第17話 人の想いは交わらない
テレビで流れるニュースをしかと頭に叩き込み、頬をおもいっきりひっぱたいた。
過去の悪魔にケリをつけたわけではなくても、数本の牙は取れた気がする。心残りがあるとすれば、家で孫の帰りを待ち続けている優しい家族の存在だ。祖母と重なる糸目を思い出すと、背中を向けたくなる。
アナウンサーが河野容疑者が逮捕と言うたびに、俺の行った余計なお世話も無駄な努力ではないと思いたいし、俺の生き方を尊いと称賛してくれた人のために、取れた牙を捨てずに握り、前を向きたい。
「よし!」
そのためには、期待に応えようと思う。大型書店に寄り、『世界のカクテル』というシンプルで分かりやすいタイトルの本をゲットした。実に単純な思考回路。講義の前に少し読もう。
「カクテル……?」
女性クールビューティー代表、奥野七海さん。ちなみに男性代表は、当然ながらルイである。
「ついに作らせてもらえるようになったの?」
「まさか。でもお客さんに聞かれることが多くて、ちょっとは勉強しとこうかと」
「へえ。努力は必ず実るとは限らないけど、いつかきっと役に立つときがくるわよ」
「現実的な褒め言葉をありがとう」
シンプルに嬉しい。彼女の言うことも分かる。努力は実るときの方が少ない。けれど努力しなければカウンターには立てない。努力の方向を間違えずに、ルイはまっすぐに突き進んだのだろう。
「奥野さんは最近どう? 恋愛的な意味で」
「……………………」
「あの、よければ、講義の後、一緒に、昼食どう?」
「なんで誘い方がロボットみたいなのよ」
慣れてないんです、ごめんなさい。
「たまには私の話に付き合ってくれる?」
「も、もちろん」
今日は講義が身に入らない日だ。そして時間の経過が遅い。ブラックホールにでも呑まれた可能性がある。今日は宇宙について英語で講義を行う日だ。ただ聞いているだけの講義と思っていたが、最近になって考え方が変わった。ルイが「耳を鍛えなければ言葉は覚えない」と言い、目をこする講義もしっかり耳を傾けるようになった。一緒に講義を受ける奥野さんは、どのレベルなんだろうか。将来の夢も、俺は知らない。
俺はポークカレー、奥野さんは生姜焼き定食を頼み、向かい合って腰を下ろす。
「話の続きだけど、玉砕したわ」
「まさか告白したの?」
「私の好きな人が、テニスサークルの先輩に告白。先輩は他に好きな人がいると言って断る。以上」
双方からの玉砕だ。話を聞くだけでも痛々しい。
「なんでこう、うまくいかないんだろうなあ。うまくいってたら苦労はないんだけどさ」
「花岡は好きな人ができたら、大事にしてあげればいい。例えそれが女性でも男性でも。恋愛的な意味は別としてもね。私のように、友人関係すらギクシャクしないように」
大事な人と聞くと、人種多様にいろんな顔が浮かぶ。仏壇で眠る祖母だったり、目の前のクールビューティーだったり、姉だったり……バイト先の店長だったり。
「奥野さんって
「闇深き言葉ね。縛られた生き方しか知らなそうな人」
ルイと話していて寂しいと思うのは、俺を見ていないんじゃないかと思うときがある。ほんの数秒で俺の元に戻り、そしてまた別の世界へ行く。もしかしたら、人捜しと何か関係があるのか。
「もしその人を解放してあげたいと思うのなら、花岡が道を作ればいい」
「そんな大それたこと、俺にはできないよ。詳しい事情も話してもらえないし。けど困ったことがあれば、助けになりたいと思う」
俺が道を作る。卑弥呼様にでもなった不思議な気分だ。天候を読めなくても国をまとめられなくても、ルイの力にはなれるだろうか。俺が出来ることといえば、掃除とちょっとした料理を作ることくらいだ。あとはお酒の味見。ルイの作るカクテルは美味しい。
「聞いてもらえてすっきりしたわ。またね」
結局俺の話になってしまったが、奥野さんの顔が幾分か冴えた表情になったので、まあよしとしよう。残りのポークカレーをかき込み、舌が足りないとぼやくので、今日の夕食もカレーに決定した。けれど味変のために、肉ではなくシーフードを使おう。
大学を出て横断歩道を渡ろうとした矢先、後ろから手を掴まれた。掴まれるのもそれに反応を起こすのも咄嗟であり、俺は振り払って後ろを見た。
「……どちら様ですか?」
見覚えがあるようなないような人だ。ジーンズにシャツという実にシンプルな格好で、俺と年齢はそう変わらないように見える。
「あの、奢るのでちょっとお話させてもらえませんか?」
「どなたですか?」
「奥野七海さんのちょっとした関係者……って言ったらいいのかな……うーん」
「奥野さんの?」
曖昧な言い方だけれど、俺に興味を持たせるには充分な答えだ。
「非常に、非常に困ってます。なんとか助けて下さい。俺は平川といいます」
「花岡です。相談事ってなんですか?」
「……れ、恋愛相談です……」
下の名前すら分からない関係性の俺に、まさかの恋愛相談。もう少し質問をすると、俺の一つ上だという。
チェーン店のコーヒーショップに入った。相手の男性は妙に落ち着かない様子だ。
「すみません……こういうカフェって慣れてなくて」
デート慣れしていて彼女を連れてきそうなイメージだったのに。人を見かけで決めるものではないと自分に憤怒した。俺は面白そうという理由で、豆乳ティーを注文した。彼はホットコーヒー。珍しいものに手を出さないタイプらしい。
