一日目 「消」
佐一ィ、貫之ィ、ご飯よー。
「ん……んあ……ん、あ……寝ちゃってた……?」
遠くから聞こえる紗江子の声で、気づけば寝てしまっていた貫之は目を覚ました。
重いまぶたをこすりながら上半身を起こさせると、猫背で寝てしまったがためにピキピキと背骨が鳴る。
どうやら一番難しい問題を解いたところで眠ってしまったらしい。答えの最後の字から線が一本ノートの端まで伸びていた。
「別に疲れてはないのに……なんで寝たんだろ」
昼寝をしてしまうほど昨日は夜更かしなんてしていない。むしろ気持ちよく目覚められたほどだ。なら自分でも気づかないうちに寝てしまうほど疲れを溜め込んでいたのだろうか。
一度大きく背伸びをして、机の照明を落とす。
「佐一ィ、貫之ィ、ご飯だってばー」
一度の呼び声でこないためもう一度呼んだ。
貫之はまだはっきりと意識がしない中で机の上に広がった教科書類をしまっていく。これは紗江子のしつけの賜物で、例え途中でも大きく席を離れる場合は片付けるようにしていて、しないと落ち着かなくなってしまった。
いつもならものの十数秒で片づけを終わらせて部屋を出るはずだった。
なのに、痺れを切らした紗江子が直々に部屋に呼びに来ても、貫之は机の上を注意深く見る羽目になる。
ない。
机の上か、それか筆箱になければならない、今の貫之にとって何より大事な万年筆がどこにもないのだ。
貫之の記憶では日記に書いて筆箱にしまっている。
筆箱になければならないのに見当たらない。例え無意識に出したとしても、机の上になければならないのだ。
せっかく片付けた教科書類をひっぺがえして万年筆を探す。
「貫之聞いてるの!? ご飯だってば!」
机の上を荒らしているところで母が顔を覗かせてきた。
「万年筆がないんだ」
呼んでも来ないことから作る怒り顔から驚愕の顔へと瞬く間に変わる。
この時代に限らず、日本国内で、日本人であれば依り代または依り代候補の紛失に驚愕しない人はいない。家族と同じは当たり前だし、日本が世界でも唯一の神国と堂々と主張できる根拠でもあるのだ。諸々の意味を持って依り代と依り代候補の紛失は一大事に値する。
「どこで失くしたの!?」
「寝る前に日記で使ったんだ。だけどうたた寝しちゃって、起きたら……」
「ならあるはずよね。探しなさい。今すぐ探しなさい!」
夕食より依り代は当たり前だ。中には学校や会社すら休むと言うのだから、貫之も空腹なんて忘れて机の全てを整理し始める。
元々散らかってない机。整理する前から見えないのは分かっていて、全ての種類ごとに分けても万年筆はなかった。使い慣れている日記帳にも挟んではいない。もしかしたら落としたのかもと、災害時に供えて常備しているLEDライトを点けて机の足元を寝そべるようにして探す。少し埃っぽいそこには、鉛筆や消しゴムの欠片は転がっているが万年筆はなかった。
「……ひょっとして、顕現して勝手に出歩いた?」
貫之の中に二つの案が出る。
何年も培われた習慣の変更は中々に難しい。そもそも最後に使ったのが日記だから筆箱以外には絶対にありえないが、念のため制服をまさぐるがもちろんない。
なら可能性として出るのは、『自力で出歩いた』か『盗まれた』の二つ。
前者は顕現を果たした神が依り代を手にして出歩くことだ。神は依り代の化身で、その都合上依り代から離れることが出来ない。それを解消するために神は単身で依り代を持って出かけることがある。ハシラミのように掴む手がない神々はどうしようもないが、掴むか銜える口があればありえないことではない。
だが、神の顕現の大原則で依巫から注がれる様々な情がある。依巫が神の顕現を楽しみにするように、神もまた依巫との逢遇を楽しみにするはずなのだ。負の情ならまだしも、愛に類似した情を受けたのならば、顕現した神のほとんどが依巫と話をしたいはずだ。
つまり、貫之が寝ている間に顕現をしたのなら、真っ先に神は起こすか待つはずなのだ。もちろんそんな考えなんて無視して唯我独尊で移動するかもしれないが、今度は専業主婦である紗江子が気づく。
なら考えられるのは盗まれた。
しかし誰に?
