第2話 鉱山
「やあ、お待ちしておりました」
そう言って微笑む口元に覗く、白い歯がまぶしい。
如何にも現場で鍛え上げられたらしい体をこなれた背広に押し込めた男が、たっぷりと日に焼けた顔に快活な笑みを浮かべ、両手を広げて一行を出迎える。
その背には、抜けるような青空が広がっていた。
「私はこの現場を任されております、潮善治郎と申します」
どうぞ宜しく、と差し出された手に、ハルアキはこちらこそ、と如才なく応えている。
その後ろで、名無しは居心地の悪さを感じていた。
妙なところについてきてしまった、という感覚が拭えない。
何故自分はこんなところにいるのだろう。
かしこまったやりとりを続けている男たちの後ろで、名無しは所在なげに視線を巡らせていた。
馬車がたどり着いたのは、山裾に張り付くようにしてできた集落だった。
元々の規模は、名無しの故郷とそう変わるまい。
だがここには、八蘇にはなかった、新しい風の吹き込んだ痕跡があった。
背にした山の緑は突如として途切れ、抉れた腹を晒している。
その傷口には真新しい木組みがあり、坑があり、敷設されかけの線路がある。
そして建てられたばかりの宿舎があり、煙突があり、作業所があった。
だが、その全ては今や完全に停止していた。風は死んでいる。
積み上げられた資材の山は、物言わぬままに放置されていた。
この土肌を剥きだしにされた山が、百足女の封じられているという笈山なのだろうか。
名無しは目を細めて、その有様をつぶさに眺めた。
そこには、関口の語りに聞いた、おどろおどろしい気配はどうにも薄い。
かわりに、鉄と土と、煙の匂いがあった。人の営みの匂いだ。
「お嬢さんも、宜しく」
声を掛けられて、名無しははっと視線を戻した。
目の前には、ハルアキにそうされていたように、男の手が差し出されている。
思わずハルアキのほうを見るが、狐顔の男はニコニコ笑っているだけだ。
関口は、その後ろで顔に手をあてている。
己が握手を求められているのだ、と名無しが気づくまで、しばらく間があった。
「えっと、……お願いします」
困惑しながらも、名無しは見よう見まねで握手に応えた。
幾度も豆のつぶれたあとのある、厚く荒れた手が名無しの手をぐっと包み込む。
それだけで、内側の熱気が伝わってくるような、そんな手のひらだった。
年の頃は三十も半ばくらいだろうか。
善治郎と名乗ったその人物は、まさに働き盛りといった風情の、実に押し出しの良い男だった。
「さて、せっかちで申し訳ない。しかし、こうしてご訪問いただけたということは、試掘再開の目処が立ったということで宜しいでしょうか」
「それに必要なものはどうにか整ったというところでしょうかね。
あとは滞りなく遷座が済み、村人たちの納得が得られれば、事業再開の許可は下りるでしょう」
「迅速な対応、感謝いたします」
きびきびと男は言った。
どうやらこの善治郎と言う男、ここの村人ではなく鉱山開発の関係者であるようだ、と名無しは遅まきながら察しをつけた。
そして、ついでになにやら小難しい政治の話が絡んでいるような気配が漂っている。
神社への奉納をやる、とは言ったが、名無しは完全に気後れしはじめていた。
「いやあ、礼ならば彼女に言って下さい」
ハルアキのまさかの爆弾発言に、名無しは目を剥いた。
「彼女が頷いてくれなければ、今しばらく時間をいただいていたところです」
「なんと、そうでしたか。ご協力ありがとうございます、お嬢さん」
「えっ、……ええと……はい、……?」
握られたままの手に再度力がこもる。名無しは大いに戸惑った。
よくわからない流れで、何かの立役者に仕立て上げられつつある。
軽々しく頷くわけにも、否定するわけにもゆかず、名無しはしどろもどろになった。
両手を握る、善治郎から向けられるのは自信に満ちあふれた笑みだ。
やってくれるのだろうな、という言外の圧が強い。
思わず、名無しの視線は空に逃げた。
雲一つない蒼穹が目にまぶしい。
それは、嘘のように美しい青だった。
「それで、その遷座とやらはいつになりますか」
善治郎からようやく解放されて、名無しはほっと一息ついた。
大丈夫か、という関口の問いに、なんとか頷いてみせる。
すまない、止められなかった、という本当に申し訳なさそうな関口の囁きに、名無しはしみじみ、この人は随分苦労しているのだなあ、と思った。
「まず準備が必要なのでね。今日は下見をして、準備が整えば明日にでも」
ハルアキの言葉に、善治郎はぱっと顔を輝かせた。
焼けた頬にうっすらと紅が差す。
「良かった! こちらも、集めた坑夫たちを食べさせなければなりませんから。
再開は一日でも早いと助かります。それで、何かお手伝いすることはありますか」
「そうですね。では、あたりの案内をお願いできますか。
準備にあたって、まずは地理を確認しておきたいので」
「お安いご用ですとも。さあ、参りましょう」
○ ○ ○
道中、潮善治郎は滔々と語り続けた。
傍らに生えた野の花のこと。
