第37話 走り回った一日

 初めての体験はお帰りなさいの声とともに出迎えられた。ご主人様呼びをされたのは初めてだ。

 一人用の席に案内され、ようやく腰を下ろすことができた。外観からしてさほど大きくはなかったが、中は思った以上に狭い。大柄な男性が隣同士だと、くっついてしまいそうだ。

 重たいものを口にしたい気分でもなかったので、クリームソーダを注文した。

 緑色の液体の上にアイスクリームが乗っていて、チョコレートで飾りつけされている。

「これはクマですか? 可愛いですね」

 女性は固まり、ネコだと言われた。余計なことは慎もう。

 魔法をかけますと言われたので丁重にお断りをしたら、さらに丁重にお断りをされてしまった。仕事なのでしなくてはならないのだろう。にゃんにゃんパワーなるものをかけて頂き、お礼を言う。どんな形であれ、こういう気持ちは嬉しいものだ。

「人気ナンバーワンのあいにゃんさんって、ずっと来てないんですか?」

「ええと……そうですね」

 煮え切らない態度だ。俺の勘が正しければ、何かあったとしか思えない。

「連絡が取れないのなら、警察の方に連絡をした方がいいですよ。何かあってからだと遅いですし」

「そうですよね。いつもはすぐにくれるのに」

 うまい具合に話に乗ってくれた。彼女は数日休んでいて、連絡が取れなくなったのは今日になってからか。貴重な情報だが、どうやって彼女を捜し出すかだ。

 おそらくであり、多分とつくほど不確かで根拠はないのだが、攫われたとしか思えなかった。俺の部屋にあったチラシを見て、嫉妬に駆られた重野氏がメイドの彼女をどこかに閉じ込めた。不法侵入をするような男は、まともな感性を持っているとは思えない。

 であれば、どこにいるかだ。彼女の家を聞き出すわけにはいかないし、重野氏と連絡は取れない。

 安易な考えだが、マンションが一番心当たりがある。そして俺は場所を知っている。大好きなアイスクリームを食べ、ソーダを一気に飲み干した。喉がぴりぴりして痛い。

 勘定を払い、店を後にした。薄暗くなり始めた空は不気味で、これから起こる未来の色でないといい。

「落ち着け……落ち着け俺。大丈夫だ」

 臓物のどれかが悲鳴を上げている。口から飛び出てきそうだ。重野氏のいるマンションを見上げただけで、吐きそうになっている。深呼吸は落ち着くどころか、目がおかしくなってくる。

 重苦しい気持ちを抱えたまま、階段の踊り場に差し掛かろうとしたときだ。暗闇の中で大きな影が動いた。脇を締めて立ち止まると、相手も息を呑んだ。互いに緊張に包まれた。

 だがすぐに緊張は解けていく。俺はこの匂いを知っている。香水の香りはしないが、体臭も人それぞれ個性があり、この匂いは安心するのだ。

「なんで……いるんだよ……」

「フィアンセのことは何でも分かる」

「投げやりすぎだろ……俺、もしかしてGPSでも埋め込まれてる?」

 ニヒルな笑みを浮かべるだけで、返事はない。

「お前のしていることは、命に関わる重大案件だと理解しているか? ストーカーの家に来るなんて、殺されにきているようなものだ」

「おっしゃる通りです……。でもなんで先回りできたんだ? マンションの場所なんて教えてないだろ?」

「調べる時間は充分すぎるほどあった」

「まさか探偵を雇ったり……なわけないよな」

「いい線だ。とっとと外に出るぞ」

 まさかあのサングラスの男性たちか。

「お前はただの大学生だ。逮捕の権限もなければ、不法に余所様の家に侵入する権限もない」

「分かったよ。出よう」

 ルイは怪訝そうに階段を下りていく。

「やけにあっさりだな」

「え? そうか?」

 あいつの恐ろしさは俺がよく知っている。ここは引き下がるに限る。それに、ルイの顔は見られたくない。ルイ自身も店自体も何かされたらと思うと、恐怖で足が竦んでしまった。

 帰りの足で交番に寄り、ことの発端からすべて説明した。ストーカー被害に合っていたこと、家に入られた形跡があること、元バイトの連絡先、名前、メイド喫茶の女性についても、だ。チラシがなくなっていて、攫われたのかもしれないと思い、マンションに行ったこと。

