ここは隅にピアノがあって、壁際に椅子と譜面台が重なってあるぐらいしか物はない。目視でフルートのケースがないのを確認できた。

 音楽室の真ん中で僕は項垂れた。僕が施錠を怠ったからフルートが一つ盗まれてしまった……。

 学校のものとはいえ、楽器はどれも高価だ。前にカタログを見せてもらったとき、目玉が飛び出そうになったのを覚えている。

 もし弁償ということになったらどうしよう。僕はそんな蓄えなんかない。日々の生活でいっぱいいっぱいだ。……というより、また大失態をしたから、あしたには僕のデスクはなくなっているかもしれない。

 肩からがっくりきていると、背後で物音がした。

 ……ちょ、ちょっと待てよ。盗まれたとしたら、その犯人は、まだ校内にいるのかもしれない。

 まさか後ろにいる? 刃物とか振りかざしていたらどう対処すればいい?

 項垂れた格好のまま、僕は身を固くした。

 サンダルでもずって歩くような足音がする。

 それに、無遠慮にずかずかやってくるこの感じ……。


「お前、まだこんなとこにいたのか」


 そんな声とともに振り返った僕は、今度はほっとなって、足から力が抜けた。その場にしゃがみ込む。


「なんだ、逢坂先生ですか」

「なんだとは、なんだ。ヒトが心配してやってきたっつうのに」

「え?」


 と僕が見上げると、逢坂先生も「え?」と返してきた。


「あ、いや。こんな時間までなにやってんだってのをよ」


 最後はぶつぶつと呟くように言う。そうして首根っこを掻きながら、逢坂先生は僕の前にしゃがんだ。

 そのとき、あっと思い出した。フルートのことは、なに一つ解決していない。


「先生。……先生には大変お世話になりました」

「は?」

「ラーメン……とっても美味しかったです。教えてくださった居酒屋さんもいいとこばっかで、土屋さんのお店も素敵でした」


 体勢を正座に変え、僕は深々とお辞儀した。


「それなのにほんとにすみません。僕のことは気にせず、このままお帰りください」

「なに言ってんの、お前。意味わかんねえよ」


 勢いよく立ち上がった逢坂先生に腕を掴まれ、僕は無理やり引っ張られた。なんとか立てても、顔は上げられない。


「なんなんだ。一体」

「んー……」

「ああ?」


 あ、としか言ってないのに、ものすごい言葉の威力。

 僕は目だけを上げ、しかし口のほうは固くすぼめる。

 ……フルートのことはいずれバレるんだ。このまま黙り通したって、逢坂先生との関係が悪化するだけだ。

 でも、学校を辞めさせられたら、もとも子もない。


「渡辺?」

「……あの。フルートが、ないんです」

「フルート?」

「はい」


 僕は気を取り直し、となりの準備室へ向かった。後ろをついてきた逢坂先生に、棚の隙間を指さして見せる。


「ここにあるはずのフルートが──」


 僕はそこで言葉を切り、職員室から音楽室へ戻ってきたことを話した。


「だからきっと盗まれたんです。僕のせいなんです。それで、お金がなくて弁償もできないから……。いよいよクビなのかなって」


 逢坂先生は無言で僕を見据え、おもむろに腕を組むとまぶたを閉じた。

 深いしわがまた一つ、また一つと眉間に刻まれていく。やがてなにかに気づいたように、逢坂先生はかっと目を開けた。


「それさ、最初からなかったんだろ」

「え?」

「お前の言い方じゃあ、音楽室に鍵かけてからここへ戻ってくるあいだになくなったみたいに聞こえるけど、そもそも使ったやつが返し忘れて、はなからそこにはなかったんじゃねえの」

「でも、音楽室にはありませんでしたよ」

「だったら、どっかべつのところに置き忘れてるとかさ」


 べつのところと言われて、はっとなった。


「おい」

「パート練習の場所かもしれません」


 いまは暗闇もなんのその。もう廊下を走りながら、準備室の逢坂先生へ向かって叫んだ。

 吹奏楽には、全体練習のほかに、それぞれの楽器の人間が集まって、校舎内で散り散りバラバラになって行う練習もある。

 フルートはたしか、第一校舎の一階奥の教室でやっていた。

 僕はなりふり構わず、長い廊下を再び駆け抜け、目的の教室のドアを開けた。

 ……よかった、まだ戸締まりはされてない。

 充分に目を凝らし、室内を進みながらケースを捜す。

 教卓のすぐ前の机上だった。黒く四角いものがある。

 僕はそれを取り、窓の近くまで持っていってからフタを開けた。さすが高価なだけあって、外からのわずかな明かりも取り込んで輝いていた。

 僕は声を上げ、振り返る。


「ありました! フルー……」


 でも、逢坂先生の姿はなかった。

 ……ええ? なんでいないの?


「あの。逢坂先生?」


 僕はケースのフタを閉め、机にぶつかりながら教室を出た。

 一人だったことがわかった途端、たったいま駆け抜けてきた廊下さえ、その先があるのかどうなのかと怖くなった。

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