「きょうは煙草吸ってねえし」

「え?」

「なんなら味見してみるか」


 僕の口元へ置きにいくように視線を下げ、逢坂先生は顔を近づけてくる。

 慌てて僕は言葉を投げた。

 

「え、遠慮します! それに、もはや煙草は関係ありませんので」

「……ん?」

「断る口実だっただけで、ほんとは、にんにく料理を食べたとき以外は平気なんです」


 一瞬、息を呑むような間があって、それから先生は吹き出した。体を折り曲げてまで笑っている。


「わかった。肝に銘ずるわ」

「はっ。て、ていうか。き、肝に銘ずるって」

「んー。まあ、そういう機会もあるかもしんねえじゃん」

「あ、あああありませんよ。そんな機会」

「いま一回あっただろ」

「あれがワンチャンですよ。ワ、ン、チャ、ン!」


 むきになって言ったら、また笑われた。からかわれただけなのだと悟る。

 逢坂先生はひとしきり笑ったあと、表情を一変させた。

 それに気づいた僕は肩をすくめ、ちょっと距離を取る。二、三歩後ずさった。


「お前ね、いい加減にしろよ」


 そこまで言われたら、もうお手上げするしかない。

 僕は意を決した。


「じつは、生徒たちのあいだでウワサになってるみたいなんです」

「噂?」

「僕と逢坂先生のことが」


 予想通り不審げに眉を動かすと、逢坂先生は棚にもたれかかった。腕を組む。


「なに。俺とお前が怪しいってか」


 ……絶句するしかないのは、仕方のなかったことだと思う。

 それでもどうにか気を持ち直し、僕は二の句を継ぐ。


「そ、そこまで露骨には言ってません」

「ちょっとさ、どういうことか始めから話して」


 あれだけ言い渋っていた自分はどこへやら。僕は立板に水で、あのウワサを余すことなく喋った。

 今度は、逢坂先生が閉口している。

 心配になって声をかけると、我に返ったように腕を解いた。


「……あの。なんか、すみません」

「いや、俺こそすまん。あまりに突飛すぎて言葉が出てこなかった」


 それから喉の奥で笑う。


「でだな。まず、団地妻うんぬんてところからいろいろ間違ってるだろ」

「え?」

「てか、そんな理由で俺を避けてたのかよ」

「そんな理由……って」

「あのな。言いたいやつには言わせとけ、んなもん。やましいことがねえならなおさらだ」


 僕は面食らった。

 言葉もまごつく。


「で、でも。それじゃあ、逢坂先生に──」

「迷惑がかかるって言いてえのか。そもそもお前、自分が近寄んなきゃいいって自己完結してんだろ」

「だって……相手が僕だったから。女の人ならまだしも、僕じゃあ……」

「それが迷惑かどうかは俺が決める」


 逢坂先生は語気を強めた。


「気にしてほしいとこはそこじゃねえんだよ。一人で先走って勘違いした挙げ句に自己完結だろ。人をさんざん悩ましとくだけ悩ましてさ。これこそ相談しろよ」


 僕はただ謝ることしかできなかった。

 よかれと思ってやっていた行動が、逆に逢坂先生を悩ませていたんだ。僕がどことなく自分を避けているとわかって……悩んでくれていた。

 それがちょっとうれしく思えるのは……やっぱり不謹慎だろうか。


「つうかさ。教師の噂話なんかするほど俺たちに関心持ってねえと思うよ。あいつら。頭にあるのは女の裸ばっか。共学と違って花がねえから、色恋に関しては中坊そのまんまって感じ。勉強半分、エロい妄想半分。ま、それが高校時分てもんだけど」

「え、えろ……」


 若いエネルギーを持て余しているやつらだから、実際はそうなのかもしれない。

 だけど、もっとこう……オブラートに包むとかできないのかな。このストレートさが逢坂先生の持ち味で、好ましい人ではあるんだけれど。


「さすがにお前だって高校んときはそんな感じだっただろ」

「さ、さすがにってなんですか。いまだってそういう感じかもしれないじゃないですか」

「ほー。意外。その辺、詳しく聞きたいねえ」


 絶対に僕をバカにしているような言い草。逢坂先生は薄ら笑みを浮かべ、「ん?」と目でも探ってくる。


「僕のことはいいんですよ。それより、ツバサって、結局だれのことなんですかね」

「カワイコちゃんのツバサな」


 含み笑いでかぶせてくれる。

 ……わかってる。僕だって、団地妻イチコロのくだりより、そこがおかしいってことは。とくに、僕が言うぶんには。


「お前も案外、図々しいよな」

「あのですね。僕は、カワイコちゃんで勘違いしたわけではありません」

「そーね。お前はどっちかっつーと……って。あ、ちょい待って」


 と、逢坂先生が携帯を取り出した。開いて、ぽちぽちと始める。

 もちろんどうしたのか気になったけど、覗くのも悪いと思って、僕は首を傾げておくだけにした。


「やっぱり。これだ」


 逢坂先生はそう言って僕に携帯の画面を見せる。

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