遅咲きのライラック

村瀬香

第1話 衝撃的な出会い


「はぁ……。最悪だ……」


 スマホに表示したメッセージを読んだ藤代ふじしろ伊澄いすみは、メッセージが届いた昨日の夜から何度目かになる重い溜め息を吐いた。

 すれ違った女性の一人がそんな伊澄を見て、「あの人カッコ良くない? 何か悩んでるみたいだし、声かけてみようか」と友人に囁き、対する友人は伊澄を見るも怪訝な顔をして「やめときなよ。変な人かもしれないし」と止める。

 外見だけを見れば、伊澄は異性に好まれる端正な顔立ちだ。男としては「少し長め」と言われる髪は緩く癖がついており、穏やかそうな目元と相まって全体的に柔らかい印象を与える。また、その印象をより強くしているのがゆったりとした服装だ。体のラインが分かりにくいものの、袖から見える手首は同年代の同性と比べるとやや細めではある。

 町を歩いていて声を掛けられることは何度かあった伊澄だが、今は声を掛けられたとしても気づかずに通り過ぎるだろう。

 何せ先ほどから読んでいるメッセージには、昨晩に「元」がつくことになった恋人からの積もり積もった伊澄への不満と、「だから自分は悪くない」という言い訳が綴られているのだ。


(だから『浮気』、ねぇ……)


 メッセージが届く数時間前に見た光景が脳裏を過ぎり、昨日から今までで一番の重い溜め息が零れた。

 事の発端は、伊澄が彼女の家に忘れ物をしたため、仕事が終わってから彼女の家に取りに行ったときだ。

 たまには突然行って驚かせるのもいいかもしれない、と僅かな悪戯心が沸いた。「仕事が忙しいだろうし」と伊澄を気遣って滅多に我が儘を言わない彼女が、一昨日、珍しく「次はいつ会えるの?」と言っていたのを思い出したのだ。その時は「まだ暫くは忙しいからごめんね」と我ながら素っ気ない返事をしてしまったが、その分、会えれば喜んでもらえるのではないかと。

 事前の連絡を入れずに通い慣れたマンションへ向かうと、付き合って間もない頃に貰った合鍵でドアを開ける。来ることを知らせていなかったせいで、明かりの点いていない玄関は少し薄暗かった。それでも違和感に気づいたのは、部屋から漏れる明かりのおかげだ。


「……え?」


 違和感の主は、玄関に置かれた彼女の靴の中に混じる見知らぬ靴。それも、明らかに男物のスニーカーだ。

 伊澄は混乱する頭を整理しながら、何故か部屋に上がった。頭では帰ったほうがいいと分かっているのに、確かめたいという気持ちと彼女を信じたい気持ちが伊澄の足を動かしたのだ。

 だが、玄関と部屋を区切る扉を開けた先にあったのは、これから事を始めようとする一組の男女のあられもない姿だった。

 ――ワンルームってこういうときは最悪だ。いや、こういうときは想定されていないんだけど。

 自分で自分にツッコミを入れつつ、伊澄は凍りついた状況でどうするべきかと思考を巡らせる。

 浮気現場に遭遇して修羅場になる、というのはよくある話だ。浮気をされた彼氏もしくは彼女が相手に対して怒るのが一般的か。浮気をした側が逆上することもあるだろう。しかし、伊澄は不思議と怒りが込み上がることもなく、「何故、玄関で引き返さなかったんだろう」という、一般論からは逸れた後悔をするだけだった。

 妙な沈黙を破ったのは、彼女に覆い被さっていた男だ。遠くからでも目立つであろう金髪に、目鼻立ちのはっきりした顔。シャツを脱いでいることで露わになっている上半身には、鍛えているのか伊澄よりは筋肉がついていた。


「え? なに? 誰、こいつ?」


 怪訝な顔を伊澄に向けたまま、言葉は下にいる女性に投げかけられている。

 それによって漸く声を発することを思い出した彼女は、下着姿のまま伊澄を見て悲鳴にも近い声を上げた。


「なっ、なんでいるの!?」

「えっと……」


 そんな大きな声を出せたのか、と初めて聞いた声音に思わず怯んでしまった。

 驚きの中に非難の色も混ぜて見てくる恋人であるはずの女性と、伊澄と彼女を怪訝な顔で交互に見る、世間一般では浮気相手となるであろう男。

 やがて回り出した頭が蘇らせたのは、一昨日の連絡アプリでの「次はいつ会えるの?」という彼女のメッセージだ。もしや、単になかなか会えなくて寂しいがために出た貴重な言葉ではなく、いつ家に来るのかという詮索をしていたのかという疑惑へと変わっていく。

 混乱する伊澄の頭が叩き出した答えは――


「お……お邪魔しました?」


 彼氏であるはずの伊澄が引き下がる、だ。

 何故、「帰る」という選択肢を取ったのか伊澄にも分からなかった。忘れ物も取れていないが大した物ではないため、いつか彼女が気づいたら処分してもらおう、と手間を掛けさせることを内心で謝ったほどだ。

