3-2

 結論から言おう。夢は、見られなかった。

 寝覚めすっきりとして目覚めた俺に、麗華が向けてきた落胆の眼差しは少々冷たかったな。


 夜七時。

 思ったより早く帰ってきていた恭介は、いつもと変わらずミュートしたテレビの前で、テーブルに足を投げ出して新聞を読んでいる。


「俺はてっきり、またホテルにでも連れ込まれて遅くなるのかと思ってたぞ」

「一つ断っておくが、以前のも未遂だ。それにあんな女、金を積まれても御免だな」


 依頼があるとセレブ妻の誘いを断って、帰ってきたそうだ。

 それにしても。旦那に満足できないからといって、隠れて他の男に手を出すってのはどうかと思うけどな。理想としては、もう少しくらい貞淑にしていてもらいたいものだなと思う。

 とはいうものの、俺たちはなんでも屋で、金になるなら行為に文句の付けようはないんだけれど。そこら辺の判断は個々に委ねられてるから、恭介を非難は出来ない。実際、俺も断ってるし。


「そんなことより零司、そのコピー用紙はなんだ?」


 あまり深く掘り下げられたくないのだろう。自分の話を早々に切り上げ、恭介は俺の胸元に落ちる資料を指さして訊いてきた。


「姉さんが知人に頼んでた神崎グループの情報、もどきだよ」

「その口振りからすると、大した情報は得られなかったわけか」

「まあな、」俺はソファにかけ直し、資料を恭介に差し出した。「けど、何も得られなかったわけじゃないぜ」


 恭介は受け取った資料を適当に流し読んでいく。そして、十一枚目に目を通し――


「ブリード?」

「なんかヤバそうだろ」

「そうだな」


 素っ気なく答えたかと思ったら、恭介はなにやら表情を曇らせて溜息をついた。いつもの気だるげなものではなく、どこか憂いを孕んだような一息。


「ん? どうしたんだ?」

「また近い内に会わなければいけないのか」

「誰に?」

「今日の依頼主」


 セレブ妻に? そう頭上にクエスチョンを浮かべていると、恭介が補足した。


「資料を見ていて気づいたことだが。あの女の旦那が、神崎グループの一企業の筆頭株主名に記載されている」


 ぜんぜん気がつかなかった。

 ていうか名前なんだっけ。セレブ妻としか呼称してないからド忘れしてるな。

 しかし、なるほど。苦手な女に会わなければならなくなりそうだから、憂慮してるのか。


「何か知っているかもしれない。少し探りを入れてみるか」

「……どうでもいいことだけどさ。珍しく仕事熱心だよな、なにかあったのか?」


 恭介はふと顔を上げ、目を瞬き、小さく首を横に振った。


「別に大したことじゃない。銃を向けられるほどの事案なんてのは、滅多なことで依頼されるものじゃないからな。少し楽しくなってきただけだ」


 まるで他人事だな。銃を向けられた俺は生きた心地がしなかったってのに。挙句、楽しくなってきたときた。悔しいから皮肉る。


「頼むからヘマはしないでくれよ」

「それはお互い様だ」


 やっぱり、恭介に皮肉は通用しないらしい。

 新聞を畳んで、恭介はすっと立ち上がる。ポケットからスマホを取り出して、なにやら操作をしながら事務所を後にした。たぶん次の約束、という名の依頼を取り付けるつもりだろう。

