第5話 幽霊の肌に触れる
困った。どうしたらよいのか全くわからない。
無事に霊体となった僕の右手を、華子の前に差し出した。これこそ最終目標であった。僕は幽霊の肌に触れたい。幽霊の華子はもう一度人間に触れたい。僕と華子が握手をできればすべての願いが達成され、万事解決、ハッピーエンドのはずであった。
「ちょ、ちょっと待って」
華子に制止された。彼女は両手を自分の胸元あたりでうろうろさせている。僕との間に壁をへだてたいかのように見える。当然握り返してもらえるものと思っていた僕の右手は空気を掴んだ。
「え」
僕は首をかしげる。何を待つ必要があるのかさっぱりわからなかった。考えてもわからなかったので、おもむろに近寄って彼女の手を掴もうとした。
「ひっ」
悲鳴を上げて、華子は壁まで後退した。僕の手は再び空を掴む。
「何を待つんだ?」
僕はやや憤慨して問いかけた。ずっと憧れてきた幽霊の肌がすぐそばにあって、この右手なら触れられるかもしれないのだ。これこそ僕の人生の最終目標と言っても過言ではないのに、ことここに至っておあずけを食らうというのは、僕が犬だったら飼い主の喉笛を噛み千切っていてもおかしくない事態である。
華子は僕の方を見ずに何か考え込んでいる様子である。窓際あたりをふわふわと浮遊している。
「本当にさわれるのかしら……」
「それはやってみなければわからない」
「うん。そうね。そうなのだけど……」
歯切れが悪い。
僕は右手で頭を掻こうとして、透り抜けて自分のこめかみを殴る結果となった。
「さわったあとは、どうすればいいのかしら。あなたはどうするの?」
「さわったあと?」
「目標がなくなってしまうでしょう?」
問われた内容を僕は考えてみる。幽霊の肌に触れたあとの僕の人生は、何もやりたいことがなくなってしまうだろうか。あるいはそうかもしれない。でも別にそれはそれでも構わない。そうしたらまたやりたいことを考えればよいだけである。
「それはそのときに考える」
「あなたはそれでいいかもしれないけど」
「君もそうすればいい」
「成仏してしまうかも」
成仏ときたか。華子は仏教徒なのだろうか。仏教にはくわしくないが僕の知る限り、成仏はよいこととして描写されている物語が多い。この世への未練がなくなるのならそれにこしたことはないと思う。彼女のこの世への未練が「人に触れること」だけだったというのは妙な話だが、生前の事情を知らない僕が判断できることではない。彼女の問題である。
「成仏したくないのか」
「あなたは……?」
「僕は幽霊ではないぞ」
「そうではなくて」
今度は華子が苛立っている。僕には彼女の意図がよくわからない。
「私がいなくなったら、あなたはどうするの?」
僕はようやく理解した。最初からそう言ってくれればよいのだ。つまり彼女は自分のことではなく今後の僕について心配してくれているというわけだ。もしかしたら幽霊に触れられなくなって自暴自棄になった僕は自殺してしまうかもしれない。当然あり得ない話ではない。
「それは君が気にすることではないだろ」
心配はありがたいが、それは一種の皮算用である。まずは触れてみないことには話にならない。とにかく僕は触れてみたくて仕方がない。彼女はさっきから僕の都合ばかりを気にしている。たしかに僕という人物は僕から見ても頼りなくはあるが、ともあれ僕のことは僕が気にすればよい話である。
「そう、だけど」
「僕のことは気にしなくていいから、とにかく握手をしてほしい」
「…………」
「それとも、握手をしたくない理由が他にもある?」
「…………ある」
華子は僕と目を合わせずに肯定した。しゃがみ込んだ姿勢の彼女は、空中でひっくりかえって上下が逆転している。幽霊のスカートは重力に引かれないらしい。その点については諦めて、僕は彼女の意図に思考を巡らせた。
「なるほど。それはたとえば、僕のことが嫌いだから?」
「ちがう。……嫌いじゃない」
