涙のしずく

シュート

第1話 手紙の向こう側

 街灯がリズミカルに通りの奥まで続いているのを見て、望月成美はいつも奇妙なほどの安心感を覚える。会社の帰りに駅前の大型スーパーで買い物をしてから、この通い慣れた道を通って自宅マンションに帰った。

 郵便受けを開け、郵便物を取り出す。チラシや広告DMの中に混じって、成美宛の手紙が二通あったが、そのうち一通は文字からして母からのものとすぐにわかった。もう一通は宛名ラベルが貼られた茶封筒だったが、いかにも100円ショップで買ったような安っぽい封筒だったので、どうみても企業から送られてきたものには見えなかった。

-誰からだろう-

 ひとり言をいいながら裏返してみるが、差出人の名前はなかった。

-何これ-

 チラシや広告DMを郵便受けの横にあるゴミ箱に捨て、自分宛ての手紙だけ持ってエレベーターに乗り、5階まで上がる。解放廊下を通って一番奥の501号室に向かう。誰もいない部屋にあがり、ダイニングテーブルの上に買い物袋と自分宛ての手紙を乗せる。まずはジャージに着替え、冷蔵庫まで行ってジュースを取り出す。喉が渇いていたので、コップに注いで一気に飲む。自分宛ての手紙を持ってソファーまで移動してローテーブル上に置く。

 まずは母から届いた封筒を開けると、手紙と展覧会の案内状が入っていた。成美の母は有名な画家だった。手紙には、食事をちゃんとしているかとか、何か必要なものはないかといったことや、暑いから熱中症には気をつけなさいといったことが書かれていた。いつものことである。そして、最後に久しぶりに日本で行われる自分の展覧会について、時間があったら来てねと一言つけ加えられていた。仕事の関係で一年のほとんどを海外で過ごしている母に成美が会える機会は極めて少ない。その後ろめたさがあるのか、母は成美にとにかく甘い。少しだけ母への思いが湧き、懐かしい感情に浸った。

 そして、もう一通。

 なんとなく嫌な予感がしつつ、ハサミで封を切る。中には、便箋が一枚だけ入っていた。そっと便箋を出して広げて見る。

 そこにはパソコンで打たれた日付と一行の文字が並んでいた。

『あなたは来年の今頃にはこの世にはいない 2018年8月25日』

 胸の奥に冷たい水滴が落ち、一瞬思考が停止する。

-いったい誰がこんなものを-

 自分は誰かからも恨みをかうようなことはしていないし、脅しを受けるようなことも何ひとつ思い当たらない。もちろん、自分の預かり知らぬところで恨みをかってしまっていることを完全には否定できないけれど…。少なくとも自分の頭の中に浮かぶことはなかった。

-ひょっとして、誰かと間違われて送られてきたのでは- 

 そう思うと幾分気持ちが落ち着いたが、それでも気味が悪いことに変わりはなかった。

-そうだ。明日彼氏に相談しよう-

 ちょうど翌日今付き合っている彼氏の生島裕二とデートすることになっていた。裕二は成美と同じ会社の経営企画室に勤めているエリート社員だ。成美は総務課なので、部署は違うが、社内合コンで親しくなり、付き合うようになった。小さめの顔に涼しく切れ長の目、筋の通った形の良い鼻、大き過ぎない口をしている裕二はイケメンといえるだろう。でも、成美が一番惹かれたのは、とにかく優しいところだった。

「これって、誰かのいたずらだと思うけど。それにしては質が悪いね」

 デートの帰り、成美のマンションまで送ってくれた裕二に手紙を見せた。

「いたずら?」

「そう思うけど」

「私には脅迫状に思えるんだけど。私、怖い」

「脅迫ねえ。でも、殺害予告とかしているわけじゃないし」

 冷静な口調で言う裕二に腹が立った。

「何よ、その冷たい言い方。私のこと心配じゃないの?」

 突然の激高に戸惑いながらも裕二は成美の手をそっと握って優しく言った。

「ごめん。もちろん心配だよ。君を落ち着かせようと言ったつもりだったんだけど…。すまない。明日一緒に警察へ行って相談しよう」

「うん」

 その日裕二は成美の部屋に泊まり、翌朝出勤前に二人で近くの警察署へ行った。受付の婦人警官に趣旨を説明すると、生活安全課というところへ案内してくれた。3階へ上がると、そこは普通の事務所のように雑然と机が並んでいて、その一角が生活安全課だった。

「まあ、そこに座って」

 待っていたのは、50代の普通のおじさんだった。名前は大谷と名乗ったが、名刺はくれなかった。空いている席の椅子に二人を座らせて面談が始まった。裕二が簡単に経緯を説明し、成美が封筒を出した。

「これなんですけど」

 手紙の文章を確認した大谷は顔色ひとつ変えずに言い放った。

「これはいたずらだね。なんか思い当たる節はないの?」

 ぶっきらぼうな言い方は、あからさまに手紙に関心がないことを示していた。

「ありません」

 成美は自分の声が硬くなっているのに気づく。

「これって、脅迫に当たらないのですか?」

 裕二が成美の思いを代弁してくれた。

「ならないね。どこにも脅し文句は入っていないでしょう」

「でも…」

 成美からすれば、この文章は十分に脅しになっていると思えるのだ。

「ということは、捜査してもらうことはできないということですか?}

 裕二が確認する。

「正直、この手紙だけで警察が動くことはありませんね。申し訳ないんですが、私どもも結構忙しいんでね」

 悪意すら感じられるその言い分に、成美は大谷を睨めつける。

「そうですか…」

 裕二も唇を噛んで悔しそうである。

「とりあえず様子を見たらどうでしょう。もし、この後さらにエスカレートする内容の手紙でも届いたら、その時にまた相談に来てください」

 どうみても忙しそうに見えない大谷だったが、これ以上ここにいても無駄ということはわかった。

「わかりました」

 そう答えたのは、やはり裕二だった。まだ納得できずに座っている成美の手を取って外に出る。

「何で裕二は納得しちゃうのよ」

「納得なんかしてないよ。でも、警察というところは事件性が低いことには関わろうとしないんだよ。だから、成美の気持ちを思うと辛かったけど、あれ以上押し問答しても無駄だと思ったから出てきた。あの警察官の言うように、もう少し様子を見よう。当分の間、僕が君の部屋に泊まって君を守るよ」

「わかった」

 成美はまだ不安だったが、裕二が毎日泊まってくれるのだったら耐えられそうだった。

 幸い、その後、不可解な手紙が届くことはなく、成美の周辺でおかしなことも一切起きなかったので、いつしか成美も裕二も手紙の存在自体忘れかけていた。


 雨のおかげで空気はなまぬるく風も絶えている。身体中の体液が波打っているような気持ち悪さに襲われる。ゾッとするような日常を今日も繰り返す。

 地味な性格の自分は学生時代から目立たぬ存在で、一緒にいるのにまるで空気のように扱われることもあった。OLになった今もさして変わらない。いつも地味な服を着て、化粧けもほとんどなく、おじさんがかけるような黒縁の眼鏡をかけている。それが故に、男性社員には相手にされず、同僚の女性たちからも距離を置かれていた。たまに、そんな自分が寂しいと思うこともなくはないが、自分だけの闇を隠れ蓑の中で抱えるようにして生きているのは案外楽で心地いいのだった。26歳になったのに彼氏もできず、ほぼ会社と自宅を往復する日々を送っている。

 節約生活を送っているので、美容室へ出かけるのも3、4カ月に一回だ。前回行ってからすでに4カ月を過ぎていて、さずがに鬱陶しくなってきたので、久しぶりに行くことにした。席に着いて担当者が来るのを待っていると、

「あら、久しぶりね」

 いつもの担当者ではなく、店のオーナーで店長の宮永美紀が顔を出した。その立ち姿に揺るぎない自信がみなぎっている。陽気でハキハキしているところはサービス業には向いているのかもしれないが、自分には苦手なタイプだった。

「こんにちわ」

 鏡越しに見える美紀に向かって軽く頭を下げながら言う。

「今日、みなみちゃんが急病で休んじゃったのよ。ごめんなさいね」

 松嶋みなみというのが自分の担当者だ。みなみはオーナーとは逆に大人しい人で、客に合わせた接客をしてれる。自分が会話が苦手だとわかってからは、必要な時以外には話しかけないでくれる。それがありがたかったから、この店に通っていると言っても過言ではなかった。

「いえ」

「それで、今日は私が担当しますね」

 心の中では嫌だなと思ったが、店長がやってくれるというのを断ることなどできない。

「よろしくお願いします」

「はい。わかりました」

「で、今日はどうする?」

 みなみだったら何も言わなくても自分の思う通りに仕上げてくれる。だから、『どうする?』などと訊かれたことがない。

「あの~」

 口下手の自分はどう説明したらいいかわからず、口ごもっていると、店長が思いついたように話し出した。

「思い切って、イメチェンしてみない?」

「えっ? イメチェンですか?」

 なんか面倒くさいことになってきたと思う。

「そう。前から思っていたんだけど、あなたって、もともとは美形なんだから、その素材をもっと生かしたほうがいいと思うの」

 褒められているのかもしれないが、その有無を言わせぬ言い方に心がざわつく。

「そうですか…」

「そうよ。だから今日は私に任せて」

「はい…」

 断りたかったのに断れなかった。気の弱い自分は洋服屋に行った時でも、店員に勧められた洋服は、たとえ気にいらなかったとしても買ってしまう。だから、今では服は接客のないスーパーでしか買ったことがない。そんな自分の性格が嫌だったけど、生来のものなのでどうしようもなかった。今回も結局店長の提案を受け入れてしまった。

「それから、これは当然だけど、ヘアセットだけでなくメイクもちゃんとしようね。いつもほとんど化粧していないみたいだけど。じゃないと、イメチェンにならないし」

「はい」

 成美も、この頃には『もうどうにでもなれ』と開き直っていた。肩まであった長めの髪の毛も切られ、外はねパーマのナチュラルボブにされ、化粧もばっちりされると、まったくの別人になった。

「やっぱり、私が見込んだ通りだった。素敵よ。女優さんみたい」

 鏡の中には、自分の知らない自分がいた。しかもそれは、自分が想像していたよりもはるかに美しかった。

「どう?」

 自分の姿に見惚れていて、自分にかけられた言葉だとわかるまでに時間を要した。

「あっ、はい。とっても嬉しいです。ありがとうございます」

「ちょっと、みんな来てよ」

 店長が数人の店舗スタッフに声をかけた。すると、鏡の周りに集まってきて、それぞれに称賛の声をあげた。

「すご~くきれい」

「信じられない」

「どう見ても女優さん」

 そんな声を聞いているうちに、自分の気持ちも変化していることに気づいた。これまでは、とにかく目立たないように、目立たないようにと気を配って生きてきたが、自分の容姿について、このように他人から称賛を受けて生きる道もありなのかなと。