 ルイもなぜその場にいたのか聞かれ、俺の携帯端末のGPSを辿ってきたという。良かった、体内には埋め込まれていない。

「何もかもが遅すぎる。なんでここまで放っておいたの?」

 お巡りさんに呆れられてしまった。重野氏からきたメッセージを保存しておいたが、今見ても恐ろしい内容だ。

 やっと被害届を提出して、またしばらく店の地下でお世話になることになった。ルイに謝罪と感謝を述べれば、何を今さらとため息を吐かれた。

「私やユーリは時間もお金もある。長く生きてもいる。志樹と比べ土壇場で動けるのは私たちで、お前は黙って勉強していろと前にも言ったはずだ。余計なことはするな」

「けどさあ……ここまで俺の人生に関わってくれて無関係とは言わないけど、やっぱり俺の問題なんだし。ルイだってストーカーにつきまとわれたらどうする? 俺に言う?」

「言わない」

「うわ……」

「言うと思うか?」

 うん、ルイはこういう笑い方も似合う。冷酷な笑い方に見えて、一番奥になんとかフラッペみたいな甘ったるいものを隠している。

「フラッペ?」

「あれ? 独り言聞こえた?」

「フランス語が語原の言葉だ。空き時間に調べてみるといい」

「うちの店ってデザートもっと増やせばいいのに」

「今までひとりだったから手が回らなかったのもある。コンロがあっても、私はまともに料理ができん」

「味がよく分からないって辛いな。俺が作ろうか?」

「お前が?」

「なんだその顔。一人暮らしもそこそこ経験してるし、一応できるんだぞ。でも店に出すってなると話が違うよなあ。調理関係の仕事はしたことがないし」

「ユーリに味見でもしてもらえばいい。具体的な調味料など細かく分かれば、……志樹が辞めても私でも作れるかもしれない」

 人間は心への負担が大きくなればなるほど頭に音が届かない。

 そうだ。俺は今、大学生で、受験生だ。いずれアルバイトも辞めて、職を見つけなければならない。ルイの言う勉強には、就職活動の仕方も勉学のうちなのだろう。

 ルイが何か続きを話しているが、今日は月がきれいだなあとか、都会では星が見えないとか、現実逃避が俺の逃げ道だ。

 当たり前の幸せが、いつまでも続くわけじゃない。


 ビルの前でルイと別れ、俺はさっさとシャワーを浴びてベッドに横になった。今日一日で数か月分の疲労が全身を襲っている。案の定、布団を被った瞬間に眠りについた。

 翌日に目が覚めたときは、すでに昼近い時間帯だった。

 光のない地下室でも、ある意味自分のアパートよりも居心地が良い。

 テーブルの上にはおにぎりが乗っている。それと野菜スープ。冷たいままでも充分美味しいし、おにぎりの中にはからあげが入っていた。塩味が利いていて、味付けがちょうど良い。

「ようやくお目覚めですか。昨日はお疲れ様でした」

 部屋に入ってきたのは、俺とルイの上司だ。

「いろいろとすみません。ご迷惑をおかけしました。それと朝食ありがとうございます」

「おや、なぜ私が作ったと?」

「ええと……味付け的に、そうかなあと……」

 カクテルのいろはを叩き込んだユーリさんだ。ルイの味覚については知っているが、口にはできなかった。

「ああ、聞いたのですね」

「はい」

「私もルイから聞いています。料理を作って味を見てもらいたいとか。悪くない発想だと思いますが、あなたにそんな時間はあるのですか? 勉強もあるでしょうし」

「ぐさっといろんな方向から刺された気分です……」

 よく眠れたとはいえ、昨日の今日で悩みが解決したわけではない。むしろ卒業までずっと続くのではないかと、もやもやがたまる。

「私はあなたよりずっと先を生きているのですよ」

 ユーリさんは紅茶二人分入れ、片方を俺の前に置いた。

「ため息を吐いていないで、話してみなさい」

「ちょっと将来について悩んでるんです。就職のこととか、未知の世界すぎてついていけなくなってます。社会人への道って怖くてたまらないんです」

「フランスまで追いかけていった人がよくそんなことを口にしますね。将来の方がよほど手に掴みやすいでしょうに」

 まったくもってその通りだ。返す言葉が見つからない。

「前ばかり見ていないで、たまには後ろや横を見ても構わないでしょう」

「横?」

「ええ。あなたの隣には誰がいますか?」

「……ユーリさん?」

「正解です。あなたはカクテルを作ったことはありますか?」

 考えたことはあるが、考えないようにしていた質問だ。ユーリさんは俺の考えなんてお見通しだと、口元が笑っている。

「ルイはあなたに作らせなかったのですね」

「俺も作りたいって言わなかったんです。でも製法についてや、グラス、ワイン、リキュール、たくさんのことは学びました。ルイは教え方がすごく丁寧だし、俺が悩んでいればいつも根気強く粘ってくれました」

「残念ながら、あの子は説明しかできません。味が分からないものですから、歯痒く思っているのでしょう。本日の夜は空いていますか?」

「大丈夫です」

「お給料を出しましょう。カクテルの作り方について教えて差し上げたいのです。悪い案ではないと思うのですが」

「いいんですか? 願ってもないことですが、ちょっと待遇良すぎなんじゃ」

 池袋で働くにしては、とんでもないお金を頂いている。広告を出したら、貧乏大学生ならば誰でも食いつくだろう。

「仮にも息子のフィアンセです。仮にも」

「それしかルイを救える方法がなかったからですよ。隠してるだけで今のルイに好きな人がいるかも分かんないし、実は結婚してたりして」

 ベルナデット嬢を好きだった場合、俺は完全なお邪魔虫だ。

「それはあなたの言い分ですがね。それと本日は家にいてもらいます。理由は分かりますね?」

「…………はい」

「重野カズアキ氏と鉢合わせにならなくて本当に良かった。きっとあなたと彼は巡り合わせが悪い星の下で生まれたのですね。花岡さんの家に忍び込んだ形跡があります」

「やっぱり……」

 チラシがなくなっていたのも、気のせいではなかったと確信が持てた。

「もう一度、あなたに話が聞きたいと警察の方がいらっしゃいます。ストーカー本人か確認したいそうです」

「分かりました」

 メイドの女性もまだ見つかっていない。俺はいろんな人を巻き込みすぎている。

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