第66話 悲劇の再会・2

『私を女神に合わせてほしいの』


 あんな願いなどしなければ良かったと、後悔していた。

 両親を殺し、自分を狙う闇の正体を知る為にそれはシェリル自身が望んだ事ではあったが、天界全体を巻き込む恐ろしい事態に発展するなど想像もしていなかった。

 こんな事になるなら、女神に会うという願いを持たなければ良かったとシェリルは思う。天界の住人が無事であるなら、女神の事は諦めたって構わない。それよりも大切なものを、大切な思いを、シェリルは何が何でも守りたいと心の底から思うようになっていた。




 数時間ずっと、指を絡ませて祈っていたような気がする。実際にはもっと短い間だったのかもしれない。肌を刺す冷たい風に現実へと引き戻されたシェリルは、いつのまにか見慣れたアルディナ神殿の大聖堂の前に立ち尽くしていた。残り少ない魔力で自分をここまで送ってくれたセシリアの気持ちに、シェリルは胸が締め付けられる。


「セシリアさん……」


 最後に見たセシリアの微笑みを思い浮かべたシェリルは、やがて意を決したように唇をきゅっと噛み締めたまま深く息を吸い込んだ。天界を救う方法があるのなら、それは創世神アルディナの力しかない。そしてその力を受け継いだシェリルが、今やらなければならない事。


 天界襲撃を目の当たりにして、シェリルは初めてこの力を受け継いでよかったと心から感謝した。この力で皆を救えるならと、強く決意してシェリルは顔を上げる。その目は神官長であり親代わりのエレナを探していた。


「エレナ様なら、何か分かるかも」


 アルディナの力を二つも受け取っていはいたが、実際シェリルは自分の思うように力を扱えた事は一度もない。身の危険が迫った時、それも半ば自動的に発動する力を自分の意思で操れる方法が、エレナになら分かるような気がした。

 完璧とはいかないまでも、必ず良い助言をくれるだろうと思い、シェリルはエレナを探して辺りをぐるりと見回した。

 そしてシェリルはこの時やっと、アルディナ神殿全体を覆う異変に気がついたのだった。


 吹き抜ける真冬の冷たい風がアルディナ神殿を包み、物悲しい音を灰色の空高くまで響かせている。聞こえるのは風の悲鳴と、そして驚くほど間近で聞こえた自分の速い鼓動音。


 異常なまでの静寂に包まれていた。


 神官たちの部屋が並ぶ星の棟にも、束の間の休息を楽しむ広い中庭にも、本来ならばあるべきはずの人の気配がまったくない。


 どくんっ、とシェリルの胸が大きく脈を打った。


 注意して見れば見るほど、さっきまで気付かなかった小さな異変が次々と翡翠色の瞳に飛び込んでくる。

 中庭の緑は今しがたやっと火が消えたばかりのように、焼け焦げた地面から黒く細い煙を吐き出しているし、神殿のほとんどの窓が外側から粉々に割られていた。激しい風にばさばさと重く低い音を響かせたカーテンが、外に大きくあおられている。


「……何が……」


 イルージュ最高の神殿とだけあって造りはしっかりしていた為、全壊だけは辛うじて免れてはいるものの、壁に残った鋭い爪跡や神殿の一部を焼き尽くした痕跡から、これが人間の仕業でない事くらいシェリルにも分かっていた。

 変わり果てたアルディナ神殿に、シェリル以外の気配はもう何も残っていない。


「……そんな……まさか、嘘よ」


 絶望を帯びた声音は、やけにはっきりとシェリルの耳に戻ってくる。

 天界と同じように魔物の爪跡を残しただけの荒れ果てたアルディナ神殿、そこにシェリルの帰りを待つ人は誰もいなかった。神官長エレナも親友クリスティーナも、シェリルの前には姿どころか気配すら現さない。辺りはただ、しんと静まり返っているだけだった。


 シェリルは一瞬にして喉が干上がったのを感じた。いつのまにか体がかたかたと小刻みに震えている。こんな形で、親しい者たちを失っていいはずがない。闇に二度も奪われていいはずがない。


「エレナ様っ! エレナ様……クリスっ!」


 シェリルは神殿へと駆け出していた。神殿の中に誰かがいる事を切に願いながら、嫌な予感を追い払うように大声を上げて走り出したシェリルのその背後で、突然彼女の名を呼ぶ小さな声が聞こえた。


「……――――シェリル?」


 僅かに空気を震わせただけの声は、冬の冷たい風にかき消されてしまうほど弱々しかったが、仲間を求め不安に押し潰されてしまいそうなシェリルの耳に、それは唯一の希望の音としてはっきりと届いた。

 反射的に身を翻したシェリルの瞳に映った懐かしい人影は、まるで闇からシェリルを救い出す一条の光にも見える。


「クリスっ!」


 振り返り、その姿を確認するや否や、シェリルは大聖堂の扉を開けて注意深く外へ出てきたクリスティーナへ足早に駆け寄っていった。


「クリス! クリス、よかった。無事だったのね!」


「シェリルこそ。他の皆も大聖堂へ避難しているわ。もちろんエレナ様もよ」


 見えない何かに怯えるように辺りをぐるりと見回したクリスティーナが、シェリルの手首を強く掴んで有無を言わさず大聖堂へと歩き出した。そのただならぬ様子に再び表情を曇らせたシェリルが口を開くより早く、クリスティーナが今さっきこのアルディナ神殿に何が起こったのかを手短に話し始める。


「二時間ほど前よ。突然神殿が闇に包まれたの。今まで感じた事もない、とても恐ろしい闇だったわ。その中から現れ出た無数の魔物が神殿を襲った」


「そんな……。一体何が目的で」


「ただ遊んでいたようにも思えるわ。だって魔物は私たちを追いまわすだけで、決して殺そうとはしなかった。……エレナ様の指示のもと、私たちは大聖堂へ避難して、エレナ様は大聖堂ごと守りの結界を張ったの」


 アルディナ神殿に到着してから人の気配をまったく感じる事が出来なかったのは、エレナの張った結界の影響だったと言う事が分かり、シェリルは納得すると同時にほっと深く息を吐いた。


「早く中へ入って。どこに魔物がいるか分からないわ」


「そうね。……でも、皆が無事で本当に良かった」


 そう言ってクリスティーナの手をぎゅっと握り返して、シェリルが少し潤んだ瞳のまま淡く微笑んだ。

 何度も周りを確かめながら滑るように大聖堂の中へ消えていった二人は、さっきからずっと空の上で自分たちをじいっと見つめていた赤い三つ目のカラスの存在に、最後まで気付く事はなかった。

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