5話「川の中の黒き物」

 さわさわと風が草を渡り、人が川面を歩いて遠ざかっていく。


 あの巨大な蛇状の生き物は人を食べたりはしないのだろうか、誰もその存在に気付く様子はなく水面を見つめては笑顔になり苦悩する顔になり一歩一歩と歩いて川を渡って進んでいく。


 雫は気を落ち着かせ再度川に足を向けたが、先ほどと同じように足は水に浸り川面に立つことが出来なかった。


「どうして・・・?」


 みんな当たり前のようにそうしているのに、何故自分だけは同じように出来ないのか。雫は辺りに目をやったが同じように渡れず立ち尽くす人の姿は無かった。


(死んでる自覚がまだ足りないから・・・とか?)


 雫の後から来た人はみな目の前の光景に驚き、それでも次々と川面に足を下ろして歩を進めていく。渡れない雫を置き去りに香織の姿ももう小豆の様に小さくなっていた。


「香織さん、もうあんな遠くに・・・」


 かすかな不安と焦りに心細くなる自分を抱き締めて、雫はただ遠ざかっていく人々を見つめるしかなかった。


(海に戻った方がいいのかな)


 雫がそう思った時だった。


 ズン・・・・・・


 何か重い音がした。そして、


「うわぁあぁーー!」


 叫び声と共に男性が雫の横を通り過ぎて川へ走り込んでいくのを見た。


 何かに追われ恐怖の形相の男は他の死者と同じように川面に立ち驚く。そして、川に目を落とした途端物静かになった。何かを見ているようだ、先に見た蛇の様な生き物を見ているのか。いや、得体の知れない物を見ているような表情ではない。


 その男は何かを呟き真剣な眼差しで川と対話している。


「騙される奴が馬鹿なんだ」


 途切れて聞こえる声の中で、そんなフレーズが雫の耳に届いた。


 全ての言葉は聞こえなくても、彼の醜い形相から伝わるものがあった。誰かを罵倒しあざけり見下していると感じられた。少し前方の川を指さし誰かを非難する声音が聞こえる。


 川を歩く男の目はつり上がり口はひきつって、それでも止まらずしゃべり続ける男の額から角が生えてくるのを見て雫はゾッとした。


 男はなおもしゃべり続ける。

 その目に何が見えているのか、右を指さし左を指さし見えるもの全てに悪態を付いているようだった。そして彼がきびすを返しこちら側へ戻りかけた。


「うっ! ・・・・・・わぁああ!!」


 男が川を数歩戻った直後、突如それは起きた。川面を突き抜けて太い大きな物が男の太股に食らいついたのだ!


「あ!!」


 雫は驚き声を上げて凝視する。


「ぎゃあああああ!!」


 男が川に飲まれた!


 一瞬の間に水面に男の顔が浮かび上がり、必死になって川の上に這い上がる。その男の右足が付け根から消え失せていた。


「うっ、うわぁ。うわ! うわあ!」


 尻を付いたまま川の上を這うように何かから逃げる男の左腕が、水から上がった黒い何かにそぎ取られ男は支えを失って倒れ込んだ。


「痛い痛い! 助けてくれぇーーッ」


 痛みにのたうち回る男から目を背けたり、声を耳にして男の姿を目で追ったりしながら雫は川岸から見続けていた。


(怖い!)


「俺は悪くない! 全部、世の中が悪・・・!」


 男が叫んだ途端に左足ももぎ取られて仰向けに転がる。


「痛たたッ! あっあっっ、を!?」


 泣き叫ぶ男の失った右足がむくむくと生えて元通りになるのを雫は見た。男はその光景に驚き笑い、自分の足をさすって喜んだ。


 喜ぶ男の残された腕に黒く太い何かが食らいつく。


「あああ!!」


 銀河を閉じこめたような深く黒い一対の大きな目が男と対峙していた。


「た、助けてくれぇ!」


 骨の折れる嫌な音と共に腕をもぎ取ったそれが川の中に消える。痛みに苦悶する男の失われた四肢が再び元通りになり、ホッとする彼の足にまたしても食らいつく物の姿が見えた。


