四
「きょうは煙草吸ってねえし」
「え?」
「なんなら味見してみるか」
僕の口元へ置きにいくように視線を下げ、逢坂先生は顔を近づけてくる。
慌てて僕は言葉を投げた。
「え、遠慮します! それに、もはや煙草は関係ありませんので」
「……ん?」
「断る口実だっただけで、ほんとは、にんにく料理を食べたとき以外は平気なんです」
一瞬、息を呑むような間があって、それから先生は吹き出した。体を折り曲げてまで笑っている。
「わかった。肝に銘ずるわ」
「はっ。て、ていうか。き、肝に銘ずるって」
「んー。まあ、そういう機会もあるかもしんねえじゃん」
「あ、あああありませんよ。そんな機会」
「いま一回あっただろ」
「あれがワンチャンですよ。ワ、ン、チャ、ン!」
むきになって言ったら、また笑われた。からかわれただけなのだと悟る。
逢坂先生はひとしきり笑ったあと、表情を一変させた。
それに気づいた僕は肩をすくめ、ちょっと距離を取る。二、三歩後ずさった。
「お前ね、いい加減にしろよ」
そこまで言われたら、もうお手上げするしかない。
僕は意を決した。
「じつは、生徒たちのあいだでウワサになってるみたいなんです」
「噂?」
「僕と逢坂先生のことが」
予想通り不審げに眉を動かすと、逢坂先生は棚にもたれかかった。腕を組む。
「なに。俺とお前が怪しいってか」
……絶句するしかないのは、仕方のなかったことだと思う。
それでもどうにか気を持ち直し、僕は二の句を継ぐ。
「そ、そこまで露骨には言ってません」
「ちょっとさ、どういうことか始めから話して」
あれだけ言い渋っていた自分はどこへやら。僕は立板に水で、あのウワサを余すことなく喋った。
今度は、逢坂先生が閉口している。
心配になって声をかけると、我に返ったように腕を解いた。
「……あの。なんか、すみません」
「いや、俺こそすまん。あまりに突飛すぎて言葉が出てこなかった」
それから喉の奥で笑う。
「でだな。まず、団地妻うんぬんてところからいろいろ間違ってるだろ」
「え?」
「てか、そんな理由で俺を避けてたのかよ」
「そんな理由……って」
「あのな。言いたいやつには言わせとけ、んなもん。やましいことがねえならなおさらだ」
僕は面食らった。
言葉もまごつく。
「で、でも。それじゃあ、逢坂先生に──」
「迷惑がかかるって言いてえのか。そもそもお前、自分が近寄んなきゃいいって自己完結してんだろ」
「だって……相手が僕だったから。女の人ならまだしも、僕じゃあ……」
「それが迷惑かどうかは俺が決める」
逢坂先生は語気を強めた。
「気にしてほしいとこはそこじゃねえんだよ。一人で先走って勘違いした挙げ句に自己完結だろ。人をさんざん悩ましとくだけ悩ましてさ。これこそ相談しろよ」
僕はただ謝ることしかできなかった。
よかれと思ってやっていた行動が、逆に逢坂先生を悩ませていたんだ。僕がどことなく自分を避けているとわかって……悩んでくれていた。
それがちょっとうれしく思えるのは……やっぱり不謹慎だろうか。
「つうかさ。教師の噂話なんかするほど俺たちに関心持ってねえと思うよ。あいつら。頭にあるのは女の裸ばっか。共学と違って花がねえから、色恋に関しては中坊そのまんまって感じ。勉強半分、エロい妄想半分。ま、それが高校時分てもんだけど」
「え、えろ……」
若いエネルギーを持て余しているやつらだから、実際はそうなのかもしれない。
だけど、もっとこう……オブラートに包むとかできないのかな。このストレートさが逢坂先生の持ち味で、好ましい人ではあるんだけれど。
「さすがにお前だって高校んときはそんな感じだっただろ」
「さ、さすがにってなんですか。いまだってそういう感じかもしれないじゃないですか」
「ほー。意外。その辺、詳しく聞きたいねえ」
絶対に僕をバカにしているような言い草。逢坂先生は薄ら笑みを浮かべ、「ん?」と目でも探ってくる。
「僕のことはいいんですよ。それより、ツバサって、結局だれのことなんですかね」
「カワイコちゃんのツバサな」
含み笑いでかぶせてくれる。
……わかってる。僕だって、団地妻イチコロのくだりより、そこがおかしいってことは。とくに、僕が言うぶんには。
「お前も案外、図々しいよな」
「あのですね。僕は、カワイコちゃんで勘違いしたわけではありません」
「そーね。お前はどっちかっつーと……って。あ、ちょい待って」
と、逢坂先生が携帯を取り出した。開いて、ぽちぽちと始める。
もちろんどうしたのか気になったけど、覗くのも悪いと思って、僕は首を傾げておくだけにした。
「やっぱり。これだ」
逢坂先生はそう言って僕に携帯の画面を見せる。
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