第29話:魔女と風土病
「どうしたんだねハニィ君。そんなに外を眺めて……欲しいものでもあったのかね」
「い、いえ……御座いません」
ジャレイル公国の国鳥、キンイロヌマバシリの尾羽で作られた扇を揺らす男――名をドマンテ・バウロといった――の傍らには、居心地の悪そうに身体を縮こめる少女、ハニィが座っていた。
「それにしてもだ」扇をピシャリと閉じ、ドマンテは気怠そうな表情で言った。
「流石に《賭博の街》というべきか。往来する人間の目は、どれもが輝き、曇っているね」
「……はぁ」
二人を乗せた絢爛豪華な馬車は現在、区内を東に駆け抜けていた。利用客の為に用意された宿泊施設の中でも最上位――《ヴェルヴァの寝床》の最上階に……今晩、二人は同じ部屋を取っていた。
無論、ハニィ自らが望んだ事では無かった。
「ドマンテ様、今日、商談の方は……」
それなんだがね――ドマンテは嬉しそうに笑った。
「延ばしたよ。我々ジャレイル人はめでたい事があった時、仕事から離れなくてはならん」
一瞬だけハニィは表情を曇らせたが、ニコリと笑って「ありがとう御座います」と頭を下げた。瞬時に彼女の手をドマンテは握り、手の甲を何度も撫でた。
「本当にめでたい。ハニィ君のような女性と結ばれて、私はジャレイル一の幸せ者だよ」
「……そ、その事なのですが……」
生唾を飲み込み、ハニィは絞り出すように続けた。
「もう少し……待って頂きたいのですが……」
馬鹿を言っちゃいかんよ……余剰に付いた顎の肉を揺らし、ドマンテが笑った。
「支度金はタンマリ払っただろう。それにだね、勘違いして欲しくないが、何も君の身体を目当てに……なんて話ではないのだ。ハニィ君の精神、そこに惚れた訳なんだね」
そう言う彼の目線は、ハニィの胸元から太股へとゆっくり移動していった。
「君のような女性を傍に置く事で、私の今後の事業は更に明るくなる……そう直感したのだよ。加えて、君の大切な家族は――」
もう、飢える事は無いのだ……。街灯がドマンテの脂ぎった顔面を濡らすように照らした。手を握られたままのハニィは何も言わず、唯俯くだけだった。
「安心しなさい。私の知り合いに医者がいてね――また腕利きなのだ――彼を君の実家に、そうだな、三日に一度は往診に向かわせよう。これで君のお母様も弟妹も、風土病に悩む事は無くなったという訳だ」
次第に馬車の速度が落ちてきた。《ヴェルヴァの寝床》が近付いていた。
「……」
「当然だが、君の家は村一番の大きなものに建て替えよう。私の家でもあるからね。温かい寝具とタップリの食料、種々の衣装に潤沢な薬――ハニィ君、二度と……小さな棺桶に涙を流す事は無いんだ」
ハニィ・フォーは金が必要だった。それも大量に、かつ継続的に……金が欲しかった。
五年前に父親を《
彼女に転機が訪れたのは、今から一年前の事である。
一番下の弟が《紫土病》に罹り、幼い身体を紫色に染め上げて死亡した。この病に効く薬は存在したが、フォー家が買える程に安価ではなかった。身体を震わせ、呼び掛けにも反応しなくなる弟に……ハニィは匙一口でもと粥を食べさせ、身体を拭いてやり、万病を治すとされた神に「この子を治して下さい」と祈った。
彼女が六八度目の祈祷を終えた時、弟は呼吸を止めた。
母親は亡骸を抱いて泣き叫び、残された弟妹は部屋の隅で怯えていた。「次は自分が死ぬのだろう」と。
ハニィは毎日欠かさず捧げていた祈祷を止め、この世で唯一信じられるものは「金銭」である事を見抜いた。それから一ヶ月後、彼女は偶然村に来ていたバクティーヌの関係者に懇願し、特例で従者として働き始めた。
稼いだ給料の大半は実家に送り、客から受け取った心付けは全て弟妹達の為に貯金し、纏まった金でカンダレアの菓子を買い、贈った。
家族の為ならば――ハニィは自らを「商品」とし、換金する覚悟であった。そして……理想的な買い主が今、彼女の手を取り、笑っていた。
「君の故郷はジャレイルとも近い……天というものは、何処かで巡り合わせの準備をしているのだね。そう思わんか、ハニィ君」
ハニィは頷いた。彼の言った巡り合わせとは、善も悪も、裕福も貧乏も幸も不幸も関係が無かった。
なるようになるだけ――全ての運命は定められているのだろうと、最近ハニィは思うようになった。無理に変える必要も無いし、変える事も出来なかった。
「旦那、着きました。天下御免の《ヴェルヴァの寝床》、流石にでっけぇや」
御者の言葉にドマンテは頷き、ハニィの手を引いて馬車を降りた。館内から飛び出して来る係員に荷物を預けながらも、周囲の賭博場を興味深そうに眺めた。
「ふむ、このまま部屋に向かうというのは芸が無いな。ハニィ君、ちょっと遊んでいかんか」
「……畏まりました。遊戯は何をご希望ですか?」
何でも構わん――恭しく扇を開いたドマンテ。
「ほんの余興のつもりだからね。だが……そうだな、簡単なやつが好ましいね」
数秒の間を置き、ハニィは「それならば」と遠くを見やった。
「《ルーレット》はどうでしょう。数字を選ぶだけですから」
「気安い遊戯だな。それにしよう。あー君、私達は《ルーレット》をやりに行くよ、荷物を部屋に運んでおいてくれ」
係員は慇懃に一礼した。馬車が角を曲がるまで頭を下げ続けていたが、一行が見えなくなった瞬間に近くの《通話盤》へ走って行くと、息を弾ませながら交話管を取り、「此方は《ヴェルヴァの寝床》、ヤンズ」と口早に言った。
「警備隊長に繋いで下さい――」
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