今朝、脈が起きていることに気づいて、そのことを知っているのは月宮家全員と同級生の古川緋夜の女子一人だけだ。
直感で考えれば古川でも彼女が狙う理由がない。いつ顕現するかも知れず、しかも万年筆の神だ。わざわざ危険を冒して盗み出すとは思えない。
それ以前に、良心的な日本人であれば依り代に手を出す危険性は重々知っているだろう。
憲法に神でさえ依り代に手を出す事は禁止なのだ。それは同時に人用の法律もある。
盗めば一億円級の窃盗に匹敵し、故意の破損は放火と同等だ。最悪死刑もありえて、依り代の重さは幼少の頃から教えられている。
世間を賑わせている神隠しも狙わないだろう。いくら最後に目撃された風寺市がここ草間市の隣町で、仮に有能な力を秘めていようといつ顕現するのか分からないものを盗むのは不合理だ。それにハシラミは動物的感覚が高く、敷地に入るだけで察知してくれる。
貫之は机の椅子に座り、起きたばかりでまだ回らない頭を最大限に回転させて答えを出す。
一人しかいない。
いくつか出た状況証拠だけで犯人に当てはまるのは二人。そして動機を出せばたった一人だ。
貫之は握りこぶしを作った。爪が手のひらに食い込んで痛みを訴え、それを上回るほどの憤激がその信号を遮る。
いくら関係が良好な家族同士であろうと、自分に神がいないからと弟の依り代候補を盗むのは言語道断だ。勘当に値すると言ってもいい。
しかし証拠がない。
今ある情報だけだと万年筆を盗んだのは兄の佐一しかいないが、その証拠がない。前々から八百万の神々が欲しいとぼやいていたし、依巫になると自然に女子に人気になれると不純な欲も知っている。
内心では佐一で間違いないとしても、佐一が貫之の万年筆を持っている証拠がなければ逆に非難される。佐一のことだ、絶対に弱みとして散々いいように使うに決まっている。
「貫之、万年筆は見つかった?」
夕食中だろうと気になった紗江子が襖を開けて顔を覗かせた。
「……母さん、兄ちゃんっていつ帰ってる?」
「三時くらいに帰ってきてるけど」
いつもなら九時過ぎに帰ってくるのはざらなのに、今日に限って異常に早い。
すると紗江子は貫之の考えを悟ったのかハッとした顔を取った。
「もしかして、佐一が?」
脈が起きていることを知っていて、盗むだけの動機があるのは憲明と佐一だ。ただ、憲明は一家の大黒柱だ。いくら佐一の倍の年月を生き、神の顕現を誰よりも熱望しているのに息子に先を越されてしまおうと、息子の宝を盗み出すような性根の腐った人ではないと確信している。
家族を疑うのは、佐一に限って特に心苦しくなかった。
なにせ兄と言う立場を利用して弟の貫之から略取をし続けたのだから恨まない方が無理だ。
小遣いに始まり、お年玉や本、ゲームと「あとで返すから貸してくれ」と許諾なく持っていっても戻ってきたものは少ない。そして返せと言うと「うるせー、まだ使ってんだ!」や「返却期限決め手ねーだろ」とどこぞのガキ大将のような子供の言い草を繰り返す始末。
計算では十万円分以上は取られただろう。
親に言って取り返してもらう考えは前々から出ていたが、他人ならまだしも家族のことまで親に頼るのはと貫之の自尊心がそれを止めた。だから両親は佐一が略取をしていることを知らない。せいぜい仲が悪いことくらいで、今回初めて内容が重過ぎることから訴えに出たのだった。
「多分間違いないよ。兄ちゃんも同じ万年筆を持ってたし、僕以上に神様を欲しがってたから」
「いくらあの子でも、弟の依り代を盗ることなんてしないと思うけど……」
それは佐一が影でどれだけ貫之から略取をしていたのか知らないからこそ言えることだ。
とはいえ今ここでそのことを話しても、佐一を犯人に誘導しようとしか思われない。少なくとも親の前で粗暴の悪さは見せても犯罪的な行動は一切見せていないのだ。
変なところで信用を培ってきたから、合点はいっても紗江子はどこか否定的な顔をする。
「少なくともこの部屋にはないよ。襖の中とかダンボールの中に入れるなんてありえないから」
万年筆の定位置は決まっている。そこになければ部屋中の物を外に出し、一つ一つ吟味しながら収納しても出ては来ないだろう。
「だからって佐一を疑うのはねぇ」
「もしあったら?」
「あったらお父さんと話して決めるわ。でも証拠はないんでしょう?」
盗んだとして証拠を残すようなへまはしないだろう。夕飯の隙に佐一の部屋に忍び込んだところで探し出すのは困難だ。
ラジカセくらいなら探せても、万年筆となると服の隙間に隠す事だって出来るのだから。貫之の部屋より狭くとも、万年筆に対して部屋の体積はあまりにも広い。
