16話「川へ向かう水の記憶」

 前進も後進もままならない。


(袋小路だ・・・)


 そう思うと雫の心は曇った。それなのに、目の前にある海や空は変わらず明るく爽やかなまま。


「何なの? 思うだけで花畑は変わるのに、落ち込んでも景色は変わらないのねッ」


 思わず雫の声が尖る。


 死にたくないと思う気持ちが川を渡るキーワードならきっともう遅い。出来ないことをしろと言われても無理だ、もう死んでしまっているのにどうしろというのだ。そう思うと雫の心が苛立つ。


(どうしても川を渡らないといけないの?)


「このままここに居させてくれてもいいのに・・・」


 渡らなくて済むなら気にしなくてもいいのだが。


「でも、渡らなかったら毎晩あの蟲達に追われるのよね・・・」


 雫の言葉に奏汰の表情も曇る。


 噛みつかれれば痛みを感じるだろう。ひと飲みされるならともかく、体を引きちぎられて少しずつ食べられるのは想像するだけでも痛みを感じ恐ろしさが募る。


 雫がぶるっと体を振るわせる横で奏汰がのんきな声で言った。


「あっ、だから蟲が追いかけてくるんじゃない?」

「何? 唐突に」


 明るい声で奏汰が閃きを声に出す。


「あいつらの仕事は人を襲うことじゃなくて、俺達の死にたくないって気持ちを引き出すって事なんだ」


 それは多分、図星。

 渡りたがらない人間を川へ追い込む事と、この事の二つが彼等の使命なのだろうと雫も思う。しかし、奏汰の笑顔を雫と悠斗が真顔で見つめた。


「・・・何?」


「それって、気付いちゃいけないやつじゃないか?」

「・・・そう、だよね」


「え? 何で?」


 溜息混じりに言った悠斗と雫を奏汰がきょとんと見つめ返す。


「サプライズがある事を知っててプレゼントの中身も知ってるのに、心から驚いたり喜んだり出来る?」


 雫の例えに「ああ・・・」と奏汰が肩を落とす。

 演技や表面的な思いではだめだ、心の奥底からそう感じることが必要なのだから。


「そっかぁ・・・」


 キーワードを見つけた喜びに立ち上がった雫は、弾んだ心がしぼみ力も抜けてまた座り込んでしまった。


「でも、何とかしなきゃ。このままじゃ川は渡れないし、蟲に襲われて怖い思いして食べられるだけなんて嫌だよ」


「川って、三途の川のことか?」


 ふいにホームから落ちて死んだ男が会話に割って入る。砂の上にうずくまり俯いたままでぼそりとそう言った。


「渡らないと虫に襲われて食べられるのか?」


 目を落としたまま抑揚のない声で男は質問を続ける。


「きっとお兄さんは大丈夫だと思うよ。ほとんど皆すんなりと渡ってくから」

「死にたくないと思わなかったのか?」


 顔を上げた男の目が答えた奏汰の目を見つめる。


「子供が危ない助けなきゃって思って、それしか考えてなかったし咄嗟だったから」


 笑って頭をかく奏汰。


「え?」


 突然立ち上がった男がいきなり奏汰の胸ぐらを掴んだ。


「ちょっ・・・待って」


 慌てる奏汰を男が力任せに揺する。


「お前らゴチャゴチャうるさいんだよ!」

「な、何だよッ」


 男に気圧され胸ぐらを押されて奏汰が海へ後退していく。


「離せよ!」


 即座に立ち上がった悠斗が男の腕に手をかけた。


「うるさい!」


 思いの外強い力で振り払われて悠斗が尻餅をつく。呆気にとられて見ている雫と悠斗を置いて男が奏汰を海の中に引き込んでいった。


「子供を救うことで頭がいっぱいだった? きれいごと言うな!」


 目を吊り上げた男の勢いは止まらず、そのまま奏汰を海に沈める。


「死ぬわけがないと思ってたんだろ!」


 いったん引き上げられて、


「止め・・・ッ」


 声を上げた奏汰を男が再び沈める。途中になった言葉がごぼごぼと口から溢れ、奏汰は水の中でもがいた。


「平和ボケのガキが!」

「ぷはッ・・・!」


 引き上げられたわずかな時間で肺が膨らまないまま再度奏汰の体が沈んだ。


(・・・苦しい!)


 男の手をまさぐって胸元から剥がそうとしたが上手く行かない。


「死んじまえよ、死ねよ!」


 ぐいぐいと水の中に押し込まれ海面が遠のく。


(この人、本気だ・・・殺される!)


 奏汰はぞっとした。

 伸ばした手を男の顔にかけて押し上げる。しかし、奏汰を掴んだ男の腕はくのじに曲がったまま力を緩めない。


(息が出来ない!!)


 もがく奏汰の口からわずかに残った息が漏れる。


「お前みたいなガキが来る所じゃねえんだよ!!」


 男が顔を水に浸けて腕を伸ばし奏汰を更に深く沈めていった。男のこめかみに血管が浮き上がる。


(息が・・・息が!)