「どうせなら、というか、せっかくきれいになったのだから、お洋服も変えたほうがいいんじゃない?」

 この美容室では、トータルコーディネートを謳い文句にしていて、ヘアセットだけでなく、化粧からファッションコーディネートまでしてくれる。もちろん、別料金だけど。そういう意味では、まんまと乗せられている感はあるけれど、目に見えた成果を見せられて、この際、最後まで任せる気になった。いくらかかるかわからないが、これまでまったくと言ってよいほど無駄遣いをしてこなかったので、貯金はたっぷりあった。今日は高額の現金の持ち合わせはないけれど、カードで支払えば済む。それに、すっかり派手になった今の自分に、今日着て来た洋服は地味過ぎて合わないのも確かだった。

「ぜひお願いします」

 お店専属のスタイリストの前島冴子の運転する車で南青山まで行き、高級ブティックに入る。

「あら、冴子さん。いらっしゃいませ」

 ベテランの店員が冴子の姿を見て、にこやかに声をかけて迎える。その目が自分に移った。一瞬で店員は冴子が店に来た理由を察知したようだ。

「今日はこちらの方の?」

「そう」

「わかりました。どうぞご自由にご覧ください」

「ありがとう」

 店に入ると冴子は仕事モードの顔に変わる。さすがはプロのスタイリストだった。冴子の服選びには迷いがない。どの服も今まで着たことのないものばかりでであったが、そのセンスの良さに驚く。試着をするごとに自分も楽しくなっていった。

「すごく似合うわよ。それに、きれい」

 そんなこと言われ慣れてないので気恥ずかしかったが、嬉しくもあった。結局その日は休日の外出着と、平日会社に行く時に着る服をそれぞれコーディネートしてもらい買い揃えた。かなりの出費になったが、それでも大満足だった。帰りにデパートの化品売り場に寄り、自分がまだ持っていない化粧品や化粧道具も買った。

 自宅に戻って最初にやったことは鏡を見ることだった。ファッションは少しずつ勉強すればいいし、今日冴子さんに連れて行ってもらったお店に行けば店員さんがアドバイスしてくれることにもなっているので心強い。でも、メイクは今日落とさなければならない。だから、その前にしっかり確認し、自分の目に焼き付けておこうと思ったのだ。美容室の店長の美紀がメイクを施しながらやり方を教えてくれたけれど、明日自分の手で再現できなければ、ひと時の夢になってしまう。しっかりと自分の顔を記憶した後、店長から教えてもらったメイク術を思い起こしながらノートに記録した。さらに、ネット上で紹介されているメイク術を検索し、店長に習ったものに近いものを探し出し保存した。そこまで一気にやって、ようやく今日はまだ昼食すら食べていないことに気づく。


 最初の手紙が届いてから半年経ったある日のことだった。その日は久しぶりに大学時代の友人たちとの女子会があった、高揚した気分のままタクシーで帰宅した。だいぶ酔っていたので、そのままエレベーターに乗るつもりだったが、先週、劇団活動をしている友人が公演チケットを送ったと言っていたのを思い出し、郵便受けまで戻る。ダイヤルを回して蓋を開けると、中にめいっぱい入っていた郵便物の一部が下に落ちた。ほとんどが広告DMであることがわかる。だが、その中に、見覚えのある、あの封筒が混じっていた。茶封筒に宛名ラベルが貼られただけの、いかにも怪しげな封筒。血の気が引いていくのが自分でもわかった。胸奥にちりちりとした痛みが走る。目眩で倒れそうになるのを必死に耐え、下に落ちた郵便物を拾い上げる。DM類はその場でゴミ箱に捨て、役所からの手紙とあの手紙だけを持って部屋に帰る。

 とりあえず、ダイニングテーブルの上に手紙を置き、着替える。その最中にもあの手紙のことが頭から離れない。すぐにでも中身を確かめたいという思いと、できればこのまま見たくないという思いが交錯する。

-とにかく落ち着かなければ-

 自分に言い聞かす。すっかり酔いも醒めていたので、冷蔵庫から取り出した缶ビールを持ってソファに座る。プルトップを引き、ビールを一口飲むと、いくらか落ち着いた。リモコンでテレビの電源を入れる。画面ではドラマが流れていて、目は主人公を追っているが何も見ていない。どれほど経ったであろうか、成美は意を決して立ち上がり、ダイニングテーブル上の封筒とハサミを持って再びソファーへ戻る。テレビを消す。とたんに緊張感が増し、手が震える。ハサミで封を切る。前回と同様、一枚の便箋が入っているのが見える。覚悟を決めて、それをそっと取り出して広げる。

『あと半年』

 それだけが書かれていた。だがそれは、成美の気持ちを地獄へ突き落とすほどの効果を持っていた。思わず持っていた手紙を投げ捨てた。白い布に落としたインクのように恐怖が心の中に広がる。

-怖い、怖い、怖い怖い…-

 声にならない声で叫び続けた。送り主が見えない、わからないことが成美の怯えを最大限に増幅させていた。気が狂いそうな意識の中で、やはり成美は裕二に助けを求めた。こういう時、本来ならまずは母に助けを求めるものだとわかっている。しかし、成美の母に限っていえば、こういう時に母は何の役にも立たないということを知っている。芸術家で世間というものからまったく外れてしまっている母に、こういう場合の対応力はない。

 時刻は間もなく午前0時を迎える。逸る気持ちを抑えながら、裕二の携帯番号を鳴らす。呼出音が聞こえるが裕二はなかなか出ない。いつもならこの時間は起きているはずなのに…。よりによって、こんな日に限って寝てしまったのだろうか。次第に苛立ってくる。

「はい」

 やっと出たが、明らかに不機嫌な声だった。

「私。寝てた?」

「ああ。明日朝早いんでね」

 そう言えば、明日朝早くから京都に出張すると聞いていたことを思い出す。

「ごめん」

「それはいいけど。こんな時間にどうしたの。何かあった?」

 いつもの優しい声に戻っていた。その声を聞いた瞬間、成美の張りつめていた緊張が少しほどけた。

「またあの手紙が届いたの」

 電話の向こうで裕二が息を飲んでいるのがわかった。裕二にしても、予想外だったのだろう。

「もう、嫌。私、怖い」

「成美。辛いだろうけど、今度はなんて書いてあったのか教えてくれる?」

 先ほど投げ捨てた手紙を拾い上げる。見たくもなかったが、もう一度広げて読む。

「あと半年」

「ああ」

 裕二にしても自然に出たため息のようなものだったのだろう。だが、成美はもっと違う言葉を期待していた。

「ねえ、裕二。今から私のところへ来て。私、怖くてしょうがないの」

「気持ちはわかるけど、無理を言うなよ。さっきも言った通り、明日出張なんだ」

 裕二はこれまでずっと優しかった。だが、自分が一番裕二に傍にいてほしい今、自分を突き放した。一人の男を知り、そして彼があるとき知らない男になる。

「そう。わかったわ。もういい」

 そう言って電話を切った。本当は泣いてお願いしてでも来てほしかったが、成美の気持ちがそれを許さなかった。まずいと思ったのか、裕二からすぐに電話が入ったが出なかった。その後何度も携帯が鳴るので、電源をオフにする。しんとした部屋の中に一人いると、再び震えが起きた。今この時も誰かがどこかで自分のことを監視しているように思える。窓に近づき、カーテンを少しだけ開けて外を覗くが、そこにはいつもと変わらぬ闇景色があるだけだった。

-相手にしてくれるかわからないけど、明日警察に相談しよう。何かあったら連絡くれと言われていたのだから-

 食器棚から焼酎を取り出す。こうなったら、お酒の力を借りて今晩をやり過ごすしかなかった。いつもは水割りで飲んでいるが、その日はロックで飲んだ。それでも、気が張っているせいかなかなか酔えない。だが、酒の力は甚大だった。次第に酔いが回り、いつの間にか身体の力が抜けて神経の高ぶりが鎮まりかけていた。そんな時、突然チャイムの音が部屋中に響き渡った。あまりの恐怖に耳を押さえ、その場にしゃがみこんだ。

「やめてお願い。許して」 

 自分でも誰に向かって言っているのかわからなかったが、とにかく許してほしかった。それでも止まないチャイムの音。逃げられないとわかった成美は恐る恐るモニターのところへ向かい、誰だか確かめると、そこには裕二の姿が浮かんでいた。

「裕二」

「脅かしちゃったかな。ごめん。でも、来ちゃった」

「うん」

 1階入口のドアを開け、裕二を入れる。部屋へ着いた裕二がドアホーンを鳴らす。ドアを開けると、裕二がやや疲れたような顔をして立っていた。

「入ってもいい?」

 今更帰れと言えるはずもない。

「どうぞ」

 裕二は出張用のバッグを持ってきていた。

「携帯の電源を切られた時はどうしようかと思ったよ」

 部屋に入るなりに裕二が言った。裕二が来てくれたことは嬉しかったけど、さっきの態度を成美はまだ許していない。

「私がなぜ電源を切ったのかわかっているの?」

「わかっているよ。成美が身が縮むほどの恐怖の中にいたのに、僕は自分の出張のことを優先させてしまった」

 ちゃんとわかっていたのだ。

「そうよね」

「本当に悪かったと思っているよ。だから駆けつけた。ごめん」

 こういうところがこの男の優しさだ。さっきまで怒っていた気持ちもどこかへ行ってしまいそうだった。

「それにしても、いきなりチャイムを鳴らされたら怖いじゃない」

「ごめん。でも、連絡しようがなかったんだからしょうがないじゃないか」

「それはそうだね」

「ところで、手紙は?」

「あそこ」 

 ローテーブルの下を指さす。さっきチャイムが鳴った際に驚き、下に落としてしまった。もはや自分の手で触るのもおぞましい。

「あれね」

 裕二が拾い上げる。

「中見ていい?」

「うん」

 裕二が中から手紙を出して文章を確認している。

「う~ん」

 裕二は一言唸っただけだった。当然と言えば当然だけれど、本人ではない裕二に切迫感はないのかもしれない。

「ダメかもしれないけど、明日警察に相談してみようと思うの。何かあったら連絡するように言われてるしね」

「そうだね」

 否定されるかと思ったが否定されなかった。裕二が来てから、少しずつ成美の気持ちは落ち着きを取り戻していた。

「あなたも何か飲む?」

「そうだね。同じものでいいよ」

 成美は裕二の分のコップを持って隣に座る。裕二はそのコップを受け取り、自分で水割りを作った。

「それで、僕からの提案なんだけど」

「提案?」

「明日警察に相談して、彼らが動いてくれればそれに越したことはないんだけど、それはそれとして探偵事務所に相談するというのはどうかな?」

「探偵事務所…」

 思ってもみなかった提案だったが、そういう方法もあるのかもしれないと思う。そこまで自分のことを考えてくれている裕二の優しさが嬉しかった。さっき裕二の優しさを疑がってしまった自分を責める。

