第6話 裏路地
ちいちい、きいきい。
闇の中で、何かが鳴いている。
「きつね、……?」
「見えない? ふふ。まあ、そうでしょうね。
こいつら、要するになりそこないだもの」
奈緒の呟きに、何が可笑しいのか、タエ子は笑った。
どこか寒気のする、剣呑な微笑みだった。
「那須野の殺生石より別たれて、凝り損ねたなれの果て。
人に憑くことでしか存在を維持できない、クソッタレの害獣ども」
歌うように吐き捨てて、女はふと奈緒を見た。
冷たい視線が娘を刺す。
「ともかく、こいつのおかげで、あたしは狐狸の類いはまず見分けがつく。
それに引っかからず、被害者は犯人の姿を見ていない。
であれば、最も蓋然性が高いのは
奈緒は慌てて頷いた。
何故だか、見るべきではないものを見てしまった気がしていた。
「そら。出るわ」
タエ子が顎をしゃくった。
女が示したとおり、そこかしこの隙間に散り散りに潜り込んでいたオサキ狐たちは、次第に一点に集結しだしていた。黒く小さい毛玉めいた何かが、うぞうぞと一軒の民家の軒先に塊をつくりはじめている。
その黒い波に追い立てられるようにして、ぼとり、大きな影が落ちた。
「ッ、」
悲鳴を堪える。──成程。
その姿は、確かに大きな虫にも見えた。
その丈でどこに潜んだものか、大きさは成人女性が腕を広げた程度。
金属質の鋏にも似た大きな前肢、蛇腹の胴には
ただ──、その貌は妙にヒトめいている。
奇妙に突き出した鋭利な
それらが、ヒトの顔の配分で輪郭に収まっている不合理。
ヒトと、虫と、刃物とを捏ね合わせたかのような、嫌悪を催すねじくれた造形。
顔だけはヒトそのものであった百足女とはまた違う、独特のおぞましさがそこにはある。
これが、髪切り虫であった。
「最悪、結構育ってるじゃないの」
動じもせず、タエ子はぼやいた。
対峙するそれがどれほどのものなのか、奈緒にはやはり判らない。
ただ、おぞましさを凝縮したような、異様な圧だけはひしひしと感じ取れていた。
きい。きい。
オサキ狐が鳴いている。
屋根裏から虫を追い立てたオサキたちは、流れるように動きを変えていた。
一定の距離を保って、髪切り虫を取り囲んでいる。
きちち、ち、ち。
じりじりと輪を縮めようとするオサキたちに、髪切り虫は鋏を振り上げて威嚇を見せる。
追い立てられた時に傷でもつけられたか、振り上げた前肢の節からどろり、
ぷん、と生臭く汚れた匂いが辺りに漂う。
タエ子の眉根がきつく寄せられた。
「──蛇。あんた聞いてるんでしょ」
『不躾な。何だ』
奈緒の襟元で、しゅう、と白蛇が返事をした。
「その娘が大事なら、あんた、絶対にあれと接触しないで」
固い声だった。
心なしか、その表情は強ばっているように見える。
「あの、タエ子さん。どうして、」
『……良かろ』
「カガチ様?」
頭越しに話が進んでいる。
タエ子とカガチ。両者の反応から、何かの異常があったことだけはわかる。
だが、それがなんなのか、奈緒だけが理解できていない。
「
あと、髪にも気をつけるように。こいつは切った髪を喰らって力を増す、!」
──ぢ、ぢ、ぢ。
動揺を、察知したか。
オサキ狐の囲いを飛び越え、髪切り虫が女たちに飛びかかった。
「ひッ、」
「ッ、最ッ悪……!」
反射的に仰け反った奈緒は、そのまま尻もちをついた。思わず目を瞑る。
視界の端で、タエ子が脇に転がる壊れた椅子を掴んだのを見た気がした。
ばきり。
頭の上で、何かが折れた音がした。薄目を開ける。
飛びかかった虫を、タエ子は引っ掴んだガラクタで思い切りブン殴っていた。
