。
長テーブルが何列か配置され、それに準じた数の椅子が並べられている、普通の講習所である。
講壇に立った若い職員は自己紹介も早々に、講習を開始した。まず彼は黒板の上部に貼られている、「可愛いおじさんを目指すセミナー」という紙を指さした。
「本日は当セミナーにご参加いただきまして有難う御座います。皆さんには何日間かに渡ってマスコット的な可愛いおじさんになっていただこうと思います」
俺たちは神経を尖らせていたが、若い男性職員に「若い女性にモテる為だけに休日にわざわざ時間を作っている哀れな年配の男たち」という嘲笑の気配は感じられなかった。彼の口調はあくまで淡々としていた。
若い職員は、俺たちの何人かに、「可愛いおじさんとはどうゆう人だと思います?」と聞いた。「丸々としていて、隙があるというか・・・」「子供っぽいところがある人ですかね」と顔を赤らめながら当てられた人は答えた。その傾聴の姿勢にも嗤いを潜めている感じはなかった。ただ彼は事務的に、「成程成程」と合槌を打ちながら黒板に山なりの線を描いた。彼はその山なりの線の底と頂点に横向きの線を引き、その2本の左端に左右を反転させたくの字を書いて左向きの矢印にした。そしてそれぞれに一定間隔で短い縦線を引いた。その一定間隔の短い縦線は目盛りだった。それらに若い職員は右から順番に10、20、30と数字を書いてゆき、最後を80とした。目盛りは30~40辺りが山のてっぺんになるように書いてあった。
彼はそのグラフを元に話始めた。
「確かに印象的にはそうです。しかしもっと深く追求してゆくと、このようなものになります。これは男性が一生の内に培ってゆく社会的能力の線です。このように、男性は30代、40代辺りまで社会的能力を伸ばしてゆき、体力の衰えと共に低下させて行きます。一昔前は、この社会的能力が女性たちにとっての男性の魅力でした」
「現代の女性も社会的能力を求めていると思うのですが」
1人が不服そうな貌で質問したが、若い職員は至って冷静だった。
「確かに元々女性という生き物は本能的には出産し易く、子育てをし易い環境を求める為、それを提供してくれる社会的能力を持った男性に惹かれます。しかし女性の社会進出が進んだ現代、女性は自分だけで環境を整え易くなっており、男性の社会的能力はそこまでの魅力としては彼女たちの目に映らないのです。寧ろ社会に生きる女性はそこでの生活に疲れてしまっている。そこはまだまだ女性の生き辛い男社会で、頭打ちの経済成長による惰性的空気が漂う空間です。社会で疲弊した女性たちにとって『社会的能力』という言葉を聞かせるのは休日に仕事に関する連絡をするようなものです。ですから彼女たちは社会的能力とは別の部分で男性に惹かれるようになっているのです。それが・・・」
若い職員はそこで、山なりの線の山の部分に「社会的能力」と書き、空いた谷の部分を斜線で塗ってそこから伸ばした線の先に、「母性本能をくすぐる可愛げ」と書いた。
「これです。『母性本能をくすぐる可愛げ』。これは社会的能力とは相反する要素です。この二つ要素は『だからこそ』という言葉で関係し合うことができます。例えば想像してみてください。子供時代、社会的能力はない、『だからこそ』母性本能をくすぐる可愛げがあります。社会人になり若手時代、社会的能力はまだそこまでない、『だからこそ』母性本能をくすぐる可愛げが残っている。中堅時代、社会的能力はある、『だからこそ』母性本能をくすぐる可愛げがない。初老時代、体力の衰えと共に社会的能力がなくなってゆく、『だからこそ』」
そこで1人が質問をした。俺と同じように50歳頃から社会的能力が無くなってゆくという一言が納得できなかったようである。
「国会中継に出ているのはほとんどじいさんですけどね」
部屋中に低い笑い声が響いた。その笑いに若い職員は悠々と加わり、
「しかし寝ている国会議員も多くいますよね」
と返した。また笑いが起きたが、皆どこか表情が硬かった。