「探偵事務所なら、依頼すれば原則どんな案件でも引き受けてくれると思うんだ」

「そうかもね」

「実は、僕の大学時代の友人で探偵事務所の所長をしている人間がいるんだ。彼に頼んだらきっと引き受けてくれると思うし、費用等の面でも相談に乗ってくれると思うんだ。もちろん、費用は全額僕のほうで出すから、成美は心配しないでね」

「ありがとう。でも、そんなことお願いしていいの」

「もちろんだよ。ただ、僕は明日出張に行ってしまうから、帰ってきたら一緒に行こう」

「うん」

 裕二に凭れかかりながら裕二の優しさを噛みしめる。そんな成美の肩を裕二はそっと抱いた。翌日出張という裕二のために、その日は早々にお酒を切り上げ眠りについた。

 翌日の昼休み、成美は警察に電話し大谷を呼び出した。

「はい、大谷です」

 成美は自分が以前相談に行った者だということを説明したが、大谷はまったく覚えていなかった。改めて説明した後、今回の相談の内容を話した。

「ただ期限が書いてあるだけじゃあ、こちらとしても動きようがないですな。きっといたずらだと思うので、あまり気にせんほうがいいですよ」

 予想はしていたが、あまりにひどい答えだった。

「わかりました。ご心配ありがとうございます」

 そう言って、さっさと電話を切った。

-きっといたずらだと思うので、あまり気にせんほうがいいですよ-

 ふざけるな。警察なんてなんの役にも立たない。怒りしか湧いてこなかった。


 翌日の朝、いつもより2時間早く起きた。洗顔のために洗面台の前に立ち鏡を見ると、そこには一昨日までの冴えない自分の顔があった。瓜ざね顔で色白の顔立ちは決して悪くないと自分でも思うのに自信の無さが顔に現われてしまっている。現実を突きつけられたようで、悲しくなる。

 今日から自分は生まれ変わるのだと決意したのだが、昨日の、あの美しい顔を再現できるのか不安だった。

 朝食を軽く済ませ、ドレッサーの前に座る。傍には化粧品、メイク道具の他に、昨日記録した化粧ノートとネットで探して保存したメイク術をすぐに見られるようにノートパソコンも置いてある。

 しかし、いざ自分で初めて見るとうまくいかない。自分でちゃんとメイクするのは、ほぼ初めてなので致し方なかった。何度も何度もやり直していたら、時間はあっという間に過ぎてしまった。結果的に、昨日美容室の店長に施してもらった自分の顔とはほど遠かったが、それでも一昨日までの自分よりは各段にきれいになっていた。いきなり、昨日の顔で出社したら、今までとのギャップがあり過ぎて逆に何を言われるかわからないので、ちょうど良い出来かもしれなかった。昨日高級ブティックで買った通勤用の洋服を着て、姿見で確認する。自分で言うのもおこがましいが、十分にきれいで素敵だった。職場の人たちの反応が楽しみでもあり、怖くもあった。

 一たび部屋を出た瞬間、他人の目が気になった。マンション内で住人とすれ違った時も、駅までの通い慣れた道を歩いていても、駅構内でも、満員電車に乗ってる時でさえも、他人が自分のことを見ているような気がしてずっと緊張していた。完全なる自意識過剰状態であり、本当は誰も自分のことなど気にしていないに違いないのだが…。ようやく会社に到着したころには疲れ切っていた。

「ひょっとして、青井さん?」

 エレベーターの前に立っていた自分の斜め後ろから顔を覗き込むようにして、同僚の大垣沙耶が声をかけてきた。

「ええ」

「どういうこと? びっくりなんだけど」

「ちょっとイメチェンしてみたの」

「いやいやいや」

 そう言って、自分の全身を舐め回すように眺めて、改めて言った。

「イメチェンどころじゃないわよ。まったくの別人。しかも、すんごくきれい」

「ありがとう。でも、みんなに聞かれるの恥ずかしいから、もうそのくらいにしてくれる」

「わかった、わかった。とにかく6階へ行こう」

 私たちの営業推進課は6階の営業部内にあった。廊下を通って、女子更衣室に入る。すると、すでに大方の社員が来ていてそれぞれ始業前の時間を寛いでいた。そんな中に自分が入っていくと、みんな怪訝な顔をして見ている。隣にいた沙耶が立ち止まり、みんなのほうを見て言った。

「さて、皆さん。この子は誰でしょう?」

 その背格好から、みんな何となく予感はしているものの、顔にはハテナマークがついている。

「新人?」

 いつも自分の前の席に座っている水谷春奈が言う。日ごろいかに自分のことを見ていないかがわかる。

「ひょっとしたら、青井さんって言うこと?」

 自分より一つ年上で、営業部の男性社員に一番人気の山形アカリが言う。

「はい、その通り」

 沙耶がまるで司会者のように答える。

「ええー、信じられない」

 みんなに一斉に言われ、どうしていいかわからない。

「整形でもしたの?」

 アカリが不機嫌に言う。自分よりきれいな女はいらないのである。

「整形なんかはしてないわ。イメチェンしただけよ」

「確かに顔をいじった感はないわね」

 自分の隣の席の仲間真由美がじっと顔を見ながら言う。

「でも、ズルイよね。これまでひた隠しにしていて、突然これだもの。営業部の男どもの注目を集めちゃうんじゃない」

「そんなつもりなんかないです」

「あなたがそう思っていても、男って所詮は顔で選ぶ生き物よ。なんかやだなあ。おかげで私たちの影が薄くなっちゃうじゃない」

「そうだ、そうだ」

 みんなでいじってくるが、結構おもしろがっているのがわかる。自分が想像していたより、同僚の反応は悪くなかった。とりあえず、同僚に認められたことで、第一段階はクリアできた。

 その後、始業時間になり、自分の席に着くと、今度は男性社員たちの視線が自分に注がれているのがわかった。

「ほら、早速男どもが見てるわよ」

 真由美が顔をパソコンに向けたまま言う。確かに男性社員たちがちらちらと自分のことを見ているのがわかる。昨日まで見向きもしなかったくせに。真由美の言ったように、所詮、男なんて見た目で判断する生き物なのかもしれないと思う。落ち着かない気持ちのまま、あっという間に一日が終わった。


 裕二の大学時代の友人がやっているという探偵事務所は、渋谷の雑居ビルの中にあった。

狭い階段を上ると菅野探偵事務所と書かれた鉄製のドアが目に入った。お世辞にもきれいとは言えないそのドアを目にして、ここで大丈夫なのだろうかと成美は思う。もちろん口には出さなかったけれど。

 ドアを開けると、案外中は広いのに驚く。受付の女性に応接室に案内されて待っていると、一人の男性が現れた。裕二と同級生というのだから28歳のはずだが、妙に落ち着いていて老けて見える。

「やあ、久しぶり」

 裕二が立って出迎えたので、仕方なく成美も立ち上がる。

「4年ぶりくらいか」

 そう言いながら二人は握手している。きっと、大学時代仲が良かったのだろう。

「そうだな」

「まあ、とにかく座って」

 そう言われて裕二と成美は改めて座り直す。

「こちらが、今俺が付き合っている望月成美さん」

 自分と話す時は、自分のことを『僕』って言うくせに。男友達と一緒にいる時は、『俺』って言うのだろうか。なんだか、裕二の違う面を見た気がする。

「どうも、初めまして。この事務所の所長をしている菅野忠雄と言います」

 名刺入れから取り出した名刺を成美に渡しながら言う。顔はにこやかだが、職業柄か鋭い目が成美のことを観察しているようで委縮する。

「今回の被害者でもあるわけなんだ」

 そう言った後、裕二のほうからこれまでの経緯をかいつまんで話す。

「なるほど。それで、その手紙というのは?」

 促された成美がバッグから二通の手紙を菅野の前に出す。

「こちらが最初に届いたもので、こちらが二通目です」

「そうですか。じゃあ拝見しますね」

 順番に二通の手紙に目を通した後、菅野は裕二と成美の顔を見て、気の毒そうに言った。

「この内容だと警察は動かないでしょうね」

「やっぱりそうか」

「犯罪の可能性を読み取れないですからね」

 なんでそう思うのだろう。成美には納得できなかった。

「そうかもしれないですけど、私にとっては十分怖いです」

「もちろん、お気持ちはわかりますが…」

 断られてはまずいと思ったのか、裕二が菅野の言葉が終わる前に話し出していた。

「それで、無理なお願いだとは思うんだけど、菅野の事務所で調査してくれないだろうか?」

「もちろん、依頼されればできるだけのことはしますよ。ですが、正直難しい案件だと思ってほしい」

「わかった。それでもお願いしたい」 

「お前がそこまで言うなら引き受けるよ」

「ありがとう」

「ただ、二週間と期限を切ってやったらどうかと思う。いたずらに長期間やっても、うちが儲かるだけになるし」

 そう言って、ニヤリと笑う菅野。おもしろくもなんともない冗談に成美は苛立つ。

「そんなこと言うなよ」

「軽い冗談だよ。でも、もし何かあればそのくらいの期間の中で何かつかめるはずだ。何か事実が浮かび上がったら延長して突き止めればいいと思う」

「なるほど。わかった」

 成美は二人の会話になんとなく違和感を覚えた。本当は事前に二人で打ち合わせをして『二週間でやる』という結論を出していて、それを納得させるために下手な芝居をしたのではないか。そんな気がしたが、費用は全額裕二が持つと言ってくれていたので、何も言えない。

「望月さんはどうです?」

「それでお願いします」

「了解しました。では後で契約書を交わすとして、調査をスタートするに当たって望月さんにお訊きしたいことがあります。よろしいでしょうか?」

「はい」

「望月さんは、この手紙の差出人に思い当たる人はいないとおっしゃいましたが、自分では思ってもみない人に恨みをかってしまっていたり、すでに過去のことになっているはずのことがまだ続いていたり、一見良好な関係を築けていると思っている人の中に、実は不快な思いを抱いている人がいたりするものです。そんなことに思い当たる節はありませんか」

 そんなこと言われたら、怖くて人と関係を作ることなどできないと思う。それに、自分では知らずに相手が感じていることなどわかりようがないのだから。

「そんなのわかりません」

「そんな人が周りにいると思いたくないのもわかります。でも、こういう手紙が届いたという事実がある限り、そうした人が周りにいるかもしれないと思った上で調査する必要があるんです」