 もがき暴れて水をかく奏汰は、泡立つ水の奥に母の顔が見え隠れするのに気づいた。


(母さん・・・!)


「お兄ちゃん今頃どうしてるかなぁ」


美涼みすず!)


 テーブルを挟んで母親の向かいにちょこんと座る妹の美涼の顔が見える。


「何してるんだろうねぇ・・・」


(母さんッ!)


「天国ってあるのかなぁ? お兄ちゃんひとりぼっち?」

「どうかなぁ・・・、お迎えが来てるかもね」


(ここにいるよ! 美涼! 母さん!)


 他愛もない美涼の言葉に母親の頬を涙が伝った。目も鼻も赤くしながら笑顔を作っている母が痛々しくて奏汰は切なかった。


「お迎えって?」

「お祖父ちゃんやお祖母ちゃんのお父さんやお母さんかな」

「美涼、お祖父ちゃん達のお母さんの顔知らないよ。お兄ちゃんは知ってる?」

「知らないか、知らないねぇ」


 母は涙を拭い、赤い鼻のままで努めて明るく笑ってみせる。


「お母さん、おかず多すぎ」

「ごめん、つい3人分作っちゃって。お兄ちゃん・・・」


 居ないのに・・・と言い掛けて言葉が途切れ、代わりに涙がこぼれた。


(ごめん・・・母さん、ごめん・・・・・・)


 ふたりの目がいつも奏汰の座っていた場所へと向かい、美涼が涙を拭う。

 あの席に奏汰は居た。3人一緒に食事をしてふざけたり喧嘩したりしながらそこに居た。今はそこは空席でからっぽで。


「お兄ちゃんのバカ」


 母より平気そうに見えた美涼の目から涙がこぼれた。


「美涼、そんな事言わないの」


(美涼・・・)


「だって、ずーっと一緒って言ったんだよ!」

「美涼」

「お母さんの帰りが遅い時に美涼どうしたらいいの!?」


 声を震わせて涙をぼろぼろとこぼす美涼がしゃくりあげる。


(美涼!)


「ひとりぼっちだよ! お兄ちゃんが居たから淋しくなかったのに・・・!」


 今すぐに美涼の側へ行って抱きしめたい謝りたい、そう思っても手に触れることすら叶わない。


 絵本を読んだりお馬さんごっこや追いかけっこしたり、二人っきりで過ごした時間が走馬燈のように目の前を過ぎた。今ではそれほどべったりじゃなく、お互いに黙って時を過ごすこともあったが、それでも家の中で一緒にいた。


「ごめんね、美涼」

「お母さんが謝ったってお兄ちゃん帰ってこないよぉ・・・」


 ぼろぼろと涙をこぼす美涼の泣き声が大きくなり、同じように涙で濡れた顔を押しつけて母が抱きしめる。その姿を奏汰は見つめるだけしか出来なかった。


 水をかく手をひたすら動かし続ける。息が出来ない苦しさからか、二人を見ていたいからかすら分からずに。



 帰りたい、戻りたい。

 あの席に座って冗談言い合って笑いながら母さんのご飯が食べたい。


 死にたくない、死にたくなかった!


 生きていたかった!!




 母と美涼の姿にオーバーラップして夜の暗い川が目の前に広がった。こぽこぽと鳴る水音が羊水のそれに変わる。




「早く生まれておいで、待ってるよ」


 何処からともなく遠い日の母の声が聞こえた。お腹の中で聞いた優しく暖かな声。


(母さんに会いたい!)


 優しくなでる母の手、奏汰をのぞき込み抱きしめてくれた母。

 母の腕の中から時間が急速に流れて奏汰の目線の高さが変わり、初めて触れる美涼の小さな手の柔らかさが伝わる。


「お母さんと美涼の事、頼むぞ」


 家を出ていく父の最後の言葉が、頭をなでる父の手が奏汰に触れる。あれからずっと父の空けた席に奏汰は座っていた。


(俺の席、父さんも俺も座らなくなったあの席に・・・)


 戻りたかった。

 帰れなくなるなんて思いもしなかった。いつでも当たり前に戻れる場所だと思っていた。3人で囲むあの場所に戻りたい。


(嫌だ! 死にたくない)


 時間を戻せるならば・・・。でも、きっと同じ場面で同じ事をするだろう。



 ガバッ・・・。


「っはあ! はぁはぁはぁ・・・げほっ」


 奏汰を引き上げた男の手が放れ、奏汰はむせながら海の中で立っていた。


「どうだ、二度目の危機的状況。死にたくないって思えたか?」


 口の端を上げて少しいたずらな顔の男は軽い口調でそう言った。そして、男は奏汰に背を向け海からあがって行き、入れ替わりに雫と悠斗の手が奏汰の腕を取った。


「大丈夫?」


 黙って頷きながら奏汰の目は男を追う。男は草地に腰を下ろして明後日の方向に顔を向けていた。


(俺のために・・・?)


 奏汰の向ける目線の先に雫と悠斗の目も自然と向かった。


「俺・・・、渡れる気がする」

「え?」


 ぽつりと奏汰が言った。



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