「そうか。なら何だろう」
さっぱりわからない。
華子は僕の愚鈍さに腹を立てているらしく、目つきが険しい。
「家に帰って考えてみてはいかが?」
「えぇ……ここまで来てそれは」
「いいから。終わりの儀式をやってちょうだい」
問答無用の様子である。終わりの儀式をやるということは、今度は僕と一緒に来る気はないということだ。これではふりだしに戻ってしまった。最初にここで呼び出したときと同じように、僕は彼女に拒絶され、撤退して、どうにか触れるための対策を考えるというわけだ。前進しているつもりが後退していたのだろうか。
「…………華子さん、華子さん」
「はい」
「少し待っていて。また来るから」
恒例の挨拶を受け、華子の霊体は雲散霧消していく。
僕は右手で頭を掻くつもりが掻けていないので、自分の髪の毛をもみくちゃにしている。
「ちゃんと来てね」
最後に彼女はそう言った。その声は糸のようにか細くて、不安気に聞こえた。
しかし、拒絶したのは彼女の方である。不安になるぐらいなら拒絶しなければよいのだ。
彼女の考えていることが、僕にはさっぱりわからなかった。
翌日である。では再戦しよう。こういうのは考え込んでも仕方がない。
「君が握手を嫌がった理由を考えたので報告する」
「はい。どうぞ」
例のごとく旧校舎の倉庫内で僕らは向かい合う。
「君が生きていた当時の歴史について調べてみた」
「もう違ってそう……」
華子が小声で何か言ったが僕は聞こえなかったことにする。
「君のころは今ほど医療が発達していなかったから、今では治癒可能な病とか、予防可能な病が猛威をふるっていたと思う。たとえば肺結核とかだ。結核については戦後あたりに結核予防法が制定されて、治療法も普及したみたいだけど、君の年代にはまだ完全ではなかったと考えられる。さて、ここで再確認しておきたいのが、君が亡くなったときの状況だ。君はこのボロくて脆そうな倉庫に閉じ込められたと言われているけど、どう考えてもこんな扉は簡単に破壊できる。君の死が実際には事故ではなく自殺だったことは明白だ」
「違うけど……」
「え。いやいや。最後まで聞いて。僕が言いたいのはつまり、君は何かの病気にかかっていたのではないかということだ。それを苦にして自殺に至ったと考えられる。そろそろ最初の疑問に戻ろうか。つまり、君がなぜ握手を嫌がったのかという疑問についてだけど、これは、そもそも君は接触というもの自体が嫌だったのだと思う。生前からね。何故なら病気にかかっていて、感染させてしまうかもしれないからだ。それで接触という行為にトラウマめいた恐怖心がある。だから握手を嫌がった」
最後まで言い終わった僕は、どうだとばかりに両腕を広げて見せた。夜通し考察した結果である。完璧に大正解とまではいかないまでも、正解に限りなく近いはずだ。
華子は僕の大袈裟なジェスチャーに驚いて距離を取ったあと、問う。
「終わり?」
「うん。終わり」
僕は当然そう答える。自信満々である。
「全然違う」
「全然違う?」
「ぜんっぜん違う」
「そうか……全然?」
「全然」
華子は一切譲歩しない。僕は両腕を挙げて降参した。
「じゃあわからん!」
「そもそも自殺なんてしていない。本当に出られなかっただけ」
「えぇ? だってこんなの壊せない人間いるか……?」
「うるさいな。私のころは新品だったの」
「暴れた形跡がなかったみたいだけど」
「無闇に暴れたら怪我するじゃない」
「そりゃ怪我はするけど……」
一般的に考えて死ぬよりは怪我をした方がマシだと思うが、こんなことで言い争っていても意味がない。僕の回答が少しでもかすっていたならまだしも、全然違うとなればもはや手がかりがない。
何か手掛かりがないかと思い、僕は華子を凝視した。彼女は両手をもじもじと捏ねつつ、僕との間にまた盾のように挟んでいる。視線は僕からそらしてきょろきょろと四方を見ている。思うに、これは不安の表れなのだろう。彼女が僕との握手に覚えている不安がどういったものなのか、僕にはさっぱりわからない。こういう場合どうしたらよいのだろう。