「成美、菅野の言う通りだと思うよ」

「そこで、望月さんにお願いです。この3、4年の間に仕事とプライベートで望月さんの周りにいた人、あるいは関係を持った人の中で、比較的密着度の濃い人をその関係性とともにリストアップしていただけませんか?」

 言っていることはわかるけど、『比較的密着度の濃い人』というのをどう判断すればいいのかが難しいと成美は思う。

「密着度の濃い人ってどう判断すればいいかわからないし、どこまで範囲を広げればいいかわからない」

 菅野ではなく、裕二に向かって尋ねたが、裕二ではなく菅野が答えた。

「すみません。私の表現がわかりにくかったですかね。要するに、望月さんが直接関係した人や、関係は薄くても望月さんの影響を受けたと思われる人のすべてです。後者のほうは、望月さんの感覚で選んで構いません。私どもは、望月さんがリストアップしてくれた人を、プロの目で選別して作戦を練りますから」

「わかりました」

「もちろん、今ここでということではなく、お帰りになって十分考えてからで結構です。リストアップできましたら、私の事務所にメールで送ってください」

「はい」

 考えて見れば、自分はそれほど友達が多いほうでもないし、外に出る仕事でもないので、仕事上関わってきた人もさほど多くない。だから、リストアップにそれほど悩む必要はないのかもしれない。

 菅野の事務所を出た後、近くの店で夕食を済ませ、裕二に自宅マンションまで送ってもらう。部屋で独りになると、どことない不安が押し寄せてくるが、先ほど菅野に言われたリストアップに取り掛かる。3、4年前から順に当時を思い出しながら自分が関係した人物を頭に浮かべていく。すると、忘れてしまっていたけれど、自分にとって案外濃密な関わりのあった人や、ごく短期間だけど深い関係のあった人や、些細なことから付き合いが遠のいた友人の姿などが頭に浮かぶ。もちろん、2人いる元カレもその中に入る。菅野は何も言わなかったけれど、裕二もリストアップの中に入れるべきなのだろう。万、万が一にも裕二が犯人だとは思わないけれど。

 2時間かけてリストアップを済ませ、改めて見つめて見る。この中に自分にあの手紙を送りつけて来た犯人がいるのだろうか? 誰も犯人ではないという思いと、誰もが犯人であり得るという思いが交錯し、ゾッとする。

 リストアップしたものはその日のうちにパソコンから菅野の事務所に送っておいた。翌日、菅野から電話があり、早速取り掛かるとのことだった。どうなるかはわからないけれど、かすかな期待を持つことにした。

 それからの二週間は落ち着かない気持ちのまま過ごした。しかし、その間、成美の周りでおかしなこととか不審なことは何も起こらなかった。あの手紙の送り主は、成美が不安な気持ちで過ごしていることを楽しんでいるだけなのだろうか。

 結果が出たというので、再び裕二と二人で菅野の事務所へ行く。

「どうだった?」

 裕二が成美の気持ちを代弁するように、開口一番に訊いた。

「まあまあ、そう焦らずに」

 菅野が苦笑しながら言う。

「早く知りたいよね」

 裕二が成美を見て言う。

「そうね」

「わかった。では、報告を始めます」

 そう言って、調査報告書と書かれたファイルを裕二と成美の前に一通ずつ置いて説明を始めた。

「ます最初に結論を言えば、望月さんに今回リストアップしていただいた方の中に犯人と思われる人物はいませんでした」

「そうですか…」

 ある程度予想していた結果ではあった。調査に取り組む前に難しいと言われてもいたし。だが、成美の気持ちは複雑だった。今回の結果は、あの人たちの中に犯人がいなかったという安心感をもたらしてくれたと同時に、他のどこかに犯人がいることを示したことにもなり、余計に不安になった。その人は、成美のまったく想像もつかない人物である可能性があるのだ。

「詳しくは、その報告書を見てもらえればわかりますが、リストアップしていただいた人物について、それぞれの方法で調査しました。中でも私どもが気になる人物については、実際に行動追跡もしましたが怪しい動きはみられませんでした。それから、望月さんの住むマンション近くで張り込み調査もしましたが、望月さんの郵便受けに怪しい人物が近づくこともありませんでした」

「わかった。ありがとう。それで、これからどうしたらいいと思う?」

「もちろん、今回の調査でリストアップしていただいた方々が100%シロと結論づけたわけではありません。何せ、手紙は犯人が自宅内で書いて、というか自身のパソコンで打っているものですから、そこを確かめなければ答えは出ませんが、私どもにその権限はありません」

「わかります」

「そうした前提の上で、もしさらに調査をしたいというのであれば、行動追跡を継続するか、調査対象者の範囲を広げるかです」

「なるほど」

「ただし、それには当然費用もかかることですし、お二人で相談されて結論をご連絡ください」

「わかりました」

 若者たちで賑わう渋谷の道を駅に向かって歩きながら、成美はなんとも気持ちのやり場がなかった。隣に並んで歩いている裕二が無言なのも気に入らない。だが、一人になるのも嫌だった。

「この後、どうしようか。どこかで食事でもする?」

「うん」

 あまり食欲はなかったけれど、このまま帰るのも辛かった。駅近くのビルの7階にある日本食レストランに入った。裕二は落ち込んでいる成美を励まそうとでも思ったか、妙に明るく振舞う。だが、不自然に調査のことには触れない。

「調査打ち切りでいいよ」

 裕二が言ってほしいことを言った。先ほど、菅野が話すのを聞きながら、調査報告書をパラパラと捲ってわかったのは、かなり念入りな調査をしてくれたということだった。つまり、ここまでですでに多額の費用を裕二が払っている。

「本当にいいの?」

 そう言う裕二の顔に安堵の表情が浮かんでいるのを成美は見逃さなかった。もちろん、自分のために多額の調査費用を使ってくれた裕二を責めることなどできないとわかってはいるけれど…。

「費用のことだったら心配はいらないんだぞ」

 成美の調査打ち切りの意思が固いとわかった上で言った言葉だ。

「そんなわけにいくわけないじゃん。これまでかかった費用も分割で返すから」

「何を言うんだよ」

「もういいよ。その話は止めにしよう」

 成美の言葉に裕二は怒りの表情を浮かべたまま黙ってしまった。結局その日は会話も弾まぬまま駅前で別れた。裕二も成美を送ると言わなかった。この日を境に二人の関係には微妙なヒビが入ったように思う。

 自宅のマンションに戻り一人になって見ると、この後どうしたらいいのかわからなくなる。結局、何も解決していないと同然だったからだ。だが、裕二にこれ以上負担を強いることはできない。頼るとしたら、残るは母しかいない。でも、自分とは性格もまったく違うし、芸術の世界で生きているせいか、世間とはかけ離れた感覚の持ち主の母に言って、自分が感じている恐怖だったり不安を理解してもらえるだろうか。話しても結局徒労感が増すだけのような気もする。さんざん悩んだが、あまり期待せずに電話してみることにした。

「もしもし、ママ?」

「あら、成美。珍しいわね。あなたのほうから電話なんて」

「ママ、今どこにいるんだっけ?」

「中国よ。こつちの仕事が終わったら、日本に帰るわよ」

 先日送られてきた3か月後に日本で行われる展覧会の案内状のことを思い出した。

「ああ、そうだった。でも、どうせ、あの男と一緒にでしょう」

 母はマネージャーをしている10歳年下の男と付き合っている。

「あの男って言うのは止めなさい」

「だって、あの男じゃない」

「もうそろそろ成美も大人になったら」

「どういう意味よ」

 言い争いをしながら、自分はこんなことをするために電話したのではないことを思い出す。成美は母のことが嫌いではない。普通のOLに過ぎない成美が結構贅沢な暮らしができているのも母のおかげであり、そのことに感謝もしている。だけど、うまくやっていけない。いざ会話を始めると、どうでもいいことですぐに喧嘩になってしまう。

「ママの気持ちもわかる年齢になっているでしょうっていうこと」

「そんなの、年齢なんて関係ないわよ」

「わかったわよ。まあいいわ。それで、何か話があるんじゃないの?」

 そうだったが、しょっぱなから喧嘩をしてしまったため、相談するという気持ちになっていない。

「そうだけど…」

「何よ、はっきりしないわね。日本に帰ってからでいいのなら、その時にじっくり聞いてあげるけど」

「それじゃあ遅い」

「それじゃあ遅いって、いったい何があったのよ?」

「実はね…」

 すべてを話した。

「ふ~ん。そんなの気にすることないわよ」

 やはり母などに話さなければ良かったと後悔した。

「なんで、そんなに軽く言えるのよ。私は、怖くて、不安でしょうがないのよ」

 怒りと悲しみでいっぱいになり、声が尖ってしまった。

「ごめん。いつも成美を一人きりにしているママが悪いわね」

「そんなこと言ってるわけじゃない」

 ママなりの理解の仕方なのだろうけど、成美にはピント外れのような気がする。

「わかった。調査費用は全額ママが出すから、調査を継続して。それに、彼氏に出してもらった分もすぐに返しなさい。ママがその分も全額出すから」

 やはりこの人はわかっていない。調査継続にかかる費用を出してくれるのはありがたいけれど、裕二が出してくれた分をつき返すようなことをしたら、裕二の厚意に水を差すようなことになるということがわかっていない。あの日以来裕二との関係がギクシャクして、最近は連絡さえ途絶え気味だというのに、調査費用をつき返すと言えばさらに関係を悪化させてしまう。なんだかんだと言って、まだ成美は裕二のことが好きだった。

「彼氏に出してもらつた分は私が分割で返すって約束したから」

「じゃあ、そういうことにすればいいわ。ママが成美に全額送金するから」

 結果的には望み通りになった。

「ありがとう、ママ」

「それより、今大丈夫なの。もしあれだったら、成美を警護する人間を派遣してもらおうか?」

 そんなことしたら、どれだけお金がかかるか。金銭感覚も世間とズレている。それだけ稼いでいるということの証左でもあるけれど。

「今のところ、それはいいわ」

 全面的に断るのではなく、『今のところ』としたところは成美のずるさである。現段階では手紙以外に成美の周りに不審なことは起きていないが、先はわからないからである。

「あっ、そう。とにかく日本に帰ったら成美のところに行くから」

「うん、わかった」

 娘のことを心配して来てくれるという母の申し出を断ることなどできなかったが、正直面倒くさいと思う。母も変わっているが、娘もそれに輪をかけて変わっているのだ。翌日、菅野の事務所に電話して相談し、さらに二週間調査を継続してもらうことにした。そして、調査対象者も数人増やした。


 小さな町にあふれるすべての音がまるで幻のように遠くで聞こえる夕方だった。悲しくても生きている間は前に進まなくちゃいけない。

 変身した初日が終わった。一日がいつもよりひどく長く感じたのは、やはりへんに意識していたからだろう。帰宅したとたん、ドッと疲れが出た。今まで影のような存在だった自分が、いきなり表舞台に立ったようなものだから当然である。みんなに『きれい』と言われたことは、やはり心地よかったけれど、おもしろいと思ったのは、変身したたことで、同僚の中での縦横の関係や位置が微妙に変化したことだ。