彼の故郷と、そこの旨い酒のこと。
鉱山のこれまでと、これからのこと。
他愛ない雑談から小難しい仕事の話まで、その内容はさまざまに入り交じっていたが、話を総合すれば、事の経緯はこういうことであるらしかった。
潮善治郎が所属しているのは、とある財閥の鉱山部門である。
鉱脈発見の噂を聞きつけ、専門家を派遣して調べさせたところ、確かに銅鉱の露出を笈山山中に確認した。
財閥はすぐさまこの山を買い付け、採掘許可を取り付けると、善治郎を派遣して試掘をはじめた。しかしこの段になって、笈山天神の氏子である村人たちが騒ぎはじめた。
よそ者が、村にわらわらと乗り込んでくるのが気にくわない。
その上、よりにもよって謂われのある笈山を掘り返そうとは何事だ。
その反発は運動となり、ついに許可を出した国に陳情が入ることとなった。
ここのところ政争続きの政府としては、鉱山は開発してほしいが、小さな村ひとつの事とは言え、余計な民草の反発は買いたくない。
そこで出た妥協案が、笈山天神社の遷宮である。
なるほど、と頷きながら名無しが最も感心したのは、その語りのどれもがすっと耳に入ってくることだった。わかりやすく、人を引き込むのに長けた語り口だった。
なつっこい笑顔に、絶妙な口のうまさ。
そのつもりはなくても、気づけば懐に飛び込まれている。
潮善治郎とは、そういう質の男であるらしかった。
「それで、あれが坑夫用の宿舎です。
これ以上採掘の差し止めが長引くと、彼らを留めておくのも難しく……。
おうい、お国の拝み屋どのがたが到着されたぞ!」
善治郎がそう言って手をふると、宿舎の前で屯していた男たちがわらわらと集まってきた。
皆、一様に日に焼けている。中にはいくらか柄の悪そうな男たちも混じっていて、名無しは少し緊張した。
まとめて挨拶をさせてから、善治郎はすぐに彼らを宿舎側に戻した。
「それで、あちらが試掘坑です」
善治郎が差したそこには、木組みに覆われた深い縦穴があった。
その脇には、なにやら物々しい大きな機械が鎮座している。
「あれは、いったい?」
「掘削機ですよ。蒸気の力で、坑道を掘ることが出来るのです。
もっとも、採掘が差し止められている今はただのでくの坊なのですが」
名無しの質問に、早く活躍させてやりたいのですがね、と善治郎は笑って答えた。
「ともかく、これまでのところ、試掘坑から産出された銅鉱のサンプルは一級品です。埋蔵量は今しばらく掘ってみなければ確認は難しいでしょうが、おそらく外れではないでしょう」
そう言って、善治郎は厚い胸を張る。
「この
「ええ、そうです。そして厚い鉱脈を見つけたら、そこから横に掘り進むんですよ」
覗いてみますか、と促されて、名無しは縦穴を恐る恐る覗き込んだ。
先は見えない。黒々とした闇が、ぽっかりと口をあけているだけだ。
作業をする段になったら、明かりをつけるのです、と善治郎は言った。
ふと風が吹いて、坑に溜まっていた冷えた空気が名無しの頬を撫でる。
それに驚いてよろめいた名無しの体を、後ろに居た関口が支えた。
気恥ずかしく思いながらも礼を言おうとしたそのとき、じっとりとした視線を感じとって、名無しは思わず周囲を見渡した。
「あ、」
遠くからこちらを眺める暗い瞳と、目が合った。
坑夫ではない。老年の女と、その孫らしき子供の二人組だった。
身なりも、体つきも、宿舎に屯していた男たちとは毛色が違う。
「村人だろうな」
名無しを支えたまま、ぼそりと零した関口の呟きに、なるほど、と名無しは思った。
あれが鉱山開発に反発しているという、元々この集落に住む側の人間か。
名無しの視線に気づくと、二人組はふっと視線を逸らして、どこかへと歩き去った。
その物言いたげな視線が、脳裏にこびりつく。
果たして、と名無しは思った。
笈山天神社への奉納を終え、百足女を退治し、遷宮が無事済んだとして。
果たして、彼らは山を削ることに納得するのだろうか。
「……今は」
善治郎が口を開いた。
「どこもかしこもきな臭い時代です。先の欧州の大戦のこともある。
銅の需要は非常に高い。
そんな時に、この鉱山を稼働させない理由がどこにありますか?
古くさい迷信になど惑わされている場合ではない。そうでしょう」
念を押すように、男は語気を強める。
「この鉱山が本格的に稼働し、良質の銅が安定して供給されることを考えてみて下さい。それがどれほど国の為になるかを。これが止まるのは、国の損害です。ひいては国民の損害です。この村ひとつの話ではない」
「さて、」
熱の籠もった善治郎の言をいなすように、ハルアキはのんびりと答えた。
「まあ、考えは色々ですよ。
僕たちは僕たちの役目を果たすまでです」
「ええ、それで結構です。彼らも、いずれ理解してくれるはずです。
この鉱脈は、開発は、かれらをこそ潤すのですから」
自信に満ちた声で、善治郎はそう言った。
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