 忘れようとした昨日の出来事を綺麗に回想した伊澄は、自分で自分の行動が今でも理解できなかった。


(あれは俺が怒っていい場面のはずだよね……。けど、なんで怒れなかったかなぁ……)


 浮気されたことへのショックより、浮気されたことを怒れない自分にショックを受けた。合鍵も、昨日、部屋を出た際にポストに入れるという、いっそ清々しいばかりの切り捨て振りだ。これでは彼女が送ってきたメッセージで責められるのも頷ける。

 早半日が経とうとしているが、メッセージの返事はまだしていない。何を返せばいいのか分からず、放置しているままだ。彼女に「別れて」とはっきり言われたわけではないにしろ、状況から考えて既に別れたと見ていいだろう。

 未練がないわけではない。けれど、未練があるのかと問われれば首を傾げてしまう。


「……俺、ただの優柔不断な奴か」


 そう自己完結をして、気晴らしに知人のいる喫茶店に行こうと角を曲がったときだった。


「ひゃっ!?」

「うわっ!」


 突然、角の向こうから人影が飛び出してきた。

 足を止める間も避ける間もなく、ぶつかった衝撃でスマホが手から離れる。舗装された地面に落ちた音を聞きながら、それよりもぶつかった相手は大丈夫かとそちらに目を向けた。

 ぶつかったのは二十歳前後の少女だ。よろけただけで済んだ伊澄に対し、尻餅をついている。柔らかそうなココアブラウンの髪は肩を少し過ぎる程度で、片方を耳に掛けてピンで留めているが、ぶつかったせいか少し崩れていた。

 痛みに歪んだ瞳に浮かぶ涙を見て、伊澄は慌てて少女の傍らにしゃがんで具合を訊ねる。


「だ、大丈夫!? ケガはない?」

「……あっ。は、はい。だっ、大丈夫、です。すみません。急いでて、ちゃんと周りを見てなくて……」

「俺のほうこそごめんね」


 彼女は伊澄と一瞬だけ目が合うと、慌てて逸らしてから返した。派手に転けて恥ずかしいのか、耳まで赤くなっている。

 謝る少女に伊澄も謝罪で返し、彼女にケガがないか目視で確認する。地面についた手や半袖故に露わになっている腕、ふわりとした淡い水色のスカートの裾から見える膝など。軽く見ただけだが傷はないと分かり、小さく安堵の息を吐く。

 そこで、伊澄はスマホの存在を思い出した。手から離れて落ちたが、幸いそう遠くにはいっていない。

 立ち上がってスマホの元に向かい、地面に向いたままのディスプレイを確認しようと手に取ってひっくり返す。


「ケガがなくて良かっ、た……」

「……あっ」


 安堵から力なく浮かべていた笑みが、ディスプレイを見てそのまま固まった。ついでに思考も。

 伊澄の異変に気づいた少女は自力で立ち上がると、伊澄が持つスマホを見て固まった意味を理解する。直後、傍目から見ても分かるほど青ざめた。


「わ、割れ……」

「あー……うん。いや、これは……大丈夫」


 咄嗟に出た「大丈夫」だが、全くもって大丈夫ではない。スマホの画面には、右上から放射線状に亀裂が走っていた。叩きつけたわけではないにしろ、場所と落ち方がまずかったのだ。


「えっ。で、でも、弁償……」

「ううん。気にしないでいいよ」


 ぶつかったのは伊澄にも非はある。むしろ、歩きながらスマホを見ていた伊澄のほうが非が大きい。

 あたふたとする少女にこれ以上の不安を与えまいと、伊澄は先に立ち去ろうとスマホをポケットに入れた。


「本当にごめんね。急いでいたのに邪魔しちゃって。それじゃ――」

「……あ!」


 去ろうとした伊澄を見て、彼女は何かを閃いたのか声を上げた。

 反射的に足を止めてしまった伊澄は、何かあったかと振り返って目を瞬かせる。

 彼女はやや迷いを見せてからバッグを漁ると、中から手帳とペンを取り出した。手早く空きページに何かを書くと、大胆にも破って伊澄に突き出す。

 咄嗟に受け取ってしまったメモには、「相馬そうま結衣ゆい」という名前と電話番号が記されている。


「えっ?」

「あああ、あのっ! 弁償はしますので! 分かったら連絡をください!」


 失礼します! と声を上擦らせて頭を下げた少女――結衣は、ぽかんとする伊澄を置いて走り去ってしまった。


「……えっ?」


 大人しそうな少女の予想外の行動に、伊澄は状況を理解するのに数分を要した。



   ◇◆◇◆◇



「ホンット、ごめん!」

「あはは。そんな謝らなくたっていいのにー」


 結衣は待たせていた友人――三浦みうら茉莉まりと合流するなり、両手を合わせて謝った。

 先にスマホで遅れる旨は伝えており、茉莉からは「適当にお店入って待ってるね」と返ってきていた。そして、約五分後には某有名コーヒーショップにいるということが。

 茉莉は泣きそうな結衣の頭を撫でながら、軽く聞いていた彼女に訪れた災難を振り返る。


「でも、ここまで重なるなんてすごいよ。電車は信号機の不具合で遅延、タクシーは交通事故で渋滞、近くまでは来てたから徒歩で向かおうとしたら工事で迂回させられたんでしょ?」