 みんな表立って口には出さないけれど、それぞれがそれぞれの基準で同僚の格付けをしているのを知っている。そういうのが煩わしくて、敢えて自分をその外側に置いていたのだけれど、変身したことで、否応なしに仲間入りしてしまった。どうせ仲間入りしたのなら、格付け上位を目指すことにする。

 そのためには、とにもかくにもメイク術やファッションセンスを今より数段高め、もっともっときれいにならなければならないと思う。しかし、その一方で自分の心根はまったく変わっていないことを知っている。また変えるつもりもない。卑屈でねじ曲がった心は、歪な見方しかできず、他人のことや世間のことは一切信用していないし、他人を受け入れるつもりもさらさらない。まるで深い海の底を泳ぐ魚のような、暗く空虚な目をした自分が好きだから。

 コンビニで買って帰った弁当をレンジで温めて食べると、いったんメイクを落とす。少し落ち着いたところで、美容室のオーナー伝授のメイクノートと録画画像を見ながらメイクの練習に励む。そんな日を続けていくことで、外面だけはどんどん美しくなっていった。だが、自分がきれいになっていけばいくほど、同僚たちの自分を見る目が冷たくなっていくのがわかった。ほんの一時距離が縮まったように思えた時もあったが、今ではまた以前のようにみんなよそよそしい。しかし、それは自分が願っていたことなので、痛くも痒くもなかった。私にとって世界はいつだって遠い。

 ただ、そうした中で、男たちは自分を放ってはおかなかった。営業部の男性社員はもとより、他部署の男性社員たちも何かと理由をつけては自分の顔を見にきた。当然、あちこちから誘いの声がかかった。だが、それらの一切に乗らなかった。自分はそんな目的のために変身したのではなかったから。

 半年後のある日、その男が会社のビルから出てくるのを待った。この一か月、探偵なみに男の行動を調べることで、だいたいの行動パターンはわかっていた。今日は、会社の近くにあるジムに行く日である。

「すみません」

 前を歩く男に、後ろから声をかける。

「はい?」

 振り向いた男と目が合う。男が自分の値踏みをしているのが、その目の動きでわかった。

「ゴールドジムの会員の方ですよね」

「そうですけど…」

 まだ怪訝そうな顔をしている。

「私も会員なんですよ。時々ジム内でお目にかかる方でしたので、思わず声をかけてしまいました」

 安心したのか、それとも声をかけてきたのが若い女だったからか、顔が緩む。

「そうでしたか。実は僕、これから行くところなんですけど、あなたもですか?」

「そうです、そうです」

「じゃあ、一緒に行きましょう」

「ええ」

 男の横に並んで歩く。

「私、青井雅美って言うんですけど、あなたは?」

「僕ですか。僕は生島裕二と言います」

 偽名でも使うかと思ったが、ちゃんと本名を名乗った。

「同じジム仲間ということで、よろしくお願いします」

 積極的な女を演じるのも案外楽しい。

「いやあ、こちらこそ。お会いしたばかりで畏れおいんですけど、ジム終わりに軽く食事でもいかがですか? 実は近くにおしゃれなスペインバルを見つけちゃったんですよね。まだ行ったことないんですけどね」

 早速ナンパしてきた。この女なら誘いに乗ると読んだのであろう。

「そんなにスッと言われたら、思わず頷いちゃうわよね。きっと遊び慣れているんでしょうね」

「それは誤解です。青井さんがあまりに素敵だったので、どうしてもお誘いしたくなったからです。今日を逃すと二度とチャンスは訪れないような気がして」

「口がうまいのね。でも、ご一緒させていただくことにしますわ」

「ありがとう」

 ちょうどその時、ジムの入っているビルに到着した。

「あっ、着きましたね」

 トレーニング終了後の待ち合わせ場所を決めて、それぞれの更衣室に別れた。生島が連れて行ってくれた店は、初めて会ったばかりの女を連れて行くにはハードルの高い隠れ家的なお店だった。

「素敵なお店ですね」

「雅美さんにお似合いかと思って」

 さりげなく、名前で呼んできたところは、この男のスマートさを示す。

「まあ」

「とにかく奥に行きましょう」 

 ウエイターが来る前に、さっさと奥へと向かう生島。

「このお店初めてってさっきおっしゃってましたけど、ほんと?」

「ほんとですよ」

「どうかなあ。本当は、彼女と来てるんじゃないですか?」

「彼女?」

「ええ」

「残念ながら、今彼女はいないんですよね」

「ふ~ん」

「疑ってます?」

「そういうわけではないけど…」

「1年前くらいに別れてます」

 ちょっと複雑な顔をした。

「そうですか」

「雅美さんは?」

「私? 私はどうでしょう」

「それはズルイな」

「いませんよ、いたら、生島さんのような危険な香りのする人の誘いには乗らないですよ」

「危険な香り、ですか」

「そう。危ない、危ない」

「やめてくださいよ。そんなことないですから」

「ところで、生島さんって、三丸商事にお勤めなんですよね。あのビルから出ていらっしゃったということは?」

「ああ、そうです。自己紹介が遅れてしまいましたけど、僕、こういう者です」

 そう言って、雅美に名刺を渡した。そこには株式会社三丸商事・経営企画室係長となっていた。

「へえー、三丸商事の経営企画室って言うことはエリートじゃないですか」

「いやいや、そんなことないですよ。ごく平凡なサラリーマンです」

「ご謙遜を」

「いえ。謙遜でもなんでもないです。で、雅美さんは?」

「私は生島さんと違って、小さな建設会社に勤めています。一応、名刺をお渡ししましょうか?」

「ぜひ、お願いします」

「わかりました。改めまして、私こういう者です」

 名刺入れから一枚名刺を取り出し、生島に渡す。名刺を一瞥した生島が言った。

「小さいなんておっしゃいましたけど、田村建設さんって土木部門では有名な会社じゃないですか」

 さすがは一流会社の社員。雅美の勤める田村建設は、決して大手の企業ではないが、土木部門では有名な中堅企業であった。

「さすがですね。うちのような会社のことまでご存知なんて」

「いえいえ。そんなことより、もっと雅美さんのことが知りたいです」

「そのためには、まず生島さんのほうからお話してもらわないと。でも、お互いあんまり知り過ぎないほうがときめくんじゃないですか?」

「なるほど。そうかもしれませんね。では、詳しいことはお互いおいおい話すことにして、今日のところは出会えたことの奇跡に感謝して、美味しいものを食べて、楽しく飲むことにしましょうか」

「賛成。たたし、食べ過ぎには注意。せっかくジムに行ったのが台無しになっちゃますからね」

「う~ん。それはそうですね。雅美さんって、楽しい方ですね。それに気が合いそう」

 当たり前だ。雅美のほうが生島に合わせているのだから。

「そうかしら…」

「そう思いません?」

「そうかもね」

 まずはスペインビールのクルスカンポで乾杯し、料理は店員おススメの生ハム・チョリソ盛り合わせとイベリコ豚の香草焼きを頼んだ。その後は、生島が選んだ赤ワインのムッソテンプラリーにしたのだが、初めてという割には慣れた感じがした。

「雅美さんって、どんなタイプの男性が好きなんですか?」

「そうですね、私はカッコつけない人が好きです。男の人って、とかくカッコつけたがるじゃないですか。でも、そんなのどうせすぐバレますよね。だから、最初からそういうことを気にせず、素を見せてくれる人」

「ああ、なるほどね。でも、素を見せるって、できそうでできないですよ。今この場にいる僕だって、素かというと、違う部分が出ていると思うし」

「そうでしょうね。というか、生島さんって、何年付き合っても素を見せないタイプのような気がするんですけど」

「う~ん。そんなことないと自分では思っていますけど…。だいいち、そんなこと言われたら、最初から僕は雅美さんの対象外になっちゃうじゃないですか」

「私が言ったのはあくまでも理想です。それに、好きになるというのは、もっと感覚的なことなので、実際にはまったく逆のタイプの人に惹かれちゃったりします」

「今のは経験談ですか?」

「まあ、そんなところです」

 本当のところ、雅美には恋愛経験など無いに等しかった。今回、生島にアプローチするに当たって恋愛本を読みまくり、恋愛映画のDVDを数多く借りて見た知識を基に体当たりで実践しているに過ぎない。しかし、ここまでは自分でも意外なほどうまくいっている。

「外面的にはどうです?」

 生島が試すように訊いてくる。

「外面ですか。私、こう見えて面食いなんです」

「面食いかあ」

「だから、俳優の町村慎吾がタイプです」

 個性派俳優で、演技力には定評があるものの、顔はイケメンとはほど遠い。敢えて、その名を出した。

「うふ。それはギャグ?」

「さあ、どうでしょう。ただのイケメンには興味がないという部分では本当です。顔なんて、その人の一部に過ぎませんから。でも、生島さんって、相手の女性の外面にこだわるんじゃないですか・」

 女にわざわざ外面について訊いてくるということ自体、外面にこだわっている証拠だ。同時に自分の外面に自信を持っていることも示している。雅美のもっとも嫌いなタイプだった。

「僕がですか? そんなふうに見えます?」

「ちょっとね。というか、これまでも見た目の美しい人ばかりと付き合ってきたように思えたから」

「どうなんだろう。自分では外面だけを基準に女性と付き合ってきたつもりはないんですけどね」

「結果的に美人だったと。じゃあ、私がものすごいブスだったとしても、今日こうして一緒に食事しています」

「いじわるだなあ」

「質問に答えられないのですね」

「参ったなあ。もう勘弁してくださいよ」

「ごめんなさいね。私、ひねくれたところがあるんです」

「認めちゃった」

「はい。だって、事実ですから。きっと、生島さんに嫌われちゃいますよね」

「それはないです。誤解しないで聞いてほしいんですけど、僕これまでも結構こじらせ女子と付き合ってきましたし」

「へえー、そうなんですか。意外」

「どうやら、僕が好きになるのは一筋縄ではいかないような女性らしいんです」

「そう。だったら、私にも望みがあるっていうことかしら」

「さっき、会社の前で声をかけられた時から一目惚れでした」

「あら、偶然。私と同じだわ」

「もう。僕完全に雅美さんの虜になっちゃったじゃないですか」

「ダメ、ダメ。早すぎます。私って案外怖い女かもしれなくてよ」

「怖いもの見たさという言葉があります」

「うふ。チャレンジャーなんですね。じゃあ、確かめて見ますか?」

「望むところです」

「わかったわ。でも、後悔しないでね」

 そう言って、雅美は隣に座る生島の太ももに手を置いた。すると、生島は雅美の腰に手を回してきた。二人はともにカウンターの中のボーイを目で追っているが、全神経を相手の手の動きに集中していた。しばらくの間、二人はその感触を楽しんでいたが、やがて生島が雅美の耳に口を近づけて囁いた。