ぎゃん、と妙にヒトじみた悲鳴を上げて、髪切りは夕闇に紛れる。
どん、と壁を殴るような音とともに、怒号が飛んだ。
「うるせえ、テメエらウチの裏で何やってンだ!」
「引っ込んでなッ! ただの酔っ払いだよッ!」
怒鳴り返すなり、タエ子はへたり込んだままの奈緒に手を差し出した。
「何ボサッとしてんの、追うわよ!」
「は、……はいっ!」
タエ子の手を掴む。
よろめきながらも、奈緒は立ち上がった。
○ ○ ○
隘路に横たわる空き瓶を蹴り飛ばす。濡れてしわくちゃのチラシを踏みつける。
タエ子も奈緒も、もう泥はねなど気にもとめていなかった。
走りながら、タエ子は鞄から小さな白い紙切れを引っ張り出している。
びっ、とそれを空に投げれば、紙切れは小鳥に変じてどこかへと飛び去った。伝令だ。
「ああもう、ほんっと最低!」
「タエ子さん、……ど、……どうするん、ですか」
「どうするもなにも、追って仕留めるのよ! 念のため連絡は入れたけど、
あれだけ育ってるとなれば別の奴を呼んでる間が惜しい。
それに、相性を考えればどのみちあたしのところに回ってくる仕事よ!畜生!」
ひた走る二人の両隣、物陰の間を縫うように、オサキたちが併走している。
どうやら、タエ子はそのうち幾らかを先行させ、髪切りを追跡しているようだった。
道を選ぶ足取りに迷いはない。
しかし入り組んだ迷路のような裏通りは、髪切りの方にこそ有利に働いていた。
人の体では潜り込めない隙間に、髪切りは潜り込める。
「くっそもう、邪魔ッ!」
近くで悲鳴が上がった。今度は女の人だろうか。
タエ子が一度、足を止める。
「チッ、開き直って動きが派手になったか。
ああもう、オサキ共の数さえ揃ってれば逃がしはしなかったのに!」
苛立たしげに、女は髪をかきむしる。
弾む息を整えながら、奈緒は口を開いた。
「あの、なっ、なにか、お手伝いすることは」
「はァ? 手伝いって言ったって、あんた──」
振り向いたタエ子は、何かに気づいたようにじっと奈緒を見た。
より正確に述べるならば、たっぷりと肩に垂らした、その
タエ子が口を開こうとしている。
彼女が何を言わんとしているのか、言葉になる前に奈緒にも察しはついた。
「ねえ。
あんた、囮をやる度胸はある?」
○ ○ ○
薄暗い路地裏で、奈緒はひとり立ち尽くしていた。
日は既に落ちきっている。空はすっかり暗くなっていたが、星は見えない。
周囲の家々から漏れる暖かな灯が、瞬きをかき消していた。
この場所に、髪切りを追い込む。
そういう手筈になっていた。
タエ子は、ちゃんと助けてくれるだろうか。
周囲にはオサキたちが潜んでいる筈だが、それらしい気配は感じられない。
尤も、それと判るようでは伏兵にはなるまい。
存在を感じとれないのは、むしろ安堵すべきことなのだろう。
ばくばくと煩い心臓をどうにか宥め、奈緒はもう一度、タエ子の言葉を反芻した。
──いいこと?
今のところ、髪切りをこの路地周辺に閉じ込めることには成功しているわ。
そして、奴はこの囲みを突破する為に更なる
うまく追い立ててさえやれば、あれは間違いなくあんたに食いつく。
包囲を破れるだけの力をつけさせてしまったらこっちの負け。
他の犠牲者を出す前に、ブッ叩ければこっちの勝ち。
シンプルでしょう?
だから、大事なことはただ二つ。
奴をギリギリまで引きつけること。
それでいて、絶対に髪を切らせないこと。やれるわね? ──
少なくとも、そのつもりでいる。
奈緒は大きく深呼吸をした。
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