「いつかは皆明らかに働き盛りではなくなります。階段が辛くなり、酒が弱くなり、書類の文字がぼやけ・・・とにかく全盛期の功績によって、あるいは年功序列によって社会的地位は上がるかも知れませんが、総合すると社会的能力が低下するのは事実です。政治家の才能は体力だとも言いますから高齢でも働ける人もいるのでしょが、誰もが70、80まで働けるわけではありません。とにかく・・・」
若い職員は再び図を指差しなぞった。
「このように社会的能力は山型に、逆に母性本能をくすぐる可愛げは谷型になっています。そして社会での生活に疲れた女性によって、女性が昔から男性に対して抱いていた『可愛い』という、赤ちゃんやおじいちゃん等社会的能力の魅力を感じ得ない年齢層にのみ感じていた気持ちの対象が若い男性、中年男性にも広がって来ているわけです。近年の『おじさん可愛い』という風潮はここに起因しているわけです」
「ということは、若い男の子も可愛いということでしょうか?」
「そうですね、『男の娘』という言葉を聞いたことある方もいらっしゃると思います。一昔前なら女装癖と忌み嫌われた人たちも、現代では『私よりも可愛い!』や『メイク参考にしたい!』等と言われます。女装をしないまでも女性性を持っている若い男性は沢山います。彼等の変化も子孫を残す為の生存戦略といえるかも知れませ
ん」
「ということは我々も?」俺たちは久しく意識していなかった自分の生殖が関係しているらしいと、各々の内に秘めながらも色めき立った。
「確かにそうですが気を付けなければいけません。何故なら先程も申し上げた通り、女性が本来魅力的に感じる社会的能力は男性の男性性の部分であり、母性本能をくすぐる可愛げは男性の男性性を廃した部分ともいえるからです。つまり母性本能をくすぐる可愛げを女性にアピールする際は自分の男性性を隠さなくてはならない。矛盾している表現かも知れませんが、セックスアピールをしないことがセックスアピールとなるのです」
「我々の若い頃とは随分変わっているというか・・・」「ねぇ」「普通に口説いていましたから」「当時はアッシー君とかメッシー君とかねぇ」参加者たちの間にはいつの間にか和気あいあいとした空気が流れている。
「そこで皆さんにはまずこの講習の心構えとして」
職員は黒板に大きく文字を書いた。
「『マスコットのような可愛らしさ』。これを意識してください。照れてしまう気持も分かりますが、着ぐるみを着ている様なイメージでやっていただければと思います。あくまでも男性性は中に隠して、誰からも愛されるようなマスコットをクレバーに演じてください。それでは皆さんで『ヒガムカセ』の合言葉を言いましょう。『ヒガムカセ』とは、女性の母性本能をくすぐる可愛いおじさんの条件五つの頭文字を並べたものです。一つずつ言いますので復唱してください」
職員が黒板に書きながら発した声に俺たちの低い声が続いた。
「ヒ、人当たりが良い!」
「ヒ、人当たりが良い!」
「ガ、ガツガツしない!」
「ガ、ガツガツしない!」
「ム、無邪気!」
「ム、無邪気!」
「カ、可愛らしい見た目!」
「カ、可愛らしい見た目!」
「セ、清潔感がある!」
「セ、清潔感がある!」
「ヒガムカセ!」
「ヒガムカセ!」
「ありがとうございます!」
そう言って職員が拍手すると、参加者は、「ありがとうございます」とワザと要らないところまで復唱して拍手した。部屋には笑いが包まれた。
「少々お待ちください」と言って職員は廊下に顔を出した。他の部屋での講習の進み具合を確認したらしく、「ではご移動ください」と俺たちを2つ目の部屋に案内した。
背後には先程の俺たちと同じように初参加のグループが待機していた。その表情には固いしこりがあり、講習を受けることへの自虐的な気持が含まれていることが分かった。しかし今の俺にはその気持ちはなかった。「生存戦略としてクレバーにマスコットを演じる」という理論がそれを払拭したのである。
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