 無数の鱗に星空を映し込んだ巨大な龍だった。

 怒りに燃えた瞳がてらてらと光を放っている。男を見下ろす龍の頭に生えた一対の角が天を指していた。


「止めろ、やめろ! 助けてくれッ」


 鋭く尖ったはがねの爪で男を刺し止めて、龍はまた男の足をむしり取った。叫び声を上げ命乞いをする男の四肢が無情にも元に戻っていく。


 無限地獄のようだ・・・・・・。


「助けてくれ。もうしない、助けてくれ」


 たまらず泣きつく男に、龍が男の声で言う。


「泣いて逃げ切ればいい。時間が経てばやつらは忘れるんだ」


「ち! 違う、俺はそんな事ッ・・・・・・!」


 首を振り泣きつく男の顔を龍が川に押しつける。ごぼごぼと泡を吹いて男がバタつき溺れ死にそうになる寸前で龍は手を離した。



 己から逃げることは出来ない



 内蔵を揺さぶるような低く重い声が響き、龍はぬるりと川に戻っていった。


 ただひたすらゾッとして見つめていた雫には、その男のしでかした事が1人や2人を苦しめただけではないのだろうと思えた。


 あの龍の瞳に輝く無数の光が人の数のようだと感じられた。


 川面を見つめる男が両耳を押さえ、時に弁解しながら歩いて行く姿を雫は見ていた。川から何かの声が聞こえるのか、男は頭を振りショックを受けたり後悔しているような表情を見せている。


 三途の川を渡る人々は、みな川面に何かを見ているようだ。声も聞こえているのだろうか。何を見ているのかと川に足を浸け見つめてみたが、雫には何の声も映像も見えはしなかった。




 雫は長い間そこに立ち尽くしていた。


 やがて空が白々と明けていくと霞立ち、霞が消えると共に川は跡形もなく姿を消していた。ただ、そこには何処までも続く草原が彼方まで見えているだけだった。


 朝の黄金の光を受けて雫はとぼとぼと海へと戻って来た。


 辺りを見渡せば、朝露を抱いた草がきらきらと光を放ち幻想的な景色を作り上げている。


「・・・綺麗」


 そう思う雫の目から涙がこぼれた。

 香織はもう居ない。抱きしめてくれる腕も話を聞いてくれる人もいない。三途の川は渡れず生き返ることも出来ない。


「どうしたらいいのよッ!」


 焦燥感にかられた雫はそう叫んで海へ向かって走りだしていた。走ったその勢いで海に飛び込む。

 水をかき一息で潜れるだけ潜り浮き上がっては深みを目指して水をかく。


『雫・・・しずく・・・・・・』


(お母さん!?)


 母親の声が聞こえた。


(もう少し、後少し!)


 必死で手を動かし足で水を蹴る。水をかく手の隙間から母親が見えた。祭壇を前に座り込む彼女の姿が。


『どうして・・・何で?』


 言葉に反して責めるような声ではなかった。


『何を悩んでたの? ・・・ごめんね、相談できるような母親じゃなくて』


(違う! 違うよ、お母さん)


 雫の写真を前にボロボロと泣く母親を見て、雫は胸を掻きむしられる思いだった。


 水をかいた一瞬だけ映像が見える。だから、雫はもがくように必死で水をかいていた。息が続かなくなっては息を継ぎまた潜る事を繰り返す。


『・・・お父さんと、もう会えた?』


 目の前を過ぎる水に母親の想いが乗って雫の心に届く。

 愛する夫を失い我が子同然に仲良く暮らしてきた娘を失って、身を引きちぎられるような彼女の辛さが雫を包む。


(おかあさん・・・父さんにはまだ会えないよぉ・・・)


 切なかった。


『ごめんね、ごめんね』


「お母さん、違うよ。お母さんが謝る事なんてないよ・・・!」


 叫んだその口からごぼごぼと息が抜けていき、たまらず雫は海面へ浮上した。


「ごめんなさい、辛い思いさせるつもりじゃなかったのにッ! 死ぬつもりじゃなかったのに・・・!」


 海面を叩いてもう一度潜ろうとしたが、雫の体力ではじたばたするばかりで潜ることが出来なかった。うつぶせのラッコのように雫はしばらく海の底を見下ろして浮かんでいた。


 潜ることをやめて海から上がった雫を一人の男の人が見ていた。雫はちらりと見やっただけで無視を決め込み草原へとずんずん歩いて行く。


「自殺したの?」


 通り過ぎようとする雫にかけられた男の言葉が癪に障って「違うわよ!」と怒鳴って雫が立ち止まる。


「・・・・・・悪い。つい、癖で」

「どんな癖よッ」


 男が力なく苦笑する。


「学生服見ると見過ごせなくてね・・・。先生してる・・・・・・してた、もんだから」


 彼は自嘲気味にそう言った。

 見たところ先生らしい格好ではなかった。ルームウェアと思えるラフなスタイルで砂浜に膝を抱えて座っている、ショボクレたおじさんだ。


「・・・あなたは?」


 少し棘を収めて雫が問いかける。


「気付いたら、ベランダから飛び降りてた・・・・・・」


 40代半ばくらいだろうか、さらっと下ろした前髪が潮風に揺れていた。中年にしては細身で頬が痩けて疲労困憊といった風情が痛々しい気配を漂わせている。


「子供達に、自殺は駄目だって言ってたくせになぁ・・・・・・」


 かすれた声が切なく風に流されていく。遠く水平線を見つめる横顔が悲しそうでもあり、ほっとしているようにも見えた。




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