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8月11日(Sat)


 滅多に出番のないルージュが久しぶりにメイクポーチの底から救出されて伸び伸びとしている。唇を艶のあるピンクベージュで彩った美夜は鏡に顔を近付けた。

フルメイクは7月に行われた結衣子の結婚式以来。愁に恋人役の依頼を受けたのもちょうどあの日だ。


 昨夜、スマートフォンに届いた愁のメッセージには女子高校生を納得させられる大人の女を演じてくれと書かれていた。


(無茶苦茶なこと言って……。本当に勝手な男)


その勝手な男と会うために精一杯の着飾りをして出掛けようとしている。馬鹿じゃないのかと冷静なもうひとりの自分が美夜の心で吐き捨てた。


 セミロングの髪はストレートのまま。九条が言うにはヘアスタイルの変化は好印象に繋がるらしいが、男に会うために普段はいじらない髪を巻く行為はそれこそ男に媚びるようで気持ちが悪い。


加えて髪をいじる行為にはどうしても理世の顔を思い出してしまう。

dearlyを訪れたあの日、帰り際に美夜の髪を手際よく整えてくれた彼女は今は殺人犯。理世の想い人の藍川店長も昨日逮捕した。


 ──“人を殺せる人種。私達、きっと同類だよ”──


 人間は簡単に罪を犯す。どれだけ善人になったつもりでもゆるされない。

美夜への善意を向けていた理世は悪意の狂気で人を殺した。


理世が美夜の中に自分の面影を見たように美夜もまた、理世の狂気に宿る自分を見つけた。そうなってしまっていたかもしれない、理世はもうひとりの自分だった。


 淡いトーンの暖色のグラデーションが青空の半分を塗ってる。始まった夏の夜のプロローグ。


 オフホワイトの半袖ブラウスに合わせた細身のテーパードパンツの足元はシルバーのアンクルストラップサンダル。

ウエストラインにひと吹きしたアールグレイのコロンの香りが茜色の風に乗って優しく香り、ヒールを鳴らすたびに鈴蘭のピアスが涼やかに揺れた。


 道の途中で浴衣を纏う貴婦人とすれ違った。藤色の浴衣を優雅に着こなす婦人の隣には甚平じんべいを着た白髪の紳士が並び、婦人の手を引いてゆっくり歩いていた。


 今夜は明治神宮外苑の花火大会とお台場海浜公園を打ち上げ場所とする東京花火大会の開催日だ。

東京では7月の隅田川花火大会を筆頭に8月も毎週、どこかの地区で花火が打ち上がっている。同日に二ヶ所の場所で花火大会が行われることも珍しくない。

あの婦人と紳士も、これから始まる花火を見物しに出掛けるのだろう。


 愁との待ち合わせ場所は赤坂氷川公園。ムゲットの入るビルの前を通り、坂を抜けて赤坂氷川公園に面した通りに出た美夜は愁の姿を探す。

手前に花壇が並ぶ階段の下から二段目にサングラスをかけた長身の男がけだるげに立っていた。


視線に気付いた男がサングラスをわずかに持ち上げる。予想通り木崎愁だ。

最初の挨拶は互いにぎこちなく、軽い会釈のみ。どう見ても初めてのデートの待ち合わせをする恋人達だ。


『何?』

「木崎さんのスーツじゃない服は初めて見たなと思って。普通の男の人の服装ですね」


 彼の服装はサマーセーターにワイドパンツ、足元はサンダルを合わせたラフなスタイルだ。

愁は小さく息を漏らして笑っていた。彼の柔らかな笑顔も初めて目にする表情だ。


『あんた俺のこと普通の男だと思ってないよな?』

「普通の男は数回しか会っていない女に恋人役を頼まないかと」

『意外とそんな男だらけかもよ? ……行くか』


 自然と片手を差し出してきた愁に美夜は怪訝に小首を傾げて対応した。まったく噛み合わない彼女の反応に拍子抜けした愁がまた笑っている。

今日の彼はよく笑う。木崎愁という人間の本質がますます不可解になった。


『いきなり恋人らしく振る舞うのも無理あるだろ。手でも繋ぎながら歩けば少しはそれらしく見えてくる』

「……じゃあ……」


差し出された愁の右手に美夜は左手を絡ませた。以前と違う愁との距離感に心臓を鳴らさないようにしても、色恋に不慣れな彼女の心は高鳴ってしまう。


『舞の前では名前は呼び捨てで構わない。敬語もやめてくれよ。彼女に見えるように努力して』

「見えるようにと言われても……」

『美夜』


 以前も電話越しに囁かれた、たった二文字の固有名詞を愁の声で呼ばれただけで心臓が破裂しそうに痛い。


 夕焼け色の赤みが刺す頬をうつむかせて美夜は足元に視線を落とした。

左側に影が伸びている。美夜の影と愁の影が重なり合って焼け付くアスファルトを覆っていた。


赤坂氷川公園から南方向に向けて美夜と愁は足を進める。愁は長い脚をもて余しながら歩幅を美夜に合わせて歩いていた。


「言われた通り、銀座のパティスリーKIKUCHIでケーキ買って来ましたよ。レモンタルトとザッハトルテと苺のミルクレープで良かったんですよね」

『わざわざ銀座まで行かせて悪かったな。うちのワガママ娘は決まった洋菓子屋のケーキしか食べないんだ』


 愁と繋いでいない右手にはパティスリーKIKUCHIの袋を提げている。最初は手土産は必要ないと断られたが自宅を訪問するなら高校生相手であっても礼儀はきちんとしたい。


それに今回は愁の恋人としての訪問になる。愁に好意を寄せる少女は美夜の言動をひとつひとつ細かく審査するだろう。

今後必要となるかもしれない潜入捜査の練習だと思えば、この嘘も少しは気が楽になる。

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