「母さん、兄ちゃんを前提にしたらどうやって証拠を見つけたらいいかな」
親の心情は分かっても背に腹は変えられず、貫之は佐一を犯人として相談をする。
「佐一が万年筆を使っているところを見るしかない……? あ、でも自分のとか自分のにも出たとか言ったらとぼけられるわね」
佐一が犯人と結びつける困難さに合わせて、貫之と万年筆の結び付けの困難さも出てきた。
万年筆には貫之しか知らない傷や名前なんて物はない。万年筆から貫之に結びつく証拠がなければ、佐一の物と言われても貫之には否定のしようがないのだ。脈だってありえないが、最近買って今日出たんだと言われればそれまでだ。買った当日に脈が起きた例は少なからずある。
それを覆すには心理系神通力しかない。
「母さんの知り合いで心理系の人っていない?」
「いないわよ。いたって教えないと思うわ」
心理系は無数にある力の中でトップの人気がある。相手の心を読み、さらには書き換えて思い通りに動かせる場合もあるから、欲しい人はほぼ全員だろう。だから噂が出てしまうと一人歩きして大変なことになる。
「ハシラミに頼んで調べる?」
この家の中で最大の権力者は包丁の神のハシラミだ。実質はその上位として依巫の紗江子がいるが、法的にはハシラミが上で三つの条件を除いて何でもし放題である。しかも月宮家においてその三つの内二つが満たせないから最強の存在と言えよう。
「ハシラミは最終手段で、なんとか自分で探してみるよ」
それがなにより手っ取り早いのは事実だ。粗暴な佐一でもハシラミに対しては極度のトラウマがる。昔、悪ふざけで依り代にイタズラしたことで本気でキレたハシラミに半殺しにされたことがあった。しかも自分の依り代候補である万年筆を壊した直後だから尚更だろう。
幸い傷は残らなかったが、佐一はその件以来ハシラミには一切逆らわなくなった。
よってハシラミが一言、部屋のガサ入れを要請すれば許すだろう。たが、安易に頼んでしまうのはどうかと貫之自ら自制を掛けた。
万年筆の神は十五年の年月と月宮貫之の情を受けて魂を抱き、ついに肉体を作り始めた。そんな神が宿った依り代を不注意で盗まれ、その奪還を自力ではなく他の神に頼めばどうだろう。喜ぶだろうか。いや、自分が神なら助け出せなくてもせめてあがいて欲しいと思う。
「……じゃあひとまず夕飯食べて」
二階に行くには台所と居間の間にある階段を上らないといけない。絶対的に佐一の前を通って二階に行くから夕食の間に行く考えは出せなかった。行くなら風呂か、彼女にでも呼び出された間にだ。
居間に出ると佐一一人が黙々と夕食の赤飯を食べていた。テレビの前にはハシラミがいて、足を使って番組変更をしている。
「……いただきます」
見向きもしない佐一を一瞥し、貫之も席に座って箸を手に取る。
紗江子も定位置に座って夕食が始まる。父の憲明は仕事がいつも長引いて八時近くに帰ってくるからいつも二人っきりだった。今日は久しぶりに三人による夕食だ。
テレビに視線を向けるほんのわずかな時間で佐一を観察するが、特に変わった様子は見られない。
「そう言えば佐一、あんた貫之の部屋に入ったりした?」
ふとテレビに背を向ける紗江子が呟いた。貫之の息が詰まり、危うく豆が気管に入りかけた。
「別に入ってねーけど? なんで?」
カマ掛けをしたのだろう。動揺を誘う質問に佐一は別段変わらない返事をする。
「アンタが入るところ見えた気がしたのよ。入ってないならいいわ」
罪悪感から動揺を誘うのは無理だ。今まで散々略取を繰り返して平然としてきたのだ。きっと佐一にとって貫之から物を取るのは日課の一つにすぎない。
早く食べ終えた佐一は立ち上がると食器を持って台所へと向かう。
どうやって確信を得るか――。
「――貫之、ゆっくり食べないと太るぞ」
その、家族として当たり障りのない一言を聞いた瞬間、理屈ではなく直感で確信した。
佐一が盗んだ。
その一言に盗んだ意味合いは何一つない。しかし、物心が付いた頃から佐一を見続け、辛酸をなめ続けていた貫之にはとにかく分かった。
万年筆は確実にこの家にある。
そして万年筆の神は不安に満ちていて、いつ助けに来てくれるのか待っているはずだ。出来れば今すぐにでも佐一の部屋に乗り込み、大掃除のような勢いで徹底的に調べ上げたい。が、そんなことをしても悪役になるのは貫之で佐一の思う壺だ。
佐一に見せないよう握りこぶしを作り、最大限の自制を掛けて嬉しくない赤飯を平らげた。
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