「それで、恋愛相談でしたっけ。俺に相談しても何もアドバイスはできないですよ」
「いや、大丈夫です。花岡さんしかできないんで」
その妙な信頼感はどういうことだ。
「
「水橋有栖……いや、知らないです」
「えっ」
え、とはどういうことだ。こちらが言いたい。知っていて当然という反応をされても、フルネームで言われても覚えのない名前だ。
「ああ……すみません。繋がりがあって、知っていると勝手に思い込んでいました……」
「本当に知らないです。個性的な名前なんで、聞いたことがあれば多分忘れないと思うんですけど」
「奥野七海さんの、親友みたいなんです。水橋さんは、よく奥野さんの話をしています」
「奥野さんと平川さんは、面識があるんですか?」
「あなたと食堂でご飯を食べているところを目撃はしたことがあります。あとは、テニスサークルを見ていたり」
「……もしかして、テニスサークルの人?」
「はい」
一本の線で繋がりそうなのに、ここぞという肝心なものが見えてこない。あと少しなのに。
「その……仲を……取り持ってほしくて」
「ん? 誰と誰の?」
「俺と……奥野さんの」
熱湯につけたタコみたいに、耳が赤い。
「つまり、平川さんは奥野さんが好きなんですか?」
「そんな、はっきりと……」
「いやいや……ちょっと待って下さい。どうして水橋さんが出てくるんです?」
「少し前の話になるんですが……実は、水橋さんに告白されたんです。でも好きな人がいるから断りました」
曲がっていた糸がまっすぐに伸びた。
頭はすっきりしているのに、濁った水が溜まっていく。
「ああ……そういうことか」
独り言は平川さんの耳に入り、彼は持ち上げていたカップを下ろした。
俺友達の奥野七海さんは、テニスサークルの中に好きな人がいるといった。奥野さんの好きな人は先輩に告白して、玉砕した。平川さんの話を繋げると、告白された先輩イコール平川さんは奥野七海さんが好き。なんというそれぞれの一方通行。俺の視野の狭さにも、悔しさが滲む。なぜ彼女の想いに気づいてやれなかったのか。
「面識のない奥野さんを、どうやって知って好きになったんですか?」
「彼女はいつも黒い服を着ていて目立つでしょ? 髪も黒いし全身黒ずくめだし。怖い人が入ってきたと思ったら、花岡さんといる彼女はよく笑っている」
「ギャップというやつですね」
「はあ……まあ、ですね。付き合ってるんですか?」
「友達です」
「もしかして、俺に遠慮して好きって言えないわけじゃ」
「そりゃあ綺麗な人だし、一緒にいてドキドキはしますけど、そういうのじゃないかと。すみません、なんだか相談に乗れないです」
「や、やっぱり……」
「そうじゃなくて! 俺の頭が混乱しているんです。上手く説明はできないけど!」
言えない。奥野さんはあなたに告白した女性が好きだなんて、絶対に口に出せない。相談してくれた奥野さんのためにも、絶対に墓場まで持っていく。地獄に落ちて火炙りにされたって、口を割らない。
「見たところ、奥野さんと仲が良い人はあなただけなんです。もし好きな人がいるなら、俺も相談に乗ります!」
「なりふり構っていられないんですね……よく分かりました」
好きな人。走馬灯の如くいろんな顔が浮かんでは消える。
「と、とりあえずお互いに落ち着きましょう。そうだ、連絡先を交換しませんか? メールでなら空いた時間にでも相談に乗れますし」
いろんな登場人物が現れるが、水橋有栖氏については何も知らない。奥野さんと一緒にテニスサークルのメンバーを眺めたが、女性にはほとんど注目していなかった。
鞄に入れっぱなしだった端末は、左上にメッセージを知らせる通知が届いている。見るのが怖いが、開けないと。
──は
「は……?」
「…………は?」
「いや、なんでも……」
日本人よりもしっかりとした文章を綴る彼が、たった一文字を送るなんて。胸の奥を見えない力で強く押された感覚が襲う。あかり嬢のことがある。あのときも心臓の音がおかしくなり、アルバイト先へ向かうと、彼は警察に囲まれていた。
立ち上がると豆乳ティーが波を打つ。突然のことで、平川さんは小さく縮こまった。
視線はさ迷わず、前方斜めに釘を刺された。
見慣れた後ろ髪が見えた。水色のリボンで長髪をまとめ、知らない男性と座っている。目立つ。とにかく目立つ。
「ど、どうしました?」
仕事の話かもしれない。交友関係かもしれない。俺が挟んでいい場面じゃない。
おかしなことに気持ちと身体は一致しないときがあるらしく、足は彼の元へ動いてしまっていた。
「ルイ…………」
名前を口にしても、彼に驚いた様子はない。むしろ前に座る男性の方が驚愕している。多分、ルイは俺が同じ空間にいることを知っていたのだ。それであんな摩訶不思議なメールを送ってきた。
どうする? どうしたらいい? 浮気現場を目撃したかのように、俺の背筋はおかしなことになっている。まっすぐ伸びているのか蛇のように曲がっているのか感覚がない。
赤みがかった目がこちらを見た。ルイの目をしっかり見ることなんてない。片目は隠されているし、いつもすぐに逸らしてしまう。
「あ……あのさ……、」
落ち着かなくなった手は身振りを交えて服や鞄を擦る。
閃いたのは、彼のから借りたタオルがあるということだけだった。
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