僕は姉のことを思い浮かべた。僕にとって姉は社交の模範ではなく反面教師である。考えてみれば僕と姉はつい最近、似たようなシチュエーションで相対していた。今、僕は夢にまで見た「幽霊の肌」に触れようとしている。先日、姉はおそらく夢にも頻繁に見ているだろう「欠損」に触れることになった。そのとき彼女はいたいけな弟の心情を毛ほども考慮せず、ただ欲望のままにむさぼったのであった。あれは本当に気持ちが悪いことであった。ああなってはいけない。そうだった。僕は姉のようになりたくなかったのだ。
僕は「幽霊の肌」に触れるのだから、当然「幽霊」のことを配慮しなければならない。華子がどのような不安を覚えているのか見当がつかないにせよ、せめて真摯に対応するべきである。
「華子さん。聞いてほしい」
落ち着いた声音で話しかける僕に対し、華子は首をかしげて続きをうながした。
「右手を失った件で、僕はずいぶん悩んでいた。これを乗り越えつつあるのは、君に出会えたからだ。姉とも仲直りできたし、学校にまた通えるようにもなった。君のおかげだと思う」
お互いにやや照れている。華子は徐々に近寄ってきている。
「僕も君の役に立ちたい。僕の手の感触なんかが君の求めるものかどうかはわからないが、君が望むことなら当然やる。もし、君が望まないのなら、やめてしまっても構わない」
構わなくない。しかし、ここではこう言っておくべきだと判断した。
「もし、君の中で踏ん切りがつかないことがあって、あと押しを僕ができるのなら教えてほしい。可能な限り力になりたい。どうだろう」
そこまで言い終わった僕は華子の返事を待つことにした。
華子は「うぅう」と小型犬のような声でうなったあと、おずおずと手を差し出した。
握手を求めるときの仕草である。
「いいの?」
「もういいわ。私はただ……」
「ただ?」
「あなたにがっかりされるのが嫌なだけ。変に期待しているようだから」
期待を裏切るのがこわかったということか。言われてみれば意味はわかるけど、僕は姉に対して全くそんなこと思わなかった。察するに社会において女の子は鑑賞の対象とされがちであるから、特有の自意識を持っているのだろう。華子はお嬢であるからなおさら意識が高そうだ。
「君こそがっかりしないでくれよ」
「大丈夫。期待していないから」
僕も右手を差し出した。まだ触れてはいない。
「よし。握手だ」
「どうぞ」
僕の右手が彼女の右手を握った。彼女も握り返す。
つまり僕は、幽霊の肌に触れたのである。
「なるほどね」
「…………」
思った以上に冷たい手であった。そして子供のように小さい。僕はなんとなく金属の細長いドアノブをイメージした。体温を感じないという点をのぞけば、普通の人間の手と何ら変わらないかもしれない。
なるほどね、こういう感触か、と思った。僕は別にがっかりしていない。
こういう感触であることがわかった。ではどうしてこういう感触なのか。いつもこうなのか。華子特有の感触なのか。そのように疑問が広がっていくのが楽しいのである。
華子の方はどんな様子だろうかと顔を見たところ、彼女は顔を伏せていた。
「え。どうした」
「…………うぐっ」
漏れ聞こえたうめき声の調子から、それが涙まじりであることがわかる。
「なんで君が泣くんだ」
「…………懐かっ、しくて」
「ははは。期待しなさすぎたね」
「うるっ、さい」
僕らは手を放す。華子が逃げる前に、僕は彼女の涙をぬぐった。
もちろん僕の右手にはそれができるのである。
「こんなのは、これからいつでもさわれるだろ」
「…………うん」
ぬぐったそばから涙があふれ出てくる。
なるほどね。これが幽霊の涙かと、僕は思ったのであった。
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