「出ようか」


 裕二との関係は悪化の一途をたどっていた。裕二のほうからは、あの後も何回か電話やメールが入っていたが、成美はずっと無視していた。同じ会社に勤めてはいるものの、裕二の働く経営企画室は8階で、成美のいる総務課は3階にあるため、出くわすことはまずない。

 成美は裕二に対して怒ってはいたけれど、もちろん嫌いになったわけではない。だが、成美はこうした時に意固地になってしまう。自分でも悪いくせだと自覚しているが、なかなか治らない。手紙のことが何も解決していない上に、彼氏ともうまくいかず、成美は悶々とした日々を送っていた。何かがちぐはぐになり、世界は色を失っていた。

「ねえ、成美」

「何?」

 総務課の同僚で仲のいい畑中恵と、会社の近くのレストランで昼食を採っている。

「ちょっとおもしろい情報があるんだけど」

 職場の情報通、なかでも恋愛情報通で知られる恵の得意げな顔がある。

「へえー、最近の話?」

「もちろんよ。超新鮮なネタ」

 成美自身は、そういう噂話には興味がなかったが、恵の話に合わせる。

「ふ~ん。どんなの?」

「最近、経営企画室に専務の娘がコネ入社したの知ってる?」

「知らない」

「他の会社で働いていたらしいんだけど、うちに移ってきたの。すっごい美人っていう噂」

「そう」

 それがどうしたというのだろう。成美にとっては所詮他人事だ。だが、恵の次の言葉で、成美は突然自分が当事者になったことを知る。

「それでね、経営企画室のプリンスの生島君が早速アプローチして、今いい感じらしいのよ」

 足下に地面がないような頼りなさに襲われる。裕二は、経営企画室内では一番のイケメンぶりでリンスとあだ名されている。恵は成美が裕二と付き合っていることを知らない。というか、会社の人間はみんな二人が付き合っていることは知らないはずだ。社内恋愛が禁止されているわけではないけれど、余計な嫉妬を受けるのが面倒で、二人は自分たちの付き合いが知られないよう細心の注意を払っていた。

「ええー、ほんと?」

 本当のことだと思いたくないという気持ちが強く、思わず声が上ずった。

「かなり固い情報よ」

「そう…」

 今度はため息のような声とともにぎゅっと体を丸く縮めた。自分たちがこんな状況にあることをいいことに、裕二は新しい女にアプローチしたのだろうか。しかも、相手が専務の娘ということが、すごく不快だった。

「あれっ、どうしたの成美。ため息なんかついちゃって。ひょっとして成美もあのプリンス狙ってた?」

「ううん。専務の娘と知ってアプローチするなんて、いやらしい男だなあと思って」

「何言ってるの成美。逆玉に乗れるかもしれないんだよ。そりゃあ、自分にも可能性があると思えばアプローチするのが当然だよ。プリンスだし、可能性大なんだから」

「なんか、私は嫌」

「だから、あんたの問題じゃないんだから」

 もし、裕二がそんな考えで自分との関係を捨て、その女にアプローチしたのだとしたら、絶対許せない。熱情の炎が吹きあがる。真偽のほどを確かめなければならない。3日ほど悩んだが、成美のほうから裕二に電話することにした。何回かのコールの後、裕二が出た。

「珍しいですね。何かご用ですか?」

 他人行儀な言い方にカチンとくる。

「何よ、その言い方」

「何度も何度も連絡して無視されたんですよ。もう終わりにしてくれということかと思っても当然でしょう」

 裕二の言っていることは間違っていない。もともとは裕二が自分に対してひどい態度をとったせいだけど、その後の自分の対応は全面的に裕二を拒絶するものになっていた。

「ごめん。私が悪かった」

 成美がすぐに謝るとは裕二も思ってなかったのだろう。声が柔らかくなった。

「なんで電話に出てくれなかったの。謝ろうと思ったのに」

「本当にごめんなさい。意固地になっちゃったの」

「わかった。もういいよ。もともと、僕のほうに非があったんだから」

「ねえ、一度会わない。ちょっと訊きたいこともあるし」

「訊きたいこと?」

「そう」

「それって何?」

「だから、それは会って話すよ」

「わかった」

 日曜日の午後二時。三軒茶屋の喫茶店で成美が待っていると、裕二が時間ぴったりに入って来た。入口で店内を見渡し、サングラスをしている成美を見つけ、やや硬い表情のまま近づいてきた。

「お待たせ」

「久しぶりね」

「そうだね。でも、なんでサングラスなんかしているの?」

「本当は覆面でもつけたい心境だけど、それはできないから、せめてサングラスをしてるんじゃない。サングラスで顔を隠せるわけじゃないけど、気持ちの問題よ」

 本当はそれだけでなく、これから専務の娘のことを裕二に問い詰める時、自分の感情を読み取られたくないという思いもあった。

「なるほどね」

「なるほどねって、私が日々どういう思いで過ごしていると思ってるの」

「それはわかっているつもりだよ…」

 眉間にしわよせながら言う。

「ウソ。いつまでも怯えていて、会っても暗い話しかしない私に愛想をつかしたのよね」

「何でそうなるかなあ。僕の気持ちは今も変わらないよ」

「そんな言葉で騙されないわよ」

「騙されない? 僕は君を騙したことなんてないよ」

「だったら、専務の娘といい感じになっているというのはどういうことよ」

 不意打ちを食らったかのように、裕二は一瞬沈黙した。

「私にバレないとでも思ったの?」

 裕二は、先ほどまでまっすぐ成美を見つめていた視線を下に向け、反吐を吐くかのような押し殺した声で言った。

「まったくの誤解だ」

「誤解? 笑わせないで。もう職場で大きな噂にもなっているのよ。逆玉で羨ましいとも言われてるらしいけど」

 裕二は明らかに戸惑いを見せていたが、まだこの時には余裕があるように見えた。

「本当に誤解なんだよ。説明させてほしい」

「いいわよ。どうぞ」

「専務の娘さんがうちの部署に配属が決まった時、専務からじきじきに、その指導役を頼まれたんだ。断ることなんかできないじゃないか」

「そんなの、何の説明にもなっていない」

「話は最後まで聞いてくれよ」

「わかりました。どうぞ」

「彼女、前の会社では受付の仕事しかしてなかったみたいで、事務のイロハも知らなかったんだ。だから、一から丁寧に指導していった。その姿を見て勘違いした人がいたんだと思う」

「勘違い? 女の勘を甘くみないほうがいいわよ。二人が手を繋いで、あなたが初めて私とのデートの時に連れて行ってくれたスペインバルに入るところを見た人がいるのよ」

 スペインバルに二人で入ったということについては確証はなかった。単なる噂かもしれなかったのだ。だが、目の前の裕二が一瞬で青ざめたことで、それが事実であることを証明してしまった。

「そんなあ…」

「私が日々苦しんでいるというのに、よくそんなことができるわね」

 悔しいのか悲しいのか。それとも両方なのか、涙が流れ出した。裕二には説明なんかではなく、もっと、もっと強く、ただ否定してほしかった。

「泣くなよ」

 もう裕二の言葉は入ってこなかった。

「もういい」

 成美は伝票を掴んで、逃げるようにその場を後にした。

 ひょっとして、裕二が自分のことを追ってくるのではないか。どこかで追ってきてほしいという思いがあった。少なくとも、以前の裕二だったら間違いなく追ってきた。だが、自分の後ろに自分を追う人の気配は感じられない。こんな形で自分たちの恋は終わってしまうのだろうか。再び涙が零れそうになるのを必死で堪え、大通りまで速足で歩く。タクシーで自宅までたどり着いた時には、自分の体が頼りないほどに弱っていた。

 バッグをソファーに投げ、服を着たままベッドに倒れ込み、目を瞑った。裕二のことも、あの手紙のことも、何も考えたくなかった。こうして、ひたすらじっと耐えてさえいれば、ずべてのことが白紙に戻っていたらどんなにいいだろうと思う。だが、現実は非情だった。あの後、裕二から電話の一本も、メールの一つも届いていない。すなわち、裕二と専務の娘との関係は事実であることを示している。とたんに、生きる意味を見失った気がした。それでも、成美が生き続けた理由は憎悪の感情が突き動かしていたからだ。


 夜が静かに風に吸い込まれていった。

 シティホテルの17階までエレベーターで上がり、部屋の前に立ったところで生島は雅美のほうを見た。その顔には『覚悟はできている?』と書いてある。今さらと思うが、無言で頷く。

 部屋に入り、持ち物をテーブルに置く。嫌でも大きなダブルベッドが目に入る。雅美はバスルームに入り洗面所で軽く化粧直しをして部屋に戻る。待ち受けていた生島が我慢できないという顔をして雅美を引き寄せ抱きしめた。あまりの力に息が苦しい。身体を少し離した生島が雅美の唇に自分の唇を押し付けた。雅美の体の奥の芯の部分が少し溶けるように感じた。やがて、生島の舌が雅美の口の中に入り、激しいキスは長く続いた。ようやく口を離した生島が、両手で雅美の顔を挟むようにしながら囁いた。

「好きだ」

「私もよ。でも…」

「でも何?」

 雅美の目の中を覗き込むようにして言った。

「性急過ぎるわ」

「そうだね。ごめん。気持ちが高ぶってしまって」

「嬉しいけど、夜は始まったばかりよ。私は逃げないないから、もっとゆっくり楽しみましょう」

 そう言って、生島の手を取って、窓際のソファーまで連れて行く。男はその気になった時、身体もすぐに反応し、その欲望を抑えきれなくなるものだとわかっていたが、敢えてそうした。

「雅美さんの言うとおりだね」

「雅美さんじゃなくて、雅美と言って」

「いいの?」

「だって、さんづけじゃあまりにもムードがないじゃない、裕二」

 雅美も名前だけで呼んだ。これも雅美の戦略だ。

「なんかゾクゾクするよ、雅美」

 雅美にとっても案外悪くない感覚だった。

「私も。ねえ、裕二。お酒飲まない?」

「いいね。何する」

 そう言って、裕二が冷蔵庫を開け、中を確かめている。

「何があるの?」

「何でもあるよ。つまみは外の自販機で買ってもいいし、ルームサービスを使ってもいいし」

「そうね。じゃあ、ウィスキーの水割りがいいわ」

「わかった」

 生島がウィスキーと氷の入ったタンブラーを持ってテーブルの上に置いた。グラスは雅美が準備した。

「つまみはどうする?」

「裕二に任せるから自販機で何か買ってきて」

「了解」

 母親からお使いを頼まれた子供のように嬉しそうな顔をして部屋を出て行った。その隙に雅美は生島の鞄の中を調べる。今後役に立つかもしれないと、無造作に入っていた会社の書類や本人の免許証など可能な限りを素早く携帯で写真を撮った。