「ううっ……」


 遅れると分かる度、結衣はメッセージを送っていた。結果、予定より一時間近く遅れている。

 最初のメッセージ後、カフェで続報を見た茉莉は飲んでいたキャラメルラテを噴きそうになっていたのだが、それを半泣き状態の彼女に告げるわけにもいかず、そっと胸の奥に仕舞っておくことにした。気休めにクッキーを結衣の口元に近づければ、「ありがとう」と言って素直に口にする。

 その様は餌付けをされる小動物のようで、茉莉は愛でたくなる衝動を必死に抑えた。


「これで今年の悪運は使い果たしたと思っておきなよ。まだ六月の終わりだけど」

「……あと、男の人にぶつかって、スマホ割っちゃったの……」

「えっ。大丈夫?」


 クッキーを食べても浮かない顔をしていたかと思えば、とんでもないものがとどめを刺しにきた。

 他人に被害を出した点も良くはないが、結衣の『あること』を知る茉莉にとっては別のワードが引っかかった。


「『男の人』って……あんた、苦手じゃん」

「すごく優しい人で、割れたの気にしないでいいって言ってくれたんだけど、申し訳なくて……」


 結衣は異性が苦手だった。男性恐怖症とまではいかないが、異性と話すときは決まって言葉に詰まったり、視線を泳がせたりと落ち着きがなくなるのだ。相手が子供ならまだマシだが。

 結衣の反応から相手が子供ではないと察した茉莉は不安になったものの、寛容な人だと分かると安堵の息を吐いた。


「あー……不幸中の幸いね。いいよいいよ。それなら気にしなくて」

「名前と電話番号を書いたメモを渡したの」

「ちょっと待ちなさい」


 何をしでかしているんだ、と茉莉は呆れ混じりに言葉を続ける。


「いやいやいや、気にしなくていいって言ってくれたんでしょ?」

「で、でも、割れちゃったの、私がぶつかったからだし……」

「そこは相手の好意に甘えていいとこ! もう! 真面目なんだか不用心なんだか……いや、両方か」

「ご、ごめん……」


 結衣が異性を苦手としているのは本当だが、だからこそ、彼女は咄嗟に冷静な判断ができないのだ。例えば、学校で男子生徒から何かを頼まれても素直に聞いたり、町中で声を掛けられて連絡先を聞かれたときは、茉莉が止めに入らなければそのまま教えていたところだった。

 茉莉は頭が痛くなるのを感じて、こめかみに片手を当てる。


「はぁ……。あんまり言いたくはないけど、いい加減、異性に慣れないとこの先困るよ? それに、向こうから電話きたらどうするの?」

「…………」

「これを機に、ちょっとは異性と向き合うっていうことをしたほうがいいのかもしれないけど」


 弁償はいいと言ってくれている人だが、後から気が変わる人も山程いる。温厚そうに見えたが、彼がその一人ではないとは言い切れない。また、人を見かけで判断してはいけないと結衣はよく知っている。異性が苦手な原因もそこにあるからだ。

 茉莉の最もな言葉に、結衣は膝に置いた手を握りしめた。


「冷静に考えたら、私、すごく怖いことしちゃった……」

「んー……脅すようなこと言っておきながらフォローするのもおかしな話だけど、最初に気にしなくていいって言ってくれたのを信じるしかないね」


 渡してしまった以上、どうすることもできない。最悪、おかしな方向に進めば、それはその時に考えるしかないのだ。

 茉莉は一息吐いてから言葉を続ける。


「もし掛かってきたら、あたしがいれば代わってあげてもいいけど……うーん、そうだなぁ。とりあえず、頑張ってみようか」

「ええ!」

「これも慣れるための試練よ。もうすぐ社会人になるんだから、これくらい頑張りなさいな」


 まさか突き放されるとは思わず、結衣は縋るように茉莉を見る。その目に弱い茉莉は、しかし、ここで甘やかすわけにはいかないと心を鬼にすることを決めた。


「いきなりハードルが高すぎる……」

「いや、ハードルを上げた本人」


 電話番号を渡していなければ、ここまで悩む必要もなかったのだ。ただ、それはそれで彼女は暫く引きずりそうだが。

 沈んだ結衣の元気を取り戻すためにも、茉莉は立ち上がって言う。


「とにかく、今の段階であーだこーだ考えたってしょうがないんだから、今日は思い切って遊ぼうよ」

「ううっ……。ごめんね」

「謝るくらいなら動く! ほら、しゃきっとしなさい」

「う、うん」


 茉莉は喝を入れるかの如く結衣の背を軽く叩くと、空いたカップや皿を片付けに向かった。

 その背を見ながら結衣は軽く息を吐き、言われたとおり気持ちを切り替えることにした。


「ありがとう、茉莉ちゃん」

「どういたしまして」


 今度、何かお礼をしなければ、と結衣は戻ってきた茉莉の後に続きながら、何が良いかと考えを巡らせるのだった。




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