 あのセレブ妻は恭介をいたく気に入っている。なにか情報を持っていたとしたら、口を滑らす可能性は十分にあるだろう。


「恭介待ちっていうのも、なんだか嫌な響きだけど」


 俺たちの仕事は情報がなければ何も始まらない。闇雲に走り回っても疲れるだけだ。一つの手段として、恭介の情報待ちを据え置いておくのもいいだろう。


「――、そういえば、今日って神崎は事務所に来たのか?」


 ふと気になり、麗華に訊ねた。


「あんたが寝てる間に、資料の整理には来てたけど」


 麗華にけっこうきつい事を言われていたのに、それでも事務所へ手伝いに来てたのか。やっぱり律儀だ。というか健気、か。

 どちらにせよ、そこまでの軋轢になっていなくて一安心した。まあ、なっていたとしても、俺が緩衝材になればいいだけの話だ。

 とは言うものの、神崎はまだ俺たちに対して信頼を置いてくれていないだろうから、挟まる隙間があるのか微妙ではあるけど。


「ところで零司、まだ事務所にいる?」


 資料がファイル分けされている棚をぼうと眺めていると、麗華がふと訊いてきた。


「ああ、でもなんで?」

「あたしはそろそろ部屋に戻るから。ここに残ってるんなら、鍵よろしく」


 言いながら、麗華は帰り支度をさっさと済ませ、コトリと鍵を机の上に置いて立ち上がる。

 俺は置時計で時刻を確認した。午後七時三〇分を回ったところだ。

 美夜はまだ帰ってきてない、か。


「分かった。ちゃんとかけとくよ。おやすみ、姉さん」


 今夜はもう会うことがないためそう挨拶すると、麗華もおやすみと言い置いて事務所を出た。

 どうせ事務所に居ようが一階で寝てようが、結局は美夜と鉢合わせることになる。だったらここの方がいいからな。

 少し掃除して扇風機を置きはしたものの、やっぱり一階は暑い。美夜はすぐに抱きついてくるから、少しでも涼しい方がいい。

 ……別に、期待して美夜を待っててやるわけじゃないぞ?



 それからおよそ一時間後。美夜がだるそうに肩を落としながら帰ってきた。


「ただいま~……ってあれ、レイちゃん一人? どうしてぼっちなの」

「開口一番、失礼なやつだな。俺を寂しい人みたいに言うなよ」


 すると美夜は、鞄を投げ出して眉を垂れながら俺に駆け寄ってくる。


「ごめんよぅレイちゃん。大丈夫、レイちゃんは独りじゃないよ! わたしがいるからね!」

「分かったから離れろ」


 抱きつこうとぐいぐい迫ってくる美夜の頭を押し止める。

 と、ピタリと美夜の動きが止まった。「どうした?」そう声をかけると、「あっ」と思い出したように美夜が言った。


「レイちゃんさ、この前帯刀さんのこと尾行してたじゃん?」

「それがどうかしたのか」

「どうしたってほどでもないんだけどね。あの人、またお店に来るみたいだから、教えた方がいいのかなって」


 ……嫌なことをまた思い出した。銃を向けられて、取り乱して。我ながらみっともない。


「隙あり!」

「うわっ、しまった!」


 少々考え事をしていたら、頭を押さえていた手を外されてしまい、抵抗空しく、抱きつかれてしまった。


「レイちゃんあったかーい」

「俺は暑い」


 って程でもないけど。

 しかし、どうしたものか。いやこの状況でなく、美夜の抱き付き癖のことでもなく、帯刀のことだ。また尾行して今度こそ何かないとも限らないわけで。

 かといって、恭介だけに任せるっていうのも気が引けるし。なにもしなかったら後で何か言われそうだし? 俺にはまた夢を見るという使命が課せられているとはいえ、やはり待つだけじゃ駄目だよな。

 それに、昼過ぎなんかに寝たからか、今夜はいつも通りの時間に寝られそうにないし。昼は活動して、運に任せるにせよ夜しっかり寝た方が効率はいい気がするんだよな。

 と、麗華に対しての言い訳めいた事を考えていると――


「てかさ、前に聞き忘れてたんだけど。なんで帯刀さんを尾行してたの?」


 くりくりの瞳を上目にし、そう言って美夜が見上げてきた。少しだけ、ほんの少しだけドキリと心臓が跳ねる。いや、これはトキメキじゃない。子猫みたいで可愛いけれども……。

 以前に美夜へ説明した時は、帯刀への尾行の理由云々は省いて伝えた。銃を向けられたことはもちろん、試作体という言葉を聞いたこと。神崎にそっくりな女を見かけたことも言ってない。

 教えたのは、城崎の本名が神崎だということ、財閥の娘であること、そして家出をしていることだけ。黒鴉のルールだから、もちろん口外しないことは釘を刺してある。

 それは余計なことを教えて、美夜が首を突っ込まないか危惧したが故の判断だ。俺だけじゃなく、麗華も恭介もそのことは納得してくれている。二人が口を割ることはまずないだろう。