「お待たせ」

 柿の種やいかの燻製など、恐らく自販機にあった全種類のつまみを買ってきた。

「ありがとう」

 生島の作ってくれた水割りを飲みながら、会話を始める。

「雅美の黒目って大きくて人を吸い込んでしまいそうなほど深い色をしているね」

 雅美の目の色を確かめるようにしながら生島が言う。

「そうかもね。事実、これまでも何人かの男を吸い込んできたわ」

「ほおー」

「そういう裕二も、なかなかのプレイボーイに見えるけど、これまでどれくらいの女を弄んできたの?」

「それは誤解だよ。こう見えて女性には一途なんだから」

「一途? 冗談でしょ。一途を演じるというのが正しいんじゃなくて」

「参ったな。雅美には敵わないよ」

 そんな他愛もない会話を続け、さんざん生島を焦らした。

「じゃあ、私シャワー浴びてきていい?」

 生島の雅美を見る目が獣のように輝いた。

「いいよ」

 雅美がシャワーから出て、交代で生島がバスルームに消える。生島の使うシャワーの音を聞きながら、雅美は部屋の電気を消す。窓のカーテンを少しだけ開けると、月明かりが差し込む。外を見ると、街全体が熱の幕にすっぽり包まれている。バスルームから出てきた生島が電気が消えていることに気づき、点けようとする。

『そのままにして』

 裕二が窓際に立っている雅美のところまで歩み寄り、身に纏っていたホテルのガウンの前を開いた。何も身につけていない雅美に、生島が息をのんでいるのがわかる。

「美しい」

 そう言った生島が雅美を抱きしめたままベッドへと倒れ込んだ。もう会話は不要だった。二人は、その日初めて出会った者同士とは思えないほど激しいセックスに溺れた。

 翌朝、まだ生島が寝ているうちに雅美はそっと部屋を出て自宅へ戻った。生島の心の中に雅美のことを鮮明に刻印することには成功したと思う。生島はベッドで目を覚ました時、雅美のつけていた香水の残り香に心を焦がすはずだ。後は生島が雅美の仕掛けた罠に深くはまってくれるまで待つだけだった。

 案の定、翌日から生島からのラブコールが頻繁に届くようになった。だが、雅美はしばらくの間それを無視した。生島の気持ちをさらに惹きつけるために妥協は禁物だった。一か月後、雅美のほうから電話した。

「何度も連絡いただいたみたいなのにごめんなさい」

「どうしたの。心配してたんだよ」

「本当にごめんなさい。ちょっと言えない理由があって連絡できなかったの」

「言えない理由?」

「そう。いつか話せる時がくるかもしれないし、一生話せないかもしれない」

「そんなこと言われたら余計気になっちゃうじゃない」

「ごめんね。どちらにしろ、今は話せないの。そんなことより、また会いたいわ」

「うん、会おう。僕もずっと会いたかった」

「ほんと?」

「ほんとだよ」


 自身の感覚としては夢遊病者のようだったが、成美は普段通り会社に出勤し続けていた。いつもと同じ時間に起き、いつもと同じように朝食を採って、いつもと同じ満員電車に乗って出社していた。傷だらけの平穏の中で過ごしていると、自分の心が風のように透き通っていくような気がする。そんな成美は、他人には以前と変わらぬ成美としか見えていない。

「最近何かあった?」

 職場で最も仲の良い畑中恵に誘われてパエリアを食べに銀座の店に出かけている。

「何で?」

「成美とは長い付き合いなんだから、何も言わなくてもわかるわよ」

 他の人の目はごまかせても、恵には気づかれていた。

「そうかあ。自分では普段通りにしているつもりなんだけど」

「今の成美は無理して普段通りにしているっていう感じだもの」

「やっぱり、恵は鋭いね」

「そんなことより、どうした? 彼氏のこと?」

 成美に彼氏がいることは恵にも伝えていたが、その相手が裕二だということは、社内の恋愛情報通の恵でも知らない。

「うん」

「喧嘩でもした?」

「そう…。しかも、激し目の」

「付き合って何年くらいだっけ」

「間もなく2年というタイミングだった」

「ありがちね」

「ありがち?」

「そう。私もちょうどそのくらいの時に大喧嘩したわ」

「そうなんだ。その彼とは?」

「結局、別れた」

「そう…」

「成美。私からのアドバイスだけど、じたばたしないことよ」

「どういう意味?」

「そのまま別れることになるか、復縁するかは自然に決まるので、じたばたしないで流れに身を任せたほうがいいということ。じゃないと、精神的に参っちゃうよ」

「そうだね。ありがとう」

 この時点では恵の言う通りだと思い、そうするつもりだった。だが、今度も恵の言葉が、成美の思いを根底から覆すことになる。

「そう言えばさあ、経営企画室のプリンスと専務の娘のロマンスの件なんだけど」

 聞きたくない言葉だった。だが、裕二と自分との関係を知らない恵に罪はない。自分でも持て余していた裕二への感情が、再びむくむくと持ち上がっていた。

「うん」

「すっかり専務の娘のほうがのぼせ上っているみたいで、結婚までこぎつけるかもしれないっていう話よ」

「誰からの情報なの?」

「経営企画室長からじきじきに聞いたんだから、間違いない話よ」

 恵は経営企画室長の中町幸作と不倫関係にあることは社内でも結構知られていた。だから、この話には信憑性があった。自分の怒りを恵に悟られないように、成美は下唇を噛み、悔恨の底知れぬ深さだけをただ見つめ、平常心を装った。

「ふ~ん。具体的に進んでいるの?」

「プリンスが専務の家に挨拶に行っているらしいから」

「そうかあ…」

 その後、恵とどんな話をしたか、成美は全然覚えていない。ただ、恵がその後飲みに行こうと言ったのを、体調が悪くなったという理由で断り自宅へ戻ったことは覚えている。

 もともとプライドの高かった成美にとって、裕二が取った行動は許しがたいものだった。著しく自尊心を傷つけられ、黙って見過ごすことはできなくなった。その日から裕二に対し、嫌味や恨みや脅迫に近いメールを送り続けた。

『おめでとう。私のことをだしにして専務の娘との関係を深めているらしいですね』

『私たち二人が付き合っていたことを、社内の誰も知らないのをいいことにして、専務の娘との結婚を進めるなんて、あなたはなんて卑怯な男なの』

『どうせ私はあなたにとって、最初から結婚の対象にはなり得ない程度の女だったのよね。今回のことで思い知らされたわ』

 最初はこんな皮肉や自虐ぽいものや恨み節的なものだったが、裕二が一切返信してこず、完全に無視されたことでエスカレートしていった。

『私を捨てておいて、自分だけ幸せになれるなんて、そんな虫のいいこと思わないでね』

『私と付き合っていたことを、なかったかのようにすることは絶対許さない』

『このまま私が黙って引き下がるとでも思っているとしたら、大きな間違いよ』

 それでも無視し続ける裕二。我慢の限界まで達していた成美の心の決壊が、ついに壊れた。

『あなたが私をバカにし続けるなら、専務の娘に私とあなたの関係をバラす』

『私とあなたがラブホテルのベッドで裸で写っている写真を専務に送ろうか』

 まだ二人がラブラブだった頃、ラブホテルで遊びで撮った写真が成美の携帯に保存されていたのだ。

 さすがの裕二も、これはまずいと思ったのか、

『一度話し合おう』

 という返信が届いたが、今度は成美のほうが無視した。それから3日後の金曜日の夜に、突然裕二から電話が入った。

「何?」

「何もクソもないだろう。あんなメールを寄越しておいて」

 言葉そのものは激しいが、まったく感情のこもっていない平板な声は、逆に殺人鬼のようで不気味だった。部屋の温度が下がり、受話器を持つ指がひんやりとした。

「私は事実を伝えただけよ」

「わかった。とにかく冷静に話し合おう」

「今さら何を話し合おうというの」

「今の君はどうかしている。君のためにも、ここでちゃんと話し合う必要があると思う。実は今僕は君のマンションの下まで来ている。だから、部屋にあげてくれないか?」

 時を刻む音が異様に大きく聞こえる。脳味噌の中を走っている無数の神経が一斉にけいれんを起こし始めた。


 池尻大橋にあるカフェのテラス席でコーヒーを飲みながら待っていると、生島が近づいてくるのが見えた。今日は土曜日ということもあってか、ジャケットにジーンズというラフなスタイルだ。背が高く顔が小さいので、遠くから見ると外人のように見える。

「待たせてしまいましたか?」

「いえ、私も少し前にきたところですから」

 明るい太陽のもとで見る生島は精悍な顔つきに感じられる。これなら確かに女たちが放ってはおかないだろう。

「痩せました?」

 雅美の斜め前に座った生島が心配そうな顔で言った。

「少しね。いろいろあったから…」

 わざと言葉を濁したが、本当のところダイエットを始めたからに過ぎない。

「大丈夫ですか。心配しましたよ」

「ごめんなさい。でも、もう済んだので」

「そうですか。それなら良かったです」

 理由は言えないと電話で話していたので、それ以上訊いてはこなかった。

「で、今日はどうします?」

「雅美さんの希望はありますか」

 前回は酔いのせいもあって、二人の距離は急激に縮まっていたが、今日は時間を置いたためか、意識するあまりか、二人とも距離を取っている。

「私の希望を言っていいんですか?」

「もちろんです」

「じゃあ、函館へ連れて行って」

 この時期、函館山からの夜景が一番きれいに見られると雑誌に書いてあるのを見たばかりであった。

「函館、ですか。いいですよ。行きましょう」

「あら、ほんと? それは無理って言われるかと思ったわ」

「本当のところ、ニューヨークとか言われたらどうしようと思ってましたけど、国内なら対応できますからね」

「さすがです。そういうところに女はやられちゃうんですね」

「やられちゃうって言う表現はどうかとは思いますけど、好きな人のためですから、当然です」

「わあー、カッコイイ」

「そんなことないです。とにかく善は急げです。今すぐここを出ましょう」

 二人は何の準備もないまま、慌ただしく店を出て、タクシーで羽田空港へ向かった。その車内で生島はネットで航空券の予約を入れた。まるで逃避行のような旅に、雅美はワクワクしていたが、生島の気持ちも高ぶっているのがわかった。

 函館に着いてすぐにホテル探しをした。当日泊だったので断られ続けたが、ようやく一軒のホテルが取れた。ネットで写真を見る限り、ホテルと名はついているが、鄙びた観光旅館のような佇まいであった。淫靡さも感じられるそんなホテルが今の二人にはぴったりするような気がする。

