二日目 「名」
便宜上とはいえ万年筆の神を見たままの人形神と呼称するのは好ましくない。
神の命名は憲法零章を根拠にした神霊法で定められていて、命名基準は概ね三つ上げられる。一つは依巫が考えて名づけること。二つは神社の神主に名づけてもらうこと。三つは神自身が名乗ることである。
神の名は『属性』『名前』『神号』の三つに区切られていることが多い。『属性』とはその言葉通りにどこに属するかで、天に関わればアメやアマとなり、『名前』は人間と変わらない。最後の『神号』は尊称の意で神や尊、大神などが付けられるのだが、近年ではその基準はあまり重要視されていない節がある。
むろん神の威厳としては沿うべきなので、ちゃんとした名を付けるのなら本職の人につけてもらう方が手っ取り早い。神職であればその依り代と神に最も適した名を神社に住む氏神と共に名づけてくれるからだ。
最後の神自身の名乗りは、前二つの名に不服を持った場合や顕現前からすでに考えている場合が多くて、統計的には一番少ない。
その中で特例と言うべきか、少数例と言うべき名づけ方もある。
「……」
もし夢であったならどうしよう、という考えが天井からぶら下がる蛍光灯を見た瞬間に思った。夜遅くまで起きていたこともあって瞼は非常に重いものの、自分の神が顕現した印象が強すぎてその考えが頭いっぱいに過ぎる。
だからこそ夢であったならどうしようの考えが過ぎり、眠気に強く反発して体を起こした。
異変はすぐに気づいた。
「あれ……痛くない……?」
あの灼熱の痛みがまったくしないのだ。
貫之はすぐに両腕を見ると、二倍以上に膨れていた腕がいつもどおりの細さに戻っている。それどころか体中の痛みも綺麗になくなっていた。
「なんで……?」
「おっ、ようやく目を覚ましたな。もう八時に近いぞ」
机の上から声がした。まだ少しぼやける目を凝らして見ると、なにか動く生き物が見える。
「あ、おはよう筆乃命」
痛みが一切消えた両手で顔を拭きながら貫之は呟き、三秒間停止して顔を上げた。
「あれ、今……名前……?」
「……あれであろうな。自分の神の姿を見ると直感的に名が浮かび上がるとか」
呼び名に文字も鮮明に脳裏に浮かび上がった。もうこれしかないと、昨日一日で考えた名前が全て霞んでしまうくらいに、この名前には深みと言うか威厳が感じられた。
直感的に名前が浮かび上がるのは聞いたことがあっても、まさか自分がそうなるとは思わなかった。いざ名づけられると嬉しく思う。
「筆乃命か、うん悪くない。しかしそれでは属性がないから一つだけ付け加えさせてくれ」
筆乃命。フデは名前でミコトは神号。確かにこれでは神名に必要な属性がない。
「でも属性って……」
「貴様に属する持ち物なんじゃ。月宮の月をつけるのが筋であろう?」
「あ……じゃあツキフ……ツキノフデノミコト?」
「だな。うん、気に入った。妾の名は月筆乃命じゃ」
十五年使い続けた万年筆に脈が起こってから一日未満での顕現。そしてほとんど考えられないでいた神の名も直感的に思いついて、しかも気に入ってもくれた。
さすがに神童は言いすぎても、人生の王道には足を踏み入れたのかもしれない。
「よろしく、月筆乃命」
机の椅子に座り、正座をして貫之が目を覚ますのを待っていた月筆乃命に頭を下げた。
「うむ。しかし神の名を言いふらすのはあまり良くない。人前では略称でフミと呼んでくれ」
それは貫之も知っている常識の一つだ。知られたところで困ることはないが、それでも全てを曝け出す印象を持ってあまり好まないらしい。あまし知らない人に苗字ではなく名前で呼ばれるのと同じで、ハシラミも略称で本名は長く堅っ苦しい名前だ。
「分かった。じゃあ普段からフミと呼ぶことにするよ」
「そうしておくれ」
「……よかった。もう二度と会えないかと思った」
月筆乃命の前に置いている万年筆を手にとって貫之は呟く。無いという先入観があるだけでここまで不安を覚えるとは知らなかった。
「さすがに家族が狙うとは思わんからな。仕方ないことよ」
「ごめんね。一人にさせて」
「なに、恨み嫉みは全部佐一に被せるから気にするな」
「そっか。ねぇフミ、起きたら体の痛みが綺麗になくなったんだけど何か知ってる? 指の怪我もないし」
「治っているのならそれで良いではないか」
「それはそうだけど、もしかしてフミの神通力?」
首をかしげ、少し媚びるように貫之は尋ねた。月筆乃命も神の仲間であるなら当然神通力を持っている。万年筆を基準とした力がどうして治癒に繋がるのかは知らないが、違っていたとしてもぜひ知りたい。
「……そんな悠長でいいのか? そろそろ支度をしないと遅刻をするぞ」
言って月筆乃命は机の時計を指差した。時間は八時十分になろうとしていた。
「あ、やばっ!」
貫之はすぐに寝巻きから制服へと着替え、いつもの癖で万年筆を掴む。
「あ、フミ、依り代に戻らないの?」
「依り代の中におると蓋を開けん限り何も見えんのじゃ。だから迷惑を承知で、当面は顕現させ続けさせてくれ」
「え、目に当たるところとかあるの?」
「あるよ。他の万年筆は知らんが妾の顔は筆先が該当する」
「……まあ大丈夫かな。神の独断だったら学校でも文句は言わないだろうし」
話をしている間に制服へと着替え、今日の時間割の教科書を鞄へとしまう。
「じゃあ鞄に入る?」
「そんな人形のような扱いは嫌いじゃ。抱き上げるか肩に乗せるかにしてくれ」
うん分かった、とは即答できずに月筆乃命の願いの果てを想像する。
誰が見ても月筆乃命は神ではなく人形と見るだろう。言動を起こせば分かることだが、数年前に言葉に反応して動く人形で人気を博したことがある。その人形に間違われると月宮貫之は人形遊びをする痛い中学生と定着してしまうかもしれない。
「……分かった。いいよ」
それを踏まえて了承し、机の縁に来た月筆乃命を両手で包むように掴んで持ち上げた。右手で椅子のようにして座らせ、左手で原を優しく鷲づかみにして固定させる。
「うん、極楽極楽」
やはり両腕に痛みはない。いくらなんでも数時間で打ち身以上の怪我が治るはずがない。そしてハシラミの神通力は治すどころか傷つけるから月筆乃命の力なのは八割間違いなかった。
もちろん腕が治ったことを両親はすぐには信用せず、開院一番で総合病院に行かせようとしていたものの、強く腕を握られようと苦痛の顔を見せないことで納得させ、学校へと急いだのだった。
佐一はすでに家を出ていた。
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