 熟考し、上手い言い訳はないかと探っていると、


「なにこれ?」


 そう言って美夜が手にしたのは、片付け忘れていた神崎財閥に関する資料だった。


「あ、いや、それは――」


 咄嗟に腕を伸ばしたが、美夜は資料を掴んだ手をひょいと閃かせ、俺の手を避ける。猫みたいな機敏さでソファから離れると、「なになに?」と呟きながら目を通した。

 まだ大丈夫だ。十一枚目さえ見られなければ。

 俺は、集中する美夜の背後に忍び寄り、不本意だが後ろから抱きつく形で資料を狙う。


「ひゃっ!? 」


 驚いた声を発し、一瞬硬直した隙に、俺は美夜から資料を取り上げた。


「も、もうレイちゃん! いきなりびっくりするじゃん!」


 左胸を両手で押さえながら、少しだけ顔を赤く染める美夜。


「悪いな。けど、お前が見ても面白くもなんともないものだからさ」

「悪くないよ! なんならこのままベッドインも可だよ?」


 ん? また話がすり替わってるような。


「……お前は尾行の理由が知りたかったんじゃないのか?」

「わたしはただ、レイちゃんとじゃれ合いたかっただけです」


 口実にからかっただけ、美夜ははっきりとそう付け足した。

 本気で知りたがってたわけじゃなくて、一安心。そう一息ついた矢先――


「それで、その資料はなんなの?」


 取り上げたばかりの資料を指さし、問うてきた。やっぱり気になってるんじゃねえかよ。

 ここは適当に誤魔化しておくべきか……。


「これは、まああれだ。尾行の訓練って姉さんに言われてさ。渡されたんだ」

「ふーん。まあ、レイちゃんの嘘なんて簡単に見破れるんだけどね」

「嘘じゃねえよ」

「じゃあ、ちゃんとわたしの目を見て言って?」

 よそ見していたことがバレたのか、美夜はそんな指摘をしてきた。

 俺は表情をニュートラルに形作る。そして、美夜の目を見つめながら、口にした。


「う、……嘘じゃねえし」

「あ、そらした」


 くっ。やっぱり、人はそう簡単には変われない。癖っていうのはなかなか抜けきらないものだと、こんな場面で再認識した。


「けど分かった。わたしに隠し事するってことは、危ないことなんだね」

「……………………」


 経験則からだろう。沈黙を肯定と受け取ったのか、ややあってから美夜はふむと頷いた。


「だったら、わたしにも手伝えることがあるかも?」

「いや、ねえよ。頼むからおとなしくしてろって」


 半ば懇願に近い言葉を遮るように、食い気味でチッチッチと舌を鳴らす。


「わたしが黒鴉の一員だって、帯刀さんには知られてないんだよ?」

「いや、それはそうだろうけど」


 この場合、そこは重要ではない。確かに尾行するに於いて、対象に素性を知られていない者が行うことは最適解だろう。

 美夜はバイト先で働いているだけで、帯刀との接点はほぼ無いに等しい。――が、そんなことをさせるさせないの選択肢に、理由付けとして上げる余地のないほどに大きな問題点があるのだ。


「……お前、俺以上に尾行下手くそじゃねえか」


 以前、訓練だと言われ互いに尾行の練習をさせられた時があった。その際、カーブミラーに明らかに怪しすぎる挙動をとった美夜が映っていたことを思い出す。


「だったらレイちゃんとやるにゃ」

「俺は帯刀にバレてる」


 即断じると、美夜はうぐっと喉を詰まらせた。眉間に薄く刻んだ皺を人差し指で軽く揉むと、なんとも諦めが悪いことに「あっ!」と何かを閃いたように声を上げる。

 嫌な予感しかしないが、一応訊ねておくことにした。


「碌でもないことだったら怒るぞ?」


 ニヤリ。美夜はわずかに口角を上げる。


「レイちゃんが女装すればいいんだよ!」

「断る!」


 え~なんで~! と、何故か涙目で縋り付いてくる。


「女装するくらいならバレ覚悟でやるッ」

「……ねえ、そもそも尾行なんだよね? バレる覚悟って、それ前提としておかしくない?」


 それもそうだ。尾行は相手に気づかれないから成立するのであって……。

 美夜にしては正鵠を射たことを言う。


「帯刀さんは女の子としてのレイちゃんは知らないんだからさ、尾けるんだったらなにも問題ないよね!」

「それだと、俺が普段から女装癖のある男みたいに聞こえるだろ」

「大丈夫だよ! わたしが可愛くしてあげるからね!」


 って話を聞けぇえええ!

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