 夜まではレンタカーを借りていくつかの観光地を巡って過ごし、少し早めに函館山を目指した。それでもかなりの混みようであったが、ちょうど良いタイミングで絶景ポイントに到着できた。幸運なことに、その日の函館は晴天で、なかなか見ることができないという見事な夜景を見ることができた。

「本当にきれいだね」

 生島が感嘆に耐えないという声で言った。

「ほんと。裕二のおがげよ。今日函館に来られるなんて思ってもいなかった。ありがとう裕二」

 今日会った時に開いてしまっていた距離も自然に縮まっていた。

「こちらこそ、僕は雅美と二人で見られて幸せだよ」

「嬉しい」

「ねえ、雅美」

 生島が顔を夜景から雅美に移して言った。

「何?」

 雅美は生島の視線を意識しながらも、目は夜景に向けたまま言った。

「僕と結婚を前提に付き合ってくれないか」

 この言葉を待っていた。ただ、予定よりだいぶ早い。

「私たち、まだ二回しか会ってないのよ」

「もう二回も会っている。それに…、回数なんか関係ないよ」

「そうかもしれないけど…」

「雅美って、ちょっと目を離すとどこか遠いところに行ってしまうような気がするんだよね」

 これまで自分がプロデュースしてきた『青井雅美』のイメージに、まんまと嵌っている。

「それは当たっているかもしれない。でもそれは、結婚を前提に付き合い始めても変わらないかもしれないけれど、それでもいいの?」

「僕が雅美の心をしっかり捕まえておくから大丈夫」

「自信があるのね」

「自信なんかないさ。だからこそ、僕は雅美の恋人だと宣言することにしたんだ」

「そう…。わかったわ。私たち恋人同士になったのね」

 生島が変事の代わりにキスをしてきた。そんな二人に違和感を覚えるような人は誰もいなかった。

 ホテルに戻り、温かい風呂に入る。ところどころある壁のはがれた個所が、虫が張り付いているように見え、この後の二人の行為のいかがわしさを現しているようで一瞬怯むが、あわてて打ち消す。部屋に戻ると、先に風呂から出ていた生島がベッドでタバコを吸っていた。その姿にはいつものような柔らかな印象はまるでなく、ひどく傲然とした様子だった。生島の内側を覗いてしまった気がした雅美は、一瞬強い殺意を催した。雅美の姿を見て裕二は慌ててタバコの火を消し、いつものような柔和な表情を向けた。無言で生島の横に滑り込む。濃厚なキスを交わした後、生島が雅美が身に着けていたタオルを剥がす。雅美はつい先ほど感じた殺意を性的衝動に変え、自ら激しい行為に及んだ。

 東京に戻ってから二人は恋人として付き合い始めた。生島の取り柄はとにかく優しいことだった。それに、細かいことに気づき、こまめであった。それが生島の恋愛テクニックなのか、本来生島が持っている性格からくるものなのかはまだわからなかった。

「これ、この間ショーウインドーを見てた時、気に入っているみたいだったから」

 そんなことを言って、誕生日でも何でもない日にペンダントを贈ってくれたりもした。自分が何気なく取った行動を覚えてくれていたことに心を動かされる。しかも、それが決して高価な物でないことにも好感が持てた。そんな生島に、いつしか雅美も本気で惹かれそうになっていることに気づく。

『ミイラ取りがミイラになってどうするの』

 本来の雅美が鳴らす警鐘の音に我に返る。

「ねえ、裕二」

 今日は生島の部屋に来ている。最近ではお互いの部屋を行き来するようになっていた。雅美が部屋の掃除を終え、ソファーで雑誌を読んでいた生島の横に座ったところだ。

「ん?」

「これまで裕二って、どんな恋愛をしてきたの?」

「何でそんなことを訊くの?」

「近い将来結婚するとして、裕二のすべてを知っておきたいから」

「う~ん。お互い知らないほうがいいことってあるんじゃない?}

「わかるような気もするけど、恋愛って、その人の人間性が出るから、包み隠さず聞かせてほしいな。それとも、私には話せないことでもあるの?」

「そんなことはないけど…」

 明らかに生島は困惑していた。

「じゃあ、私から先に話すよ」

「そうかあ、わかった」

 生島の顔に安堵の表情が伺えた。しかし、雅美には語れるほどの経験などほとんどなかった。だから、本で読んだものや映画で見たものを自分なりにアレンジしながらいくつかの恋物語に仕立て上げて話した。その中には恋愛成就したものや失恋も交えていた。その一つ一つについて生島は興味深そうに聞いていた。

「でもね。私が一番心に引っかかっているのは、これから話すものなの。聞いてくれる?」

「もちろんだよ」

「ありがとう。じゃあ、話すね。それは一年半くらい前のことなんだけど」

「わりと最近の話なんだね」

「そう。その人とは友人が主催したコンパで出会ったんだけど。とにかくカッコいい人だった。単にイケメンというだけじゃなくて、頭の切れる人だった。私も気に入ったけど、彼も私のことを気に入ってくれて付き合うことになったの。彼は裕二と同じで優しかった。私が体調悪かったりすると、一目散に私のところに駆けつけてくれたりして。だから、私の心の奥では彼との結婚も考えていたの」

「そう…」

 結婚まで考えていた男がいたことに、生島としても複雑な気持ちなのであろう。

「でも、私が海外プロジェクトのメンバーに選ばれて、約半年の間日本を留守にすることになったの」

「雅美って優秀なんだね」

 海外プロジェクトのメンバーとして半年現地に派遣されたのは本当だった。ただし、雅美に与えられた仕事は、あくまで事務補助だった。

「どうかしら。それはともかく、私が日本に戻ってみたら、彼は会社の役員の娘と付き合っていたの」

「そう…」

 思わぬ話に、生島はとりあえず頷くことしかできなかったはずだ。生島の顔が曇っている。

「この話聞きたくない?」

「いや、そんなことない。続けて」

「うん。これって、ひどい話だと思わない?」

「ひどいね。それでどうなったの?」

 当然と言えば当然だが、生島は話の続きを聞きたいのだ。

「どうなったの?」

 雅美に逆に訊き返され生島が戸惑っている。

「そのお、結局二人はどうなったのかなあと思って」

「そんなの聞くまでもないじゃない」

 突然大声をあげた雅美に、生島は驚いている。

「そんなに怒らなくても」

「ごめんなさい。私はさんざん彼を非難したけど、彼の心はもう私にはなかったから諦めるより仕方なかった…」

「そう…。そんな辛い目に会ったんだ」

「裕二にその辛さなんてわからなでしょう」

「もちろん、本人じゃないと本当の辛さはわからないと思うけど、今話している雅美の姿を見ていて、きっと辛い思いをしたんだろうなと思って…」

「ありがとう」

 生島にわかるはずなどないとは思ったが、ここは合わせておく。

「それで、しばらくは男性拒否症みたいになっていたんだけど、その傷が癒えた頃にあなたに出会えたというわけ」

「そうかあ。僕はラッキーだったんだね」

「そうね。きっと神様が引き合わせてくれたのよ。で、裕二の恋愛は?」


十一

 成美は裕二を部屋にあげるか迷ったが、自分の怒りを直接本人にぶつけたくなって呼び寄せることにした。もう二人の関係が元に戻るとは思えなかったが、この際すべてをぶちまけて終わりにするつもりだった。

 ドアを開けると、ジャージ姿の裕二が立っていた。一瞬目が合ったが、すぐに逸らした。

「どうぞ」

 いつまで経っても入ってこない裕二に入室を促す。無言の裕二を先導する形で成美がリビングへ入る。裕二がソファーに座ったのを確認して話かける。

「何飲む?」

「いらない」

 この日初めて裕二が口をきいた。もう彼女でもない女からは飲み物ひとつでさえ受け取らないとでもいうような感じだ。

「あっ、そう」

 成美は自分の分のコーヒーだけを持って、裕二の前に座る。久しぶりに見る裕二は心なしか痩せて見える。

「痩せた?」

「いや。そんなことより、あのメールはどういうことなんだ。脅迫か?」

「何よ。私が悪いみたいなこと言うのはやめてよね。すべてはあなたが引き起こしたことでしょう」

「俺は何も悪いことはしてないよ」

 他人事のように冷めた声。

「へえー、驚いた。私を食い物にしておいて」

「人聞き悪いことは言わないでくれ。俺は一つの恋が終わった後、次の恋に移っただけじゃないか」

「もっともらしいことを言わないでよ。あなたは私が精神的に苦しんでいて、一番あなたを求めていた時に、専務の娘という自分の出世欲を満たしてくれそうな相手が現れたとたん、紙屑のように私を捨て、平然と専務の娘に乗り換えたんじゃない」

「そんなんじゃない。俺は君の苦しみや辛さを十分理解していたし、そこから君を救おうと一生懸命にやったじゃないか。そんな俺の気持ちがわからなかったのか」

「何でそんな上から目線で、恩義せがましく言われなくちゃならないのよ」

「相変わらず自己中だな」

「自己中? 私が自己中だって言うの?」

「ああ。自己中で、強情でわがままで過剰な自信家で、自分の思い通りにならないと相手を責めて、自分は何も悪くないと言い切っちゃうし、最低、最悪だよ、君って女は。そこへいくと、専務の娘はどんな時にも相手の気持ちになって考えてくれる。俺は専務の娘だから彼女を選んだんじゃないんだ。人間的に惹かれたのさ」 

 さんざんの言われようだが、裕二に指摘された点は自分でも思い当たらないわけではなかった。だが、今この場で言われたことが無性に悔しかった。

「今になってそんなこと言うなんて卑怯よ。あんたこそ最低。逆玉に乗れて、もう怖いものなんかないとでも思っているのかもしれないけど、そうはさせないからね」

 夜の闇の中でいろいろなものが凍りついていく。

「何を企んでいるんだ」

 声が真っ平になっている。

「メールで知らせた通り、全部バラすから」

「全部?」

「そう。あなたが私にしたこと全部を、あなたが大好きな専務の娘と専務に教えてあげるのよ」

「やめろ」

 裕二の怒鳴り声が部屋中に響いた。顔をあげると、鬼のような形相の裕二が成美を睨みつけていた。だが、ここで負けるわけにはいかなかった。

「あなたにやめろという権利なんかないわよ」

「うるさい」

 喉の奥が力んで掠れたような声をあげながら裕二が立ちあがった。異様に光ったその目に恐怖を感じる。口の中に嫌な苦い味が広がる。

「私を殺そうとでもいうの。殺せるものなら殺しなさいよ」

「黙れ」

 今度は押し殺したような低い声でいい、硬直した顔のまま